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和やかホテルの思い出‐名古屋ホテル③

前回の続きに入る前に、広小路通りと名古屋ホテルの位置関係がよく分かる絵葉書を入手出来たので紹介します。

6.絵葉書-広小路通り

広小路通り

納屋橋から東を見た広小路通りの眺めです。
右手奥に小さく見えているのが松坂屋。大正14(1925)年に各店舗の商号を「いとう呉服店」から「松坂屋」に変更・統一しているため、この絵葉書はそれより後のものと思われます。
中央、尖塔のある建物の奥に見える住友銀行名古屋支店の竣工もほぼ同じ頃でした。

左手前の地上3階地下1階の細長い建物は加藤商会ビル。貿易会社のビルとして建てられ、一時期はシャム国(現在のタイ)の領事館事務所でもありました。絵葉書に写るビルは初代のもので、現存しているのは昭和6年にほぼ同じデザインで建て直された2代目。修復された後にタイ料理レストランとギャラリーが入り、広小路に面する正面玄関はアールを描いた美しい姿を見せてくれています。

現存する旧加藤商会ビル
玄関側

絵葉書の中で、名古屋ホテルはこの加藤商会ビルの左奥で見切れる位置にあります。

広小路から少し入った所ですが、こうして上の方から見るとまだ周辺に4階建以上の建築は殆どありません。名古屋駅から納屋橋の方へ向かう時、ホテルは目立って見えた事でしょう。
大まかな位置関係を確認した所で、昭和に入ってからの名古屋ホテルについてもう少し掘り下げていきたいと思います。

7.パンフレット-昭和10年頃

昭和10(1935)年 パンフレット表紙
和やかホテルの御案内

昭和10(1935)年10月発行のパンフレットです。
裏表紙の地図を見ると名古屋駅だけでなく、主要観光地にもアクセスしやすい立地であった事が分かります。他のラベル類と同様、表紙には名古屋城や熱田神宮のイラストが描かれていました。

かつて名古屋城と並んで名を馳せていた名古屋ホテルの展望台、ペパーカスタータワーが撤去されていなければそのイラストが採用されていたかもしれません。

この頃の名古屋ホテルの最安値は下記の通り。

昭和10(1935)年 名古屋ホテルの料金表

・シングル(バス無し)1人1室3円~

一方、大阪ホテルのパンフレットを見ると、

昭和6(1931)~昭和10(1935)年 大阪ホテルの料金表

・シングル(バス無し)1人1室5円~
となっていました。
少し年代に幅がありますが、大きな変動がなければ、食事を付けた場合でも大阪ホテルより名古屋ホテルの方が少しだけ安価で宿泊できたようです。

パンフレットには舞台付きの大広間(上中央写真・バンケットホール)での披露宴も紹介されており、ホテルの華やかな時代を象徴するような1冊でした。

宴の様子


8.絵葉書‐戦前の外観・内観

こちらは封筒に入った状態で販売されていたもの。少し凹凸のある紙で、写真もかなり鮮明に写っています。

外観 玄関部
ホール・事務所(ロビー)
庭園

ここまでの3枚がパンフレットに掲載されているものと全く同じ写真。絵葉書の発行が先かもしれませんが、昭和10(1935)年前後のものと言えそうです。

中庭
寝室

寝室の絵葉書は奥にバスルームらしきものがあり、少しグレードの高い角部屋かと思われます。天蓋やカーテンボックスは他の客室も同じ仕様だったのでしょうか、シンプルながら特別感のある空間です。各客室の様子を知りたくなる絵葉書でした。

絵葉書が入っていた封筒

ちなみに館内の様子は、『Hand book of information about Nagoya and vicinity for tourist』(名古屋ホテル)と言うガイドブックでも確認出来ます。こちらはまだインターネットでの公開が許可されていないものですが、デジタル化資料送信サービスに参加している図書館内では閲覧可能です。ご興味がある方は是非ご確認ください。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1900976


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

昭和16(1941)年、姉妹会社であった今橋の大阪ホテルが建物を売却・宿泊部門に幕を下ろすと、名古屋ホテルは大阪ホテルとの資本的な繋がりを解消して実質的な独立を果たします。 

前回の記事でも触れましたが、名古屋観光ホテルの開業により名古屋市内のホテル事情は大きく変わりつつありました。
国の政策の一環として、最新の洋式設備や宴会設備を備えた大規模な都市ホテルの登場。これに対して名古屋ホテルは日本式設備の充実や文化性を大事にした改修を行い、新しいホテルとの競合を避けようとしました。
パンフレット内で「和やか」「名古屋」をかけていましたが、この頃から和風の意匠を持つ設備のアピールもしていたのかもしれません。


何とか生き残るためにホテルの在り方を模索していた矢先の昭和20(1945)年、名古屋市内は空襲による大きな被害を受け、広小路通り周辺も焦土と化してしまいます。

これまで参考にしていた社史『ホテルの想ひ出』は戦時中に発行されたもので、記載されているのはそれ以前の事です。
名古屋ホテルの被害状況は渋沢社史データべースや『日本ホテル略史 続』で確認できる以下の情報のみ。

昭和二十年〔一九四五〕
・一月三日 名古屋ホテル、本館戦災を受け殆ど全焼し営業を休止す。
・三月十九日…一月三日に焼残りたる宴會場戦災を受け半焼す。
『日本ホテル略史 続』運輸省

これ以降の日付に名古屋ホテルの名前は見当たらず、日本のホテル史を纏めた書籍でも戦後については触れられていません。戦災によって営業を再開出来ないまま、名古屋ホテルの歴史に終止符が打たれたかのように思われました。

ところが、程なくして1枚の絵葉書を入手します。

名古屋ホテル④に続く。

(本文:りせん、編集:田んぼ)

【参考文献】

運輸省『日本ホテル略史』1946年
運輸省『日本ホテル略史 続』1949年
鉄道省『観光地と洋式ホテル』1934年
下郷市造 『ホテルの想ひ出』 大阪ホテル事務所 1942年
名古屋観光ホテル『名古屋観光ホテル五十年史』1986年
瀬口哲夫『歴史的建造物とまちづくり 第6回-歴史の面影残す広小路、建物再生しながら都市の賑わいを/名古屋市』2002年


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