【岡山県鏡野町】「”緑のふるさと協力隊”として過ごした1年を振り返って」
3月16日(土)の活動報告会をもって1年間の任期を終えた30期10名の隊員たち。
任期を終えたばかりの彼らが、緑のふるさと協力隊としての1年間を振り返って、今思うことを紹介していきます。
今回は、岡山県鏡野町で活動をした尾形有紀さんです。
①1年間の活動を通じて気付いたこと・感じたこと・考えたこと・学んだことについて
鏡野町は豪雪地帯のため、地域の方は雪や寒さに慣れた暮らしをしていました。ズボンの下にもスパッツをはいたり、毛糸の帽子をかぶったりされていました。冬の活動として編み物をされているからなのか、女性は編み物が上手な方が非常に多かったです。また、冬になると道路わきに積雪量を測定するためのポールが道に立ちました。地域には除雪基地があり、家の前の狭い道も除雪車で雪かきをされていました。
私の地元はわりと田舎なので、春にはわらびや筍を食べていました。春の山菜と言えばそれくらいでしたが、鏡野町ではそれに加えてタラの芽、コシアブラ、ウド、すずのこ、イタドリなど聞いたことのない山菜まであり、種類の多さや採れる量に驚きました。近所の方からもいただいたり、料理をご馳走していただいたりすることも何度もありました。とくに天ぷらはとても美味しかったです。秋には栗や銀杏は食べていましたが、初めてアケビとナツメも食べました。(アケビは食べ方が分からず、種まで噛んで口の中や喉がピリピリとしびれ、ちょっと大変でした…)猪肉も日常的にいただくことや食卓に出ることもありました。また、至る所に広い川が流れていて、その水はとても綺麗です。夜の明かりがないため、星空や月明りもまたとても綺麗です。鏡野町は地元と比べてさらに自然が溢れていました。
上齋原のソフトバレーサークルに参加した時のことです。私はバレーが苦手で、できるだけ避けてきました。しかし、サークルの方に何度も誘われて、しぶしぶ参加しました。案の定、サーブ練習でサーブすら入りませんでした。それに気が付いた方が教えてくださり、その日の練習だけでサーブが入るようになりました!教え方一つで今まで1回も入ったことのないサーブが入るようになるのだと驚きました。さらに、試合形式に参加すると上手にボールを回してくださり、失敗しても笑って賑やかでした。みなさんの雰囲気がとても良くて、人生で初めてバレーを楽しいと感じることができました。職場や社会でも全く同じで、丁寧な指導や楽しい雰囲気作りは大事で、このような環境で生きていきたいと思いました。
私は昨年まで学校で食育の授業をしていました。ありんこサロンでその経験をいかして栄養の話をしてほしいと頼まれました。みんなの前で話すような大したことはできないけどなあ…と思いながら、とりあえず授業でやっていた内容を簡単にまとめ、教材の用意や資料作りなど講話のための準備をしました。当日たくさんの方が来てくださり、みなさんに「分かりやすかった!」「勉強になった!」と言ってもらえました。嬉しかったことと同時に私の知識と経験が役にったことを実感しました。自分では当たり前に思っていること(食についての知識や講話の仕方)も他の人にしてみれば役に立つことがあるため、資格や経験は自分の財産であり糧となるのだと思います。これからもきっとそうだと思います。
実家の祖父母は農家で、桃の栽培もしていました。いまだに桃の木が数本残っていますが、昨年、最後の木が枯れてしまいました。あの美味しかった桃が食べたくて桃の木を植えて育てようと思っていました。実際に桃農家さんへお手伝いに行って話を聞くと、桃の木にも約15年という寿命があることや連作障害があるため数年空けないと同じ土地では栽培できないことを知りました。また、桃農家さんの苦労も知り、当時の私がそういうことに気づいていなかったことも知りました。農家さんは経験や感覚的なところもありますが、やりたい気持ちだけでは難しく、最低限の知識は大事であると分かりました。
②人間関係の広がりについて(地域内の交流)
私はいわゆる都会ではなく田舎出身のため、とても正直なところ、田舎暮らしを体験したいわけではありませんでした。鏡野町の富のみなさんは、お世話好きで、奉仕精神に溢れています。庭の草むしりをしていると近所で草刈り機を使っていたおじちゃんから「ついでだからやってやるよ」と言われて庭の草を刈ってくれました。また、初めは「昨日も遅くまで帰ってこなかったね」と言われ、よく見られているのは田舎あるあるだなあ…くらいに思っていました。しかし、地域の活動で関わっていくうちに「最近忙しそうだけど、ちゃんとごはん食べてる?何か作って持って行こうか?(または食べにおいで)」「お風呂も入っていいよ」と言われるようになりました。ここまでみなさんが可愛がってくれるようになり、それが心地良いと感じるほどにまでなりました。地域に馴染み、染まっていくのだなと感じました。まさか地域に愛着がわくとは思いもしませんでした。
③協力隊応募時の自分と今の自分を比較して、どのような変化があったか
協力隊になる以前の私は周りの方から、「きちんとできているし、間違ってないから、もっと自信をもって!」と何度も何度も言われてきました。これまでの私は何をやるにしても、とにかく自信がありませんでした。それはおそらく成功体験が少なかったからだと思います。協力隊になってからは「初めてのこと」「できないこと」にたくさん取り組むことで、あれもこれもが「できるようになる!」に変化しました。さらに、その積み重ねが「あれもこれもできるようになって、楽しい!」に変わり、次にまたやりたいというチャレンジ精神も湧いてくるようになりました。その自信がついてきたおかげなのか、こんなにも自分の意見や考えを述べることができるようになるのだと自分でも驚きました。
「自分を変えたい!」と思って協力隊に応募したわけではないですが、4月当初や以前の私を知っている人からは「何か変わった!」と言われることもあり、それは自信からくる成長した変化なのだろうと思います。
また、協力隊になってから、春夏秋冬、晴れの日や雨の日、朝昼晩の移り変わる景色、星空や川の流れ、その一瞬一瞬が美しいと感じ、感動するようになりました。地元も都会ではないため、そういう景色をたくさん目にしていたはずでしたが、こんなにも毎日の景色を楽しむことができるとは思っていませんでした。きっと今までより心に余裕がもてるようになったのだと思います。
「同じこの瞬間は二度とやってこない」と感じるようになり、より一層1日1日を大切に過ごしたいと思えるようになりました。
④これからの進路に与えた影響
これまで私はどの仕事に対してもやりがいがなくなっていき、転職や異動を繰り返しました。「何が向いているのか、何が好きなのか分からない」という気持ちから、協力隊に応募しました。色んな体験をして、日々を楽しみながらも、自分に合った将来につながる仕事を見つけたいと思って、どこか焦りも感じながら過ごしていました。ところが、この1年、本当に色んな人と出会い、話をして、色んな生き方があることを知りました。今までの職業でもたくさんの人に出会ってはいましたが、考え方が固定されていたことに気づかされました。関わったみなさんには、悩んでいることを話さずとも「そんなに頑張らなくても良い」「人生一度切りだから楽しまないと!」などの声をかけられました。ちょっと肩の力を抜いたり、遠回りしたり、ゆっくりと生きて良いのではないかと考えられるようになりました。そう思うと、国内でもまだまだ知らない世界もたくさんあるだろうと感じ、色々な世界を知りたくなりました。いずれはこの経験をいかして、未来を担う子どもたちに伝えていくことができればいいなと思っています。
⑤その他、農山村と都市の交流やあり方について
「不便を楽しんでください」協力隊OBから私にかけられた言葉である。都会では色んなものを簡単に手に入れることができる。一方で田舎は不便なこともあるが、畑でとれた野菜、山でとれた山菜や猪肉、川で釣れた魚など新鮮で美味しいものを食べられる。また、日々移り変わる美しい景色を見ることができ、人とたくさん関わることもできる。都会では得ることができないものがあること(農山村の良さ)を都市部の人に伝えていかなければならない。何が幸せと感じるかはその人次第だが、不便だから幸せでないわけではなく、(都市に住んだことがないため断言はできないが)農山村では幸せだと感じられることが多いと考える。そういったことをふまえて都市部の人に農山村への興味関心を持ってもらう企画や教育をする必要がある。また、農山村で生まれ育った人は、都市部に出て行ったとしても地元の魅力を発信していく努力をすべきである。
私が派遣された地域だけではなく、日本全国のあらゆる農山村地域で人口減少が進み、このままでは本当にその地域がなくなってしまう。国全体レベルで考え、取り組んでいく必要があると感じた。
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