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平成元年に生まれて

 末娘が生まれたのは平成になった年の梅雨の時期。

 三人目ともなればわたしにも余裕があった。上ふたりの子供を抱えその当日まで、自転車に乗って買い物にも出ていた。いよいよお産が始まる前兆が来たその時、家中をきれいに掃除してから義母にふたりを預け、荷物を持って病院に出かけた。

 子供を出産するということは、いつの時代であってもおおごとだ。医療の発達、痛みを和らげる技術云々だけではなく、それまで母体に守られていた命が母体から離されるという瞬間だからだ。
 そして同時に、命が授かり育った以上、それは極めて自然なことでもある。

 今年の夏、末娘にはどうか自分の体に気を遣ってほしいと願っている。
 冬に、恐らくは年明け早々に子供が生まれるからだ。わたしは名実共に、おばあちゃんになる。

 自分が妊婦だった時は本当に自然のことと考えて、どの子の時も特別なことなどせずに、当たり前に普通に生活をしていた。
 そのくせ我が子のこととなるとやれ暑さは大丈夫か栄養はとれているかと、いちいち気にかかる。今年の夏空は、あまりにも眩しく見事過ぎるではないか。身重の体にはさぞ堪えるだろう、と。
 実際にはまだまださほど目立たない大きさだし、本人はもちろん普通に過ごしている。当たり前だ。
 そんなものだとは聞くが、本当にそうなのだ。
 産休に入るまでは自分のことなど棚にあげて、きっとひやひやするのだろう。重いものはなるべく持たないようにとか、駅の階段に気を付けて、とか。電話口で言っている自分の姿が目に浮かぶ。
 母親とはどこまでも難儀で愚かで可笑しなものだ。

 この娘が生まれた時に、出生祝いとして市役所からいただいた金木犀の苗は、剪定を繰り返しどんどん大きく育った。今年の夏の暑さにも負けず、葉を青々とさせている。
 わたしはこの木に向かい、暑いに違いないだろう、今涼しくしてあげるからと、半ば話しかけるようにホースでそっと水を掛ける。

 平成最初の梅雨時に生まれ、名前に夏という文字の入る娘は、平成最後の冬に母親になる。いや、もう既にお腹の中の子供に話しかける母親として、この夏を過ごしているのだろう。

 心配は百害あって一利なしとも言うではないか。わたしは余計な口を挟まずに、そっと見守っているとしよう。


母となる子を案じては空仰ぎ無事身ふたつにとただそればかり
短歌 作:吉田 翠

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