ひまわりを描ける画家になりたい
わたしがもしも芸術家だったら、ゴッホの描いたひまわりをみて、わたしもひまわりを描こうと思えるだろうか。
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何かを表現するときに時折襲ってくる感覚がある。それをわたしが表現することに意味はあるのか、というとても恐ろしい問いだ。
この本の素晴らしさはみんな知っているしな、こんなこと当たり前だしな、わたしが言わなくても皆知ってる。誰かが同じような意見を言ってくれるはずだ。そんな風に思ったことが今まで何度あっただろうか。
noteだって更新しなければそれだけの話。記事だって書かなければ出来上がらないだけ。わたしの表現がこの世界に生まれなくても世界は変わったりしない。
そんな時、そっと支えてくれるマンガの一コマがある。
『左ききのエレン』に登場する柳一の言葉だ。主人公の光一が勤める目黒広告社クリエイティブ局でクリエイティブディレクターを務める柳が、高校時代に発した言葉は、ともすれば当たり前の事なのかもしれない。
全く同じ感覚の人間なんていない。
あなたもわたしも違う人間、どんな風に物を見て、感じ、心を震わすのか、それをどんな風に解釈して反応して表現するのかなんて分からない。
『鬼滅の刃』を読んで、面白い、感動した。そう感じる人は世界中にあきれるほどいるかもしれないけれど、どこが面白かったのか掘り下げて議論した時、わたしと同じ言葉を一言一句違わずに話す人はきっといない。同じ言葉を書ける人は何億人の中に探してもきっといない。
同じ場面、同じセリフに感動した人がいたとしても、それはきっと感覚が似ていたり近いだけ。文字にしたり感じたことを絵にかいたり形にした時、ぴったり同じように表現できる人なんてこの世に絶対いないのだ。
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だからってわたしが表現することに意味があるとは言い切れない。
確かにそうかも。でも同じように意味がないとも言い切れない。これはわたしなりの屁理屈だけど、自分を奮い立たせるには十分だと思っている。
これは『BLEACH』の主人公、黒崎一護の言葉に影響を受けているのかもしれない。こんな言葉がある。
先ほど紹介した柳の言葉と同じように、行動より言い訳を先に考えてしまうときに自分の背中にそっと寄り添ってくれる考え方だ。
他の誰かがやってくれること、自分じゃなくても出来ること、それは事実かもしれないが、だからわたしがやらなくていいや。と考えるのはあくまでも自分が「やらない」という目的の為に作り出した言い訳なのだと肝に銘じておきたい。
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わたしがもしも、ひまわりを描きたいと思う芸術家だったなら、生まれてはじめてゴッホのひまわりを見て卒倒してしまうかもしれない。
でも、どんなにそのひまわりが美しく、途方もないものだったとしても、わたしの感じるひまわりを描かなくていい理由にはならないということを忘れずに、胸を張ってひまわりを描けるようになりたい。
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