こういう人にならパクられても嫌じゃないかも、と初めて思った話

あけましておめでとうございます。

こういう人にならパクられても、というか参考にされても嫌じゃないかも、と初めて思った方のnoteを発見したのです。
こちら↓

一部引用します。

ただやはり一番無力感を抱いてしまうのは、そういった己の能力の低さに気づかないまま、あるいは気づいていても修正する方向すらわからないままに、なんとなくでわかったつもりになったものを、自分なりにも分解・解析・理解せずに雰囲気で語ったり、使ってみたりする時だ。
(略)
そもそも、どうしてそうやって、噛み砕いて自分の中に落とし込めていない自覚があるのに、そういうものに惹かれるのだろうかと考えた時、“知らない”ということに対して、漠然とした不安と得体の知れない期待を抱いているのかもしれないと思い至る。

憧れと言っても良いかも知れない。

とにかく自分が今持っていないものを羨んでは、他人の持つ能力を欲しがって、とりあえず真似をすることでなんとなくの達成感を得ようとしているような、そんな感じだ。

隣の芝生が青いので自分の庭に移植したいという話


こういう人にならパクられても嫌じゃないかも、と思いはするものの、実際にはこちらを見ないフリしながら先っちょだけ盗むヤカラとその楽しいお友達に
「オメーの作品なんかパクる奴ァいねーよ!自意識過剰!!」
「みんなやってることだからパクりは当たり前!むしろ大正義!!」
と罵られる(*延々リピート)のが私のこれまでの創作人生のあらすじであります。

それへの反論が私のnoteのコンテンツの大多数を占めているわけだけど。
未だ私の反論に対するパクリ肯定派からの反論は来てないやね。
あんだけ大勢が
「オメーの作品なんかパクる奴ァいねーよ!自意識過剰!!」
「みんなやってることだからパクりは当たり前!むしろ大正義!!」
の大合唱だったのにね。

おかしーなー、あんなに大勢の人々がパクリ擁護してたんだから私みたいな一個人の意見なんかプチッと一捻りやろ?
とまれ己の発言には責任を持ってほしいものである。
(そりゃ私のような長広舌の偏屈屁理屈屋に絡みたい奴なんておらんわな)

まあ、話を元に戻すとどっちにせよ私の描いた(書いた)モンがこのnoteの方の好みに合わなければパクるもパクられるもありゃしないので、ただの仮定の話です。

んで参考にされても嫌じゃない理由は?
というと実に単純、このnoteの方は
「自分の手の届かないところをちゃんと分析、自覚してて、自分が何をやっているかも客観的に把握している」
からである。

「自分の手の届かないところをちゃんと分析、自覚」
しているということは
「相手の作品をきちんと評価し、相手の存在を認めている(相手を無きものとして扱わない)」
ということである。
一言で言い換えると
「相手の存在、作品を認めリスペクトしている」
からである。

私の過去のパクラーは
「そんなの私にだって描けるわよ!ホラ!!」
「アンタのなんて見てもいないわよ!似たのはただの偶然!!」
「ほんの先っちょだけなんだからパクリじゃないわよ!でも永遠にストーキングするわよ!!でもアンタの存在なんて意地でも認めないわよ!!!」
という面の皮がバラ肉より厚いのばっかだったからねー。

↑のような思考や感情は全部パクラーの絵にダダ漏れてるのでわかる。
という話はこちら↓

逆に、こういうごく普通に相手をリスペクトでき、ご自分の行動と内部感覚とをきちんと突き合わせできる人なら
「ああ、修練の一過程だなー、自分も昔そんなだったなー」
で済むのである。

繰り返しますが、まあ言うて私の描いた(書いた)モンがこのnoteの方の好みに合わなければパクるもパクられるもありゃしないので、ただの仮定の話であります。

ただこのようなリスペクトの有無、この一点が「後々実力を蓄えられるか雑魚モブ作家で終わるか」の分水嶺であるとだけ再度指摘しておきます。

今年も「よろしかったら」よろしくです。
私なんぞによろしくする義務はないのでどうぞご自由に。

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