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媚びという感情が極めて苦手な話

前回書いた

おそらく一般的ではない方法で人体の描き方を覚えた

でもチラッと触れたのだが、私は「媚び」という感情に大変な抵抗感を持っている。

なんでか?
を書く前に辞書を引くと…

こ・びる【×媚びる】 の解説
[動バ上一][文]こ・ぶ[バ上二]
1 他人に気に入られるような態度をとる。機嫌をとる。へつらう。「権力者に—・びる」「観客に—・びる演技」

2 女が男の気を引こうとしてなまめかしい態度や表情をする。「—・びるような目つき」

goo辞書

とある。
どっちの意味でも大変に抵抗がある。

そして媚びることも、媚びられることも、抵抗がある。
能動形であろうと、受動態であろうと、である。

ではなぜそんなにも苦手なのか?
というと、「媚びの心情についていくら考えてみてもそこに正当性を見つけられない」からである。
もう少し突っ込んで言えば、「媚びは(故意か無意識かにかかわらず)一見下手に出ているようでいてその実相手をコントロールしよう」という、誤解を恐れず言えば「ある種の隠された傲慢さを伴った作為的意図を感じる」からである。
もっと言えば、毒親の一貫性のない態度を思い起こす。

毒親というものは一般的に常識的な価値観のまだ固まっていない我が子を自分に都合よくコントロールしようとする親である。
なので、手酷い虐待を行うこともあれば、揉み手摺手で猫撫で声を出すことも時にはある。
この猫撫で声状態の毒親の醜悪さを思い起こすから、「媚び」が苦手なのだと思う。
そしてその媚びが受け入れられなかった時に豹変する毒親と来たら修羅か羅刹かまあ言うて鬼である。

また、「媚び」を女性の美徳、女性の本性と植え付ける社会的な慣習も正直反吐が出るほど苦手である。
一段高いトーンの声で女性に喋らせて愉悦に浸る男性も苦手だし、あえて媚びを武器として使う女性も苦手である。
本人たちは腹芸で龍虎相剋の図を気取ってるようだがただの妖怪大戦争にしか私には思えない。
これは理屈ではなく生理的に無理、というやつである。
作為で相手をコントロールしようとする意図を生理的に受け付けないのである。

これは生理的なものであるので絵を描く上でも私は「媚び」というものを肯定的に描くことができない。
たとえ女の子を描いたとしても作為的に媚びを売らせることができない。
これは女の子を描く上ではハンデである。
なぜなら前述の通り「『媚び』を女性の美徳、女性の本性と植え付ける社会的な慣習」、ひいては「いかに媚びを売らせるか」が女性(や年端も行かない幼女まで)の価値としての可愛らしさや性的価値を高める、という公式が世間一般で当然の価値観として通用しているからである。

それは「自発的に『自分にとって』心地いいファッションを選んでいる」はずの女性の大半が結果としてフェミニンな(≒女性性を強調した)ファッションを選んでいることからも伺えると密かに私は考えている。
「自発的に自分にとって心地いいファッション」について女性が男性に反論するとき、「男に見せるためじゃなくて自分が好きな格好をしてるだけ」と発言している場面を割と目にする。
しかし結局のところそのファッションとは体のラインや露出を強調したりで女性性を付けすぎの香水の如く強烈に匂わせるファッションであることが多い。
本人の意図としては男に見せる(媚びる)ためではなくとも、「結果的に男の視線を喜ばせるファッションを最上位の価値とし、選択している」ように見えてしまうのである。

それは「女性というジェンダーのあらまほしき姿」を「『媚び』を女性の美徳、女性の本性と植え付けた社会的な慣習」として刷り込んできた長い歴史の結果ではないか、と個人的には考えている。
「女性が選ぶ『好き』も結局は『女らしさ』という強烈なバイアスの土台の上」にしかなく、「女子力」という戦闘力でマウントを取り合うことによって女子プロレスの如き男性の目を楽しませる娯楽に結局のところなっているのではないかと感じるのだ。

故意か無自覚かはわからねども、「女性性の強烈な押し出し≒男性にとってのお愛想、媚び」という(当の女性はそう考えてなくてもそう受け取られてしまいがちな)風潮はあると思う。
いくら「自分らしく、自分がより可愛く(またはカッコよく)」と当の女性が考えていても結局それは「女性性を強く引き立たせるファッション」が「人間性」よりずっと女性の価値を高めるという価値観が根源であり、「フラットな人間である自分自身」ではなく「女性としての自分」が優先順位として上位である現状となっていると思う。

まとめると、自発性を主張する女性の自発性とは結局「性的価値」であって「人間的価値」ではないように見える(ことが多い)
そして結果論として男性側はそれを「女性からの媚び・愛想」と受け取ることになっているのではないかという話である。

話が下手なジェンダー論に脱線してしまったが、「媚び」が苦手な理由としてはにはもうひとつ、「自己愛」というこれまた私の大変苦手とする感情と密接に関わり合ってると考えるからである。
というのは「自覚的に媚び、それを有効活用するには、『自分に魅力がある』と自負していなければならない」からである。
言い換えると「媚び」が武器になると考える人は同時に自己愛が強い可能性が高いとも言える。

ちなみに「自己肯定感」と「自己愛」は一見似て見えるかもしれないが実は反比例するものと考えている。
という記事を昔過去に書いた。

絵師の自己愛と自己肯定感と自己保存について考える

なので、「媚びを有効活用できるほどの『自分に魅力がある』という自負」は「自己愛ではあっても自己肯定感とは厳密には違う」と私は考えているのである。

というのは「『自分の魅力とやらいう謎のパワー』を『わざわざ他人に向けて証明してやろうと前のめりになる』心境」は「本当は自分には魅力がないのではないかと恐れる気持ちからの逃避行動」にもしばしば現れるからである。
『前のめりに』というところがポイントで、『自己肯定感が自然に高い人はわざわざ前のめりにならない』。
わざわざ他人に向かって明示的に『証明』せずとも、文字通りに『自ずから己の存在を肯定している』からである。
『証明しなくてはならない』心境に駆られるのは自己の存在を肯定できない本音から目を背け打ち消すための不自然な火消し行為、心理学で言うところの「反動形成」そのものだと思う。

なんだか長くなってきてしまったので今回はここで打ち止めにしてみる。


つまり私の絵は
自己愛成分0(吐くほど苦手)
でも自己肯定感も高くなく
性別を売るのも真っ平な
媚び成分0(怖気をふるうほど嫌い)
なので
いわゆるフェロモンつよつよ女性は描けない(描きたくもない)
頑張ると男も描けるけど腹を括らねばならず
一番描きやすいのは男性とも女性ともつかない
中身だけの精神体
なのです


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