ジェンダーと自己愛と川原泉先生
前回のnoteの下書きを書いてしばらく熟成していたら(何か一味足りない、などの理由で寝かせることが時々ある)、ふと思いついた。
↓前回のnote
自分のジェンダーにゴリゴリのプライド持ってる人って自己愛強くない?
言い換えるとジェンダーで他人にマウント獲りにかかる人って自己愛も強い傾向を感じるのだが、私の気のせいだろうか。
ベタな例示をすると「私って女子力高いでしょ、女捨てたら人生終わりでしょ」(んじゃ病気で子宮取っちゃった人は人間失格なの?)とか言いがちな女性や「俺は男だ!男は強くあるべきだ!男は舐められたら終わりだ!」みたいな男性は同時に自己愛強く感じる割合が高い気がする。
気がするだけで統計取ったわけじゃないけど。
ええと、私自身は生育環境もあってジェンダーに対して絶対の価値観を持っていないからってのもあるんだけど。
ジェンダーがその人にとって一番のアイデンティティになってる人がすごく苦手だと常々思ってた。
ジェンダーがアイデンティティ、というほどじゃなくても、たとえば女性作家の作品に「女ってね、××なものなのよ」とかそういう最もらしいアフォリズムがあったら秒で萎えてしまって読み進めなくなってしまう。
大体そういうアフォリズムは私にかすりもしなくて、まったく真実とは思えないからである。
そんなに自分の性別が一番大事なの?
という疑問がいつもある。
人間性よりジェンダーに価値を置いてるらしき人、自分のジェンダーを何より大事にしてる人とは徹底的に話が合わないので可能な限り接触しないようにしている。
シンプルに「女として⚪︎⚪︎」、「男として××」ということをさもさも当然の如く言う人に限って自己陶酔が鼻についたり、押し付けがましかったり、自己愛自己顕示欲承認欲求が強い傾向を感じるからである。
逆に自分のジェンダーを特別視せず普通に性別を越えて普遍的な人間性をジェンダーと等価以上に扱う人で自己愛の強い人は、少なくとも私は見たことがない。
この違いってなんなんだろうね。
あともうひとつ感じるのは、ジェンダーが一番のアイデンティティになっちゃってる人って、なんか甘えてるところがある気がする。
ジェンダーを口実に使うことが多いというか。
「女にそんなことさせるなんて甲斐性ないわね」とか「男にそんなことやらせんなよ」とか。
他にもなんだろう、ジェンダーを根拠にした幼児的万能感を持ったままに見えるというか。
その万能感を壊されそうになるとジェンダーマウント獲りたがるというか。
その辺が自己愛的に見えるような気がする。
まあジェンダーに限らずマウント獲りに走る自体品がないなあと思うけど。
そんなこと考えてたら突然腑に落ちたんだけど、私川原泉先生大好きだったわ。
昔川原先生にセンシティブなジェンダー話でクソほどマウント獲りつつ嘲笑った某先生、数年前にお亡くなりになったんだけどお気の毒ではあったけどちっとも悲しいと思わなかった私であった。
そういうセンシティブなことを取り上げてマウント獲りしてことさら嘲笑うとかまあ心底品性疑ったしね。
そうやってマウント獲って悦に入ってたけど、漫画家としての実績は川原先生のがずっと上だけどね。
というわけで、ジェンダーでクソほどマウント獲りたがる人は、自己愛と幼児的万能感強そうでものすごく苦手、というのと川原泉先生はいいぞ、って話。
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