よくある感動作が苦手な話

この文章は敬称略です。

タイトル通り。
私はよくある感動作が苦手である。
もっと言うと意図的な不幸話からのサクセスストーリー的感動作が苦手である。
なぜだろうと以前から考えていた。

でも不幸てんこ盛りのストーリー全部がダメなわけではない。
例えば萩尾望都の「残酷な神が支配する」は登場人物全員病んでることが徐々に明かされたり元は病んでなくても病んでいったりでみんなどこかに「病み」(闇)を持つ。
(でもマージョちゃん可愛いよね)
まあでも残酷な神のてんこ盛り不幸は「意図的な拙い配置じゃない」からね。
なので不幸てんこ盛りがダメなわけじゃない。
不幸ネタの物量だけで言ったら私が苦手な意図的不幸てんこ盛り作品群より残酷な神の方が多いと思う。割合的に。

苦手作品群…というくらいなので複数ある。
というか複数作家がいる。
この作家の不幸ネタは苦手、という感じだ。
ということは、その作家の「不幸ネタに対するスタンス」に疑問を持っていることになる。

ちなみに苦手作品群は「泣ける」と評判で人気があって映画化やテレビ化されたりしてるものが多い。
つまり感動ストーリーとして広く一般的に支持されている作品群、作家群なのである。
だけど私が原作を読むといつも何か得心がいかない、という感じになるのだった。

不幸ネタと逆になるけど、昔花村萬月が「エンタメ小説では50頁に1回エロを入れていた」と言っていた気がする。
あれだな、「女帝」で定期的にパンパンやってる奴。
それらと同じ感じで「定期的に不幸ネタ」が出てくる作家、というのが苦手なのである。
ちなみに花村萬月作品は好きである。

なぜ定期的な不幸ネタがダメなのか。

まず不幸ネタの提供頻度がそれこそ50頁に1回とか数話に1回とか定期的に不幸を入れる感じの「作為感」。

次にいかにも不幸「ネタ」という感じの「感動演出装置としての不幸『ネタ』」という「粗雑な取り扱い感」。

定期的に投入される不幸ネタの「よくあるテンプレ感」。

また「よくあるテンプレ感」から来る「他人事&耳学問的不幸ネタ感」。

「他人事&耳学問的不幸ネタ感」から来る「実体験による実感の不在感」。

「実体験による実感の不在感」から来る「実態を知りもしないのに知ってるつもりのしたり顔でお説教されてる感」。

こんなところだろうか。

要するに「実感のない他人事テンプレ不幸ネタ」をしたり顔で安易に並べて悟りや学びを主人公に会得させる「感動ポルノのお涙演出装置としての不幸ネタ」感が苦手なのである。

そこにその作家の共感や思い入れはない。
あくまで「感動ポルノのお涙演出装置、実感のない他人事としての不幸ネタ」である。
そこに深さはなく、他人事の不幸ネタをパズルのピースのように当てはめていくだけの作業感がどうにも納得いかないのだ。

繰り返すが深さもない上に作家本人の共感も学びもない。
経験者じゃないから他人事になるのはまあ、理解できるのだが、それでも安易に不幸ネタを感動ポルノ演出装置として雑に多用しながら説教くさいのはなんなんだ。という気分になる。
説教くさいのも他人事だからだろうけど。
自分事じゃないから共感もなしに頭だけでの理解に留まるんだろう。
共感がないから教条的な「気づき」で「感動の上げ底に使われるだけの定期的かつ多種多様のテンプレ不幸ネタ」で終わるんだと思う。

そして他人事&頭だけの理解の不幸ネタで共感もないのに「テンプレパズル的に配置できる不幸ネタの数が多い自分=他人の不幸に対して感度高く共感できる他人への理解が深い自分」と勘違いしてるように思う。

さっきから「共感ない」「共感ない」と書いてるけど、共感マジでないと思う。
共感あったらウエメセ説教くさくならない。
ウエメセ説教くささにはその作家の「私、こんなことも知ってるのよ!」という自意識がこびりついてるように見える。

うん、感動ポルノ用のネタとして日頃から不幸ネタを収集はしてるんだろうね。
だから数やパターンは集めているんだろう。
でも収集した数やパターンが多い=理解している、ではない。
他人の不幸に対しての感懐や想像力はそこにはない。
他人の遭った不幸を慮る気持ちはそこにはない。
ただ自分の作品に使うのに切った張ったするための「感動ポルノ素材」をコレクションしているだけに見える。

なのでおしなべてその作家が描く不幸ネタに遭遇したキャラクターには実感がこもってない。
あくまで「感動ポルノ発火装置を淡々と配置した」だけに見えるのだ。

違う角度から言えば、「共感も敬意もなく他人の不幸を並べて配置して飯の種にしている」ように見えるのだ。
感動させるための無機質な武器として不幸ネタを扱ってるだけで、本人はその不幸の原因や解決などの深掘りしたり思慮を巡らせたり心を痛めたりしたようには見えないのだ。
まるで、他人の不幸をアクセサリーのように作品に飾り付けている。
その元ネタの他人の不幸の下に流れる怒りや悲嘆には目を向けていないのではないだろうか。

なぜそう思うのかというと、その「作品に飾り付けられた不幸ネタ」のサイズ感や厚みがいつも同程度だからである。
思慮を巡らせたり深掘りしたらその不幸ネタのサイズ感、厚みが増して他のエピソードとの絡みももっと出てくると思う。
だが、私の見る限り「作品に飾り付けられた不幸ネタ」のサイズ感、厚みは似たり寄ったりの単発ネタに感じられる。
一定の枚数ごとに不幸が起きて一定の枚数で解決していく。
元ネタのある他人の不幸を計算ずくで規則的に並べている。
でもその不幸ネタは規則的かつ単発なので作品の深みを増す通奏低音になっていない。
それらが重層的に絡んで思わぬ方向に転がっていくというドライブ感がないのだ。

エロが50枚ごととか3話に1回というのは笑って済ませられるが、(他人の不幸を元ネタにした)不幸ネタに対しては首を捻らざるを得ない。

まあ、こんなことにケチつける奴はごくごく少数派だとは思う。
何せ私が文句つけてるパターンの複数作家の作品群は軒並み映画化テレビ化されてるものばかりだからである。
感動できればなんでもいいって人が多いのだろう。

つまり私は恣意的、意図的に「感動させてやる」というウエメセ作家は苦手なのであった。
萩尾望都の不幸てんこ盛りは「感動させてやるため」ではない。
人の不幸や悲劇などに対していつも深く考察している。
感動のためではなく、本人の疑問を追求しているのだと思う。

というわけで私は「感動させるための不幸話を定期投入する作品」ではなく「不幸や悲劇に対してや疑問の追求と深い洞察」がある作品が好きなのであった。

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