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遠藤周作もビクトルユゴーも愛した街。

フランスというと、「華の都、パリ」しか思い浮かばない、、、、。

そうですよね。日本からすれば、遠い遠い国です。直行の飛行機でも12時間。やっと、パリに着いた。そこから更に、車で1時間半。そこに、ノルマンディーの都ルーアンはあります。人口約10万人。パリと海を繋ぐセーヌ河。その中間地点に河の港街として発展しました。

ルーアンの歴史は、2000年以上。ローマ軍遠征の時代まで遡ります。今でもその名残があり、ローマ風呂の遺跡が街のど真ん中に保存されています。ルーアンの人々もテルマエロマリエだったんですね。

そんなルーアンにもカトリックの伝教の波が押し寄せ、4世紀に、初の大聖堂が建築されました。すでにこの地は、大司教区がおかれるフランスカトリックでも、重要な場所になっていたのです。

その後、ルーアンはバイキングの襲来により街は破壊の危機を迎えます。そして、911年にノルマンディ―公国建国。ノルマンディ—がフランスの歴史に登場する最初の出来事でした。

その後14世紀になると、黒ペストの大流行。市民の半分の方々がペストによって、亡くなりました。その時に作られたお墓。サンマクルー回廊が今でも街中に存在します。

その頃フランスは、ペストだけでなく大きな戦争にも突入していきました。それが、イギリスと戦った100年戦争。2番目にルーアンがフランスの歴史に爪痕を残す出来事が、起こりました。

当時の救世主、ジャンヌダルクが火あぶりで処刑されたのが、このルーアンなのです。

作家で文化人のアンドレマルローが「おお!ジャンヌ。......(中略)君の魂はここにある。」と歴史的なスピーチをした場所、ジャンヌダルク教会は処刑場に建っています。

16世紀にはパリと海を繋ぐ、セーヌ河の港として街は発展の一途をたどります。しかし、第2のペストで3分の2の方々が亡くなり、人口は急速に減少します。

そして19世紀には、産業革命によりたくさんの工場が建てられ、経済的に大発展。その頃、印象派画家がたくさん押し寄せ、ルーアンの街の至る所を描きました。

バイキングの襲来からノルマンディ—公国が誕生して後、紆余曲折ありましたが、ルーアンは常に、ノルマンディーの首都して発展し続け、現在も経済的には安定した街の1つです。


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