「そんなの『常識|普通|当たり前』でしょ」という欺瞞

以前のnoteで珍しくリアル恋愛について書いてしまった。
んでこんなことを書いた。

自分の先入観こそが常識だ、と思う人が案外多いんだよねー
先入観はあくまで先入観でしかないのにねー
先入観を先入観と気づかない人は後で詰むよねー

「彼に嫌われたくないと思うと嫌われる」?〜先入観を先入観と気づかない人は後で詰む話

で今回はこの「常識≒先入観」について。

アインシュタインの名言のひとつにこんなのがある。

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」

18歳という区切りが正しいのかどうかはともかくとして、私の「常識≒先入観」説に非常に近しいと思う。

一方こんな記事もある。

【教養がない人々が語る「常識を疑え論」のワナ
「イノベーションごっこ」に陥るエリートたち】
うーん情け容赦ないタイトル。
情け容赦ないけど実際この罠にハマってる人は多いと思う。
自分が好き勝手に理性吹っ飛ばかして振る舞う言い訳に「常識を疑え」を使う人もいるしね。
こういうのはまさに「教養がない」発想である。

イノベーションに関する論考では、よく「常識を捨てろ」とか「常識を疑え」といった安易な指摘がなされますが、そのような指摘には「なぜ世の中に常識というものが生まれ、それが根強く動かし難いものになっているのか」という論点についての洞察がまったく欠けています。「常識を疑う」という行為には実はとてもコストがかかるわけです。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になり、ここにパラドクスが生まれます。

結論から言えば、このパラドクスを解く鍵は1つしかありません。重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけるということではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養だということです。

教養がない人々が語る「常識を疑え論」のワナ
「イノベーションごっこ」に陥るエリートたち

まあこの記事はビジネススキルアップ系なのでイノベーションについての話してるけど、選球眼が大事ってのは事実だと思う。
100%常識に従え、というのも100%常識を疑え、というのも自分の脳みそ使いたくない横着さ故の二元論に過ぎない。

二元論者はノーサンキュー。
自分の脳みそ使おうぜ。

という話はこないだもしたけど。
↓これ。

私は表題のような
「そんなの『常識|普通|当たり前』でしょ」
とすぐ言う人は何も考えてねーなーと思う。

同人誌界隈の雲上人Aさんにもよくそう言われた。
他人の作品や写真を見ながら描くのもみんなやってて当たり前と言われたし、同じサークルの相方でもお付き合いのある作家さんでも皆ライバルなのは当たり前と言われた。

雲上人Aさんについてはこちら

でも見ながら描くのも他人と仲良しのフリしてマウント取り合うのも私は違うと思ったので私はやらなかった。
それらに「正当な理由」があるとは思えなかったからだ。
Aさんからすればそれらは「同人誌界隈の『常識』」なのかもしれない。
だがそれは私から見れば「周りがみんなやってるからそういうもの」という先入観以外の何物でもなかった。

自らの個性を打ち出すはずの創作で「みんながやってるからそれに合わせる」という矛盾は理解不能であった。
それらに納得のできる根拠を示してもらえれば、自分もやるかどうかはともかくとしてもそれはそれで私も納得できるかもしれないが。
だが「みんなやってる!当たり前!」を主張する人でその根拠を提示する人は見たことがない。

なので私が思うに、
「そんなの『常識|普通|当たり前』でしょ」
と言いたがる人はその【「そんなの」という先入観を「常識」ということにしてもらわないと困る】、と言いたいのではないか。

【「そんなの」という先入観でしかないものを「常識」ということに相手に思わせたい】
ということは
【真実ではないことを真実と思わせたい】
という意思表明であり、それこそ「欺瞞行為」であると思う。

そんなわけで、すぐ
「そんなの『常識|普通|当たり前』でしょ」
と言う人の「常識|普通|当たり前」はアインシュタインの言う通りそれまでコレクションした偏見を無批判に信じ込んでいるのだと思う。
所謂クリティカル・シンキングのできない人。
逆に私はこれしかできない。
あとクリティカル・シンキングをいかに新しい概念かの如くドヤ顔で語る人もあまり理解できない。
毒親サバイバーでクリティカル・シンキングしない人の方が珍しいと思う。
なのでドヤ顔する人はお幸せなお育ちなんだなあという想像はできるけど。

また脱線してしまった。

もし「常識|普通|当たり前」とすぐ言う人のそれを本当に「常識である」と証明したいなら、それが常識として正しいという根拠を述べればよいのではなかろうか。
根拠があれば「常識」だし、なければ「先入観」だろう。
根拠の有無こそが【「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼】になると思うのだ。

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