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【日記】ヴァイオレットに安らかな眠りを

【注意】この日記は備忘録として書いたものであり、ネタバレや個人の感想によって構成されています。『劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデン』のネタバレを気にする方、同内容への支持を強く主張される方はブラウザバックを推奨します。



心を揺さぶる物語、
心に響く音楽、
心に残るアニメーション。


今なお多くの心を惹きつけて離さない、とある女性の人生譚。
彼女の名は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」──。

放送前からワールドツアーを行い、世界各地で熱狂の渦を巻き起こした。
感動的な物語と、繊細でダイナミックな映像で話題となったTVシリーズ、
観客たちの心を躍らせ、作品世界へと誘ったオーケストラコンサートを経て、
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -」を公開。
世界中で大きな反響を巻き起こした。

そして、いよいよフィナーレへ──。

「愛してる」も、少しはわかるのです。
新しい時代が到来し、世界が大きく変わっていこうとしている今、
彼女の紡ぐ手紙が、彼女の想いが、どこに届くのか。
【不変】で【普遍】の愛をあなたに──。

愛する人へ送る、最後の手紙

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』 公式サイト
intro 忘れていたもの

映画はひとりで楽しめるもの、であると同時にごく親しい人物と同じ場面を共有する楽しみがあります。

時はさかのぼって昨年10月。
定期的に映画を共に見る友人と当時話題になっていたヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-(以下エヴァガ外伝)を観に行きました。

スクリーンショット (2338)

君の名は。から続くジャパニメーションバブル。

いくつかの作品を観てきたものの、私の個人的な感想として絵は非常に美しいが、シナリオに不備を感じることが多く(原作ありきの場合映画化の都合で描写が省かれる、ファンディスク的なものを含む)、映画単体としての評価は全体を通すといくぶん芳しくないものになっていました。

したがってエヴァガ外伝を観に行く際も一抹の不安のもとに映画館へと向かいました。
SNSのオタクはあてになりません。彼らの「よかった」「尊みが深い」「実質〇〇」はベタボレ彼女が発する「かれぴしゅきぴ~」ほどの意味も持っていません。
どれだけ下馬評が良かろうと裏切られたこと山の如し。

本編未視聴であったことも気がかりでしたが、本編視聴済みの友人曰く一話完結型のシナリオ構成なので問題なく楽しめるであろうとのこと。
鑑賞後に感想を話し合うまでがセットなので視聴済みの友人をアテにいざ外伝。


結論から申し上げますとたしか概ね満足なものの残念な点が残る、でした。

圧倒的に美麗な京アニの世界、キャラクターによって美しいアニメーションが完成されていましたが、後編シナリオの中核を担う少女、テイラーの成長描写(前編から後編にかけて幼児期から著しく成長するものの後編冒頭まで孤児院で育ち、やや知恵遅れ気味の描写)特に後編中での成長が異常。
表情の機微から繊細で完成度の高かった前編に対し、前後編の繋ぎとしていくぶん冗長気味なシーンに含まれていたことも違和感を増幅させた一因であったように思います。

創作物として徹底的に完成された美しさをこれでもかと前面に押し出した作品であるが故に、些細な違和感が非常に気になってしまう。

一流のフレンチコースを提供されていて望み通りの素晴らしい食事に集中したいのに、びしっときめた給仕のチャックが開きっぱなしだったり美しい一皿にヒビが見つかるような。

感動モノとして消化しようにも異物感が内包されてしまっていてすっきりと受け入れられなかったのです。


感想がいちゃもんじみてるし無責任であると感じたあなたは読み進めてください。
感想に憶測、不十分さが含まれていることには理由があります。重箱の隅をつついてる感は少なからずあります。全部リズが悪い。

実はこれ、今回『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以降劇場版エヴァガ)を観に行った友人と映画館へ赴いたのですがいかんせん一年前のことで記憶が不確かで、感想戦を経たはずの思い出も「たしか設定描写に違和感があって消化不良かかえて帰ってきたな、前編は良かったけど後編の繋ぎがなんか悪かったんだよな」程度しか私、友人ともになく、何が具体的に悪かったのかいまいちはっきりしないからなのです。

過去のSNS投稿を見返しても平素から主張を行うような運用をしておらず、日記類は一身上の都合でつけないことに決めているため当時の心境に至る手がかりは皆無。

かろうじて本編鑑賞の前日に私はいくらかを思い出すことに成功したものの、友人の記憶はサルベージできず。

詳細な落ち度が思い出せない一方で首を傾げた記憶と手落ちな評価だけが残るなんとも始末の悪い事態。
いまいちな思い出の映画を見返したくはないし…

思い出そうとする過程で情報をあさるも先のエヴァガ外伝にあらすじなどから落ち度は見受けられず、もしやあの日我々が観に行ったエヴァガ外伝だけが別のシナリオだったのでは説まで浮上。
挙句見た覚えのない映画の感想つぶやきまで出てきて自身の記憶の統合を疑い始める始末。

このままじゃ劇場版エヴァガで統合失調症になっちゃうよ~と前日深夜にうめくことになったのです。

こうして私は日記をつけることを決心しました。
誰かと思い出す際に、スムーズに思い出すには必要であると感じたからです。話題作だし機会はあるだろうと。
いかんせん入り組んだ細かな描写まで含めて思い出すには記憶のみでは難しい。
複雑なニュアンスを含む鑑賞後の心境をまとめておくことが目的。ここからやっと劇場版エヴァガの感想になります。

(尚本編未視聴のままなので映画単品評価です。


以下大雑把なあらすじ・ネタバレ・キャラクター紹介

祖母の葬式の後祖母宅で思い出にひたる孫娘デイジー。
彼女の両親との会話で、祖母の娘である母に祖母は会いたがっていたと彼女は訴えますが、多忙な母は言葉に詰まります。
デイジーは仕事を優先する母をそしるも母の多忙さも理解しており、自身の言葉に後悔します。
そんな彼女は、祖母が生前取っておいた手紙の束を見つけます。
それらの手紙は祖母の母が生前祖母の誕生日に毎年届くよう、自動手記人形(ドール)に依頼し書かせたものでした。
今は廃れた手紙の文化。ともに消えていったドールたち。
その手紙を代筆したドールの名は『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』
市街の祭事に必要な海に捧げる祝詞の代筆をしたヴァイオレットに市長は彼女の仕事ぶり、その他多くの功績を褒めますが、彼女はかつての戦争での従軍経験から自身は評価されるべき人間ではないと吐露します。
幼いころから感情が乏しく、他人の気持ちを汲み取り手紙を書く仕事には向いてないと思われていた彼女は、多くの人々に出会い、かれらの思いを知っていくうちに人の感情を理解し、寄り添えるドールになっていました。
そんな彼女がドールとして人の感情に向き合う動機はかつて上官として接し、武器としての扱いに留まらず、人としての生きかたを教えてくれたギルベルト少佐から戦場で最期に言われた「愛してる」の意味を探すことにあります。
未帰還兵であり死亡したと思われる少佐への思いは色あせず、ヴァイオレットは夜ごと少佐への手紙をしたため、彼の母の命日には代わりに墓前に花を添えに行きます。
墓地で彼女が出会ったのは少佐の兄であり現在も海軍に所属するディートフリート大佐でした。彼はヴァイオレットをギルベルトに武器として渡し、過酷な戦地に送り込んだ張本人でもあります。
同時に少佐との思い出を共有できる数少ない人物でした。
不器用な言葉遣いの大佐も自責の念は消えず、戦争が終わった今も二人は少佐を忘れることはできません。
ドールとしてC.H郵便社で働くヴァイオレットのもとに電話が届きます。
三か月先まで依頼が埋まり切っている彼女は突然の依頼に戸惑いますが、依頼主が子どもであることを知り、思うところがあって依頼主の元へ赴きます。
依頼主は余命わずかな少年ユリスでした。
入院生活を続ける彼は家族に冷たい態度をとっていましたが、「本当の気持ちをつたえる」ために両親と弟、親友のリュカ宛に手紙を書くことをヴァイオレットに依頼します。
自分が亡くなった日に彼らに届けて欲しい。彼女はユリスと約束しました。
ギルベルトの友人であり、C.H郵便社の社長のホッジンズは倉庫であて先不明の手紙を発見します。
その筆跡がギルベルトのものである可能性に賭けて、彼はヴァイオレットとともに小さな島を訪れます。
戦争で男たちは消え、老人と女子供が残された島。
ギルベルトはその島で名前を偽り、学校の先生をしていました。

訪れたホッジンズにギルベルトはヴァイオレットとの面会を拒否する旨を伝えます。
ヴァイオレットを戦場に連れ出し不幸にした自分は会うべきではない。
話を聞いたヴァイオレットはギルベルトの自宅を探し出しドア越しにいつまでも待つと訴えますがギルベルトに会うことは叶いませんでした。
その晩、嵐に見舞われた島から傷心のヴァイオレットは仕事に戻らなければと半ば自棄をおこしていましたが、そこに電報が届きユリスが危篤であることが伝えられます。
ヴァイオレットとユリスの約束はC.H社のアイリス達によって叶えらえました。
翌日、ギルベルトに会うことを諦めたヴァイオレットは彼あての手紙だけを残し、島を去ろうとします。
その手紙を受け取ったギルベルトは必死にヴァイオレットを追いかけます。
島を訪れたデイジーは数十年前活躍したドールの話を地元の郵便局で聞くことになります。
C.H社を辞め島の灯台の郵便局へと移った彼女は島民から慕われ、そのかいもあってか今も島では手紙のやりとりが盛んだそうです。
デイジーは両親あてに「たいせつな気持ち」をつたえるため手紙を書きました。
多くの人々の「たいせつな気持ち」「あいしてる」を伝えたそのドールの名は『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』

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:良かったところ

アニメーションの美しさは言わずもがなです。絵画的とも評される京アニの世界描写はまごうことなき本物で、アニメーションのひとつの到達点にあるといっていいでしょう。これだけで見る価値は十分にあると思います。

絵だけで魅せる静謐なシーンも、その高い画力によって思わず息を呑む出来になっています。水と光と髪の質感が特に顕著。

シナリオも一部のご都合展開(終盤島に突如現れ、定期船ではまず帰れないオフの大佐)を除けば、感情面の欠落はあれど与えられた依頼を完璧にこなすヴァイオレットの姿を描いていたと思います。

ポストコロナで利便性から意味への回帰が提案される中、作中の電話の登場で手紙が廃れゆく時代の流れの中で、手紙の意味をあらためて見出すという構造は意義があるものでしょう。


:感情の描写について

感情の描写について。ここから切り込んでいこうと思います。本作の繊細な人物の表情・心理描写は真に迫ったもので視覚的な感情描写を高度に実現しています。およそフィクションであることを忘れさせるほどに。絵画の世界に人の心が宿っているとも言えましょうか。

この作品に対して私が戸惑ったのは感動モノとして受け取る際に、これは「共感」の物語なのか、「感情移入」の物語なのか鑑賞中に迷子になってしまったことにあります。

:感動・共感とはなんぞや

感情移入について  pixiv百科事典

・「共感」は意思疎通可能な対象・言語を用いたり擬人化されたりしたものに対して覚えるもので喜怒哀楽の感情を共有するもの。自身との類似した点を見つけだし行うもの。サイコパスに欠如してるらしい。

・「感情移入」は受け手が勝手に対象に自己を置き換えて見たりするなどによって行うもので、考え方や価値観の理解というよりは自身が遭遇したあるシーンに対し対象物にいれこんでいくもの。片思いと言えばいいんでしょうか。対象が意思疎通可能かどうかも問わないもの。


引用中でこの二つは分けられていませんが、前者はより生身の人間に対して(現実ベースに)、後者は非人間・創作物に対して行う(2.5次元~)のがより正確なのかなと。
道端にポツンと落ちている小石に感情移入して孤独を覚えることはあれど、共感して涙するというのはまあ違うじゃないですか。


これらは現実に生きている我々が現実の要素の延長上に覚える感情を扱ったもので多くの場合ここに自己投影がベースにあると思われます。
これらのなにがしかが一致することを人は琴線に触れたと形容し感動したと言うのです。


:自己投影について

自己投影は「憧れ」と「等身大性」で成り立っていると思います。

①憧れ
憧れの場合、完璧無比な人物にも劇中役割が与えられていることで(疑似体験として)役割の理解から対象と自身を容易に重ねることができます。

ハーレムもの、と銘打たれてるから物語を楽しめているのであって実際に存在するリア充の知人には自己投影が難しいはずです(リア充というロールは別

インスタントに最強魔術師の復讐譚~魔王討伐にめっちゃ貢献したのに平和になったのでリストラされた~今さら謝ってももう遅い!魔王になって世界を支配してやる!になれる。


②等身大性
等身大性は「物語の人物は私である」と錯覚させるものです。

境遇や生い立ちなどに自分に似た要素を見つけ、それを起点にして物語中のすべてに関心をもたせることが可能になります。
そうはいっても自分じゃない他人なので価値観の違う行動をとられると一気に冷めたりするのは憧れとの大きな違いか。

受け手側の多面性次第で見いだされる共通項は増えるものなので現実ベースだと難しいんじゃないでしょうか。
創作物はユアストーリーを目指してきますが自分をアイドル等だと思い込んでいる方はいてもいいですけど怖い(自分を野原ひろしと思い込んでいる一般人

:劇場版エヴァガで感動するとは


①一般人
さて劇場版エヴァガにおいて私たちが共感・感情移入する対象はどこなのでしょうか。仮にストーリーラインを進めるC.H社、ひいてはヴァイオレットを狂言回しととらえれば、劇中に出てくるドールにかかわった人々、つまり依頼人たちが一般人視点で共感・感情移入の対象としてまず挙がるでしょう。
エヴァガ外伝ではこの形式が強かったように思われます。


劇中では冒頭からこれでもかと普遍的な家族愛をピークシーンで切り取って描き、もはや加速し続けるジェットコースターの勢いで休まることなく依頼人への感情移入は進みます。


ここでふと気がかりに感じたことはあまりに繊細に視覚的に描かれた創作物は共感の対象たりうるのではという問でした。


喜怒哀楽の表情とシーンの空気感があまりに真に迫っていて(なまじドラマの名のある俳優たちが行う劇よりも非人物的な点で共感性が高い)共感しうるものに思われたからです。


祖母の葬式後や末期患者の少年というピークシーンであるがゆえにかろうじて感情移入の体をなしているとはいえ、あれはきっと等身大の私自身の感情であると疑わないものがあったのではないでしょうか。


エヴァガ外伝の記憶を失い備忘録をつけることを決心した私は冒頭のデイジーから緩む涙腺に抗い、なんとしてもすべて見届けてやろうという覚悟で鑑賞を続けました。


②ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン
もうひとつの共感・感情移入の対象として今作は「ヴァイオレット」本人が挙げられます。というか本作の総決算と言うことで彼女がメイン軸であるということは疑いようがないでしょう。

私が直面した最大の問題はこの「ヴァイオレット」に共感・感情移入が可能なのかという点にあります。

まずは共感の対象として。

彼女は大戦時に圧倒的な戦力である「兵器」少年兵として運用されました。終戦後の劇中でも欠落した感情と先行する徹底した礼節が目に付きます。
あとまあ圧倒的に美少女。舞踏とかの才能もあるっぽい。

外伝だけを観た後では私は人間かどうか判断がつきませんでした。

高度な義手技術が劇中だと明らかにオーバーテクノロジーで自動手記人形(ドール)という概念もオリジナルの存在から彼女が生身の人間なのか非常に疑わしかったからです。


また外伝から受け取った作品の印象も人の被造物として造られた完璧な人形が唯一持ちえない感情を代筆の仕事を通し、人々との交流から探し出す、というものに映ったため、彼女が遂行能力は無欠の完璧人形に見えたのです。
実際は完璧超人でしたが。


劇場版エヴァガ内で感情を露にした彼女は共感の対象たりえたと思います。ただし視覚的に。
主に泣き顔なんですけど京アニの画力でものすごく人の泣き顔を表現している。
ほころんだ表情の描写の多様性よりも崩れた表情の描写は進歩し続けている気がします。喜怒哀楽の共有対象として十分な描写がなされている。


つぎに感情移入の対象として。私にはあまりにもいたたまれず無理でした。

憧れることは可能なのか。
もし彼女の礼節をまとった完璧超人さ、人の感情の機微を慮り、他者に寄り添う在り方を、ある役割の中で理想に据えて良いのだろうか。

仮に憧れることが可能であるというのであればあなたは「ヴァイオレット」のようになろうと努力されているか、あるいはあの役割を疑似体験として味わうことに快を見いだせるのでしょう。


とてもじゃありませんが軽い言動に溢れ、他者の一挙一動一言に気を揉み消耗なされている同世代の人々の反動として希求された理想像であると言われても私には受け入れがたい。

全能のヒロイックヒロインに酔いたい需要はあるんでしょうけども、私は生憎酒で流せない性分でして。


等身大性。
無理です。なれる気はしませんし私はなりたかありません。
さらに言えばもし自身の物語として『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を解釈しようとすると、『ヴァイオレット』は超人であり、全ての他者を赦す存在です。

死亡していなかった少佐との再会も少佐は自身が『ヴァイオレット』に人としての生き方へと導こうとしたとしつつも、「兵器」として彼女を結局運用したわけであり、彼女を不幸たらしめたゆえ、面会を拒絶される、という展開でしたが、これは至極まっとうな話でこれを赦せるのは彼女当人しかいない。よしんば彼女に赦されたとしても少佐の良心は赦せるものなのかどうか。

また、ヴァイオレットがドールとして働く契機となったギルベルトの最初の「あいしている」も自分が手塩にかけたこどもへの愛情であった、と解釈したいのですがそれが伝えられたのは「兵器」としての場、戦場でした。

自己満足のもと少佐は人らしく兵器の彼女を置いて死んだように見えやしまいか。

少佐がヴァイオレットからの手紙を読み終えた後、島の老人が先の戦争について漏らすシーンがありました。

かつて敵であったライデン人を憎んだものだが、思い返せば戦争が始まる前、私たちはより豊かになれると信じて戦争を受け入れた。戦争が終わり勝敗はついたが誰もが傷つき、いたみ分けとなった。少佐だけが背負い込む必要はないんじゃないか

「帰るところがあるならば、帰ったほうがいい」

戦争責任の分散と統治にまつわる国民の自己責任論でしょうか。
ただこの理論はあくまで負けた側、被害者側が出せる理論であって、言葉通りに傷つけた側が受け入れるとすると、なにか違うように思われます。

これまでのシナリオの定型ではありませんが、『ヴァイオレット』は彼女のドールとしての仕事を通じて各回メインの登場人物たちの気持ちを繋ぎ、依頼を解決してきました。

劇場版エヴァガではメインの彼女ですが結局彼女が少佐の罪を今の自身を形作ったかけがえのない存在として赦し、エンドを迎えます。

すべてを引き受けてきたのは彼女です。

結果、非常に高いクオリティの表情描写から共感せざる得ないものの、感情移入の対象として非人間的過ぎる。女神か何か?求められる等身大性がこれだとすれば生きている私たちからかけ離れています。

:ヴァイオレットに安らかな眠りを

:ヴァイオレットの救済
彼女自身が救われうるとすれば、例えばこれまでのドールの仕事を介した人々との交流によって彼女自身の救済がなされている、という描写があるかでしょうか。


劇場版冒頭の市長とのやりとりを見るにも過去の清算がなされてきたとは言い難く、人の感情とともにありそれを求めてきたこれまでの交流が彼女自身の救済へと昇華されていたかは疑問が残ります。

少佐との抱擁のEDシーンも、彼女の成長というよりも退行に映ることが拍車をかけています。

獲得してきたものの喪失、リセットに感じられました。言葉にできず、義手も効かず。


過去の行いは感情を知るごとに重くなるが、その罪をともに担える少佐とともに生きていくこと。

それこそが彼女への救済として本作では設定されているのだと思うのですが、いくぶん『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』の伝説化(OP、EDの演出含め後日談で島の記念切手に彼女の肖像画が用いられていること等)が強く意識されており、感動装置として彼女は本当に道具から人になれたのか、メタ視点で皮肉にも映ります


:蛇足
感情の導線の引き方も個人的に少々疲れました。ピークシーンの緩急のつけ方が下手すれば一度もブレーキを踏まずに駆け抜けられた気さえします。みなさん2時間30分の涙の配分どうされてたんでしょうか、EDまで持たないと思うのですが。

中盤の嵐の灯台のシーンでも、少佐に拒絶されたヴァイオレットの傷心とユリス家の結末が同期しているため、いささか気の持ちようが難しかったように思われます。

少佐がヴァイオレットからの手紙を読み終えたシーンの挿入歌もやけに明るく高いもので、感動のEDに水を差してしまっているように思われました。

:厄介オタクの戯言

こうして『劇場版ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』の鑑賞を終えました。

美しい世界に没入する時間を得たはずが、雪崩のような感情のラッシュにはたと素面に戻され、「ヴァイオレット」への共感を求める哀しみの表情に惹きこまれるも、感情移入しようにも周囲の観客のすすり泣きに果たしてこれでいいのかと『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』の人生譚に胸の痛みを抱えて現実に戻ることとなりました。

アニメーションの美しさは発展し続けているものの、その作品としての美しさ、完成度に対し、物語がついてきていないのではないか。

活字で原作を読み補完することで解消されることが多いものの、この辺はジャパニメーションの残された課題なのかな等とも思います。

没入感の点で人が多い映画館で見なければよかったというのもあるかもしれません。(それはそれで前作のイメージから果たして視聴したか微妙ではあるのですが…

連日の睡眠不足により腐った頭で池袋まで赴き、挙句満席で3時間以上池袋で徘徊し、わざわざ外伝の微妙な思い出を掘り返して鑑賞しに行ったので私が想定されるお客様ではなかったのも確かでしょう。

でもさ、オタク君女神まどかより悪魔ほむらのほうが好きじゃない?え?今時もう古いって?いや私はさやか推しだが

アニメーション技術の向上によって俳優の演技よりもより普遍的な人の感情に呼び掛けられる域にまで達したという点で間違いなく評価される作品であると思います。

同時に、先行した視覚感情表現の扱いがよりうまく統合されたアニメの出現もきっとそう遠くないだろうと期待して筆をおきます。





追伸 備忘録もとい日記で書いてたはずなのに整理していくと分量が異常でやはり忘れたほうが楽なのではと思い至りました。警告:感情を持つことは面倒で禁止されている。











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