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貰い火の記憶と発火器の例え

火山なのか落雷なのか。
人類は、間違えればあらゆるものを焼き尽くす危険極まりない、その出会った炎を利用しようと考えたらしい。
人が手に入れた火は、貰い火から始まったようだ。
それから何万年かの時を経て、自ら火を起こす方法を見つけたと言う。(今から数万年前)
火起こしは、摩擦か打撃なので、石を道具にする過程で発見したのだろうか。

火に対して人が畏れる気持ちを持っていたのは、火山や落雷の記憶、抗うことのできない凶暴性をはらんでいたからだろうが、神の存在を向かい入れた時に、どうやら違う事を思った人々も多いようだ。
神話には比喩が多いと思う。
中には後の時代の人々が、思い思いの解釈を加えているように感じる場合も無くはないが……

どうやら人は、発火器に性的シンボリズムを持たせたようだ。火きり杵を男火きり板を女と見なし、火起こしを男女の交わりに例える。
アフリカの言語やマレー語には、そういった例えの名称が残るらしい。

実は縄文展の時に、男性器のシンボルとされる石棒を豊穣の祈りとして紹介されていた事にずっと違和感を持っていて、今回少し文献をあたったところ、面白い事が出てきた。
石棒は、『炉』の付近で発掘される事が多いのだ。女性器を型どったものと対である事も珍しくなく、祭司、呪術を行ったと思われる場所の炉が多いと言う。
炉と火。石棒と火。無関係と言い切れるだろうか。

そして発火器の例えからの発展で、ポリネシア、ニューギニア、南米等に「火は元々女の体の中にあった」と思わせる神話も少なからずあると知った。

一方で、ギリシャ神話のプロメテウスのように、ゼウスが隠した火を盗んで人間に与えたと言うように、火を何処からか盗むという神話も散見すると言う。
差し出された火を貰う訳ではなく、危険を伴いながら手に入れることを盗むとしたのかも知れない。

日本神話は、カグヅチをイザナミが産み落とすように、女体に宿る火をイメージしているが、発火器から女体が持つ火へと連想した神話の場合も、イザナミがカグヅチを産んで亡くなったように、その危険性が充分に神話化されている。
ハワイのペレは代表格のようにわかりやすい。

貰い火の記憶と発火器の例え。

どうにも力の及ばない事に「神」なる存在を見出した人間は、言語を使って戒めを語り継いでゆく時にも、象徴的な事柄を神々の物語にする方法を選んだのだろうか。
狩猟が中心、農耕が中心によってもどちらに重きを置くか、違いが出てくるかも知れない。

自然にあるものを利用しながら命を繋いできた人間。
火の獲得、そして火を自ら作り出す技術の発明は文明の祖であるようにも思う。神を生み出す序奏になったのかも知れない。


わたし達は宇宙にも手を伸ばし、あちらこちらにある神性を尊重しながら、いったい、これからどのような神話を語ってゆくのだろうか。
願わくば先人の知恵を足蹴にせずに、素朴で愛おしく、日常に溶け込むものであって欲しいと思う。


*矢口さんの炎のエッセイを読んで考えた事をまとめたものです。





#エッセイ #コラム #note神話部

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