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ギフテッドを考える

 中学教員をしているもので、教育系の相談をされることがままあります。そのなかで「私の知り合いが、ほらなんて言うの?ギフテッドみたいで……」なんて話をもらいました。そこで水を差すのも良くないので、笑って流しましたが、ちょっと世間とギフテッドへの認識の違いがあるように感じます。それを今回は整理していきたいです。

ギフテッドに定義はない

 ギフテッドというのに定義はないようです。Googleで検索すると出てくるのはメンタルヘルスの病院のコラムかメディアくらいのものです。それもざっと読んでみても明確な定義はありませんでした。ただ一般に言われているのはIQ130以上ということのようですが、それも芸術系のみ突出しているとなると当てはまらないので、なんとも言い難いもののようです。医学的に根拠はないということでしょう。定義がないということことは診断もないということだと理解しています。

文部科学省からの提言

 文部科学省では世論に応えて提言を出しているようです。

 文言としてはでていますが、ギフテッド教育をしなさいということではなく、「多様性が認められる社会において”個別最適な学びと協働的な学び”を生かすことでギフテッドの生徒も網羅できるし、そういう人がいることを知っておきましょう」という意味にとりましたが、どうでしょう?
 理想論かもしれませんが、文部科学省の言っていることは筋が通っていると思います。今の個別最適な学びとは個人の伸長に寄り添うものであり、ギフテッドへの配慮も問題ないと思います。どうしても、学校では物足りないというのも分かります。そういうなかで、個別最適な学びを実現することで、多少の問題解決の糸口が見つかると思います。なかなか大変なことですけどね。

みどりが恐れていること

 ここで怖いのは「ギフテッドを自称している人」なんですよね。もちろん、そういう特別な能力を認めないわけではないのです。そういう人も理解します。しかし、診断もないなかで「自分(または自分の子ども)はギフテッドだ!」と自称することには危うさを感じます。
 ネット社会で情報もあふれています。そういう状況で、ネットでうつ病診断をして勝手にうつ病を名乗ったり、発達障害を名乗ったりするのと同じように勝手に名乗るのはちょっと違うのではないか、という話です。
 発達障害を持っている人の中で一際目立つ才能を持つ人がいます。そういう人がギフテッドを名乗る場合、それは「自分の中では得意」なのか。「周囲と比較しても突出している」のかはよく吟味する必要があると思います。何かにすがりたい気持ちはわかりますが、正しく自分を理解することは必要なのだと考えました。また、その「理解のされなさ」については必要であれば医療関係など、様々なフォローを受けるべきです。

さいごに

 ギフテッドについて調べましたが、一部なので、あまり分かっていなかったらすみません。あまり間違いのないように書きたいのですが難しいですね。
 さいごに、読んだnoteで一番わかりやすく説明していらっしゃった記事と、私の好きな精神科医の益田先生のギフテッドの捉え方のYouTubeを紹介して終わりとしたいと思います。

では、また。