「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【13回目】です。
今回は思考法ジャンルの本2回目。
戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)
著者である戸田山先生は、科学哲学を専門とする哲学者ですね。科学哲学の本も追々読んでいきたいと思っています。ですが今回読んだ本は一般向けの内容です。高校生~大学1年生くらいを読者として想定して、「じょうずに考える」方法について手ほどきするというものです。
まず一般的なレビュー
本書は、上手に考えるとはどういうことで、具体的な実践としてはどうしたらよいか、といったことについて書かれた本です。基本的には論理的に考えることが良いとされ、科学ないし学問の発展に学ぶことで、より上手に論理的思考を実践できるとのことです。
全体的に口語調で、気軽に読めてしまう印象の文ですが、内容は盛りだくさんです。書かれていることは「おっしゃる通り」という感じで、この全てを身に着けて論考に当たれたらとても良いな~、とは思うものの、なかなか一朝一夕には難しいようにも思えます。
全体の構成も分かりやすいように配慮されていて、上手に考えを伝える工夫の体現という感じがします。基本と実践の2部構成となっていて、はじめに伝えたいことのねらいを示してくれたり、各章の最後に内容のまとめを提示してくれたりします。大変分かりやすくまとめられているので、そちらを本書の雰囲気と内容の紹介として引いておきます。
じょうずな論理的思考
この本では、「じょうずに考える」ことは「論理的に考える」ことだと言われます。
では、「論理的な考え」とは何なのかというと、「サポート関係」でつながった考えだと言われます。この「サポート関係」が、本書全体を通して重要な概念となっています。
論理とは、文と文のあいだの推論関係に注目するものです。根拠や前提といった内容と、そこから導かれる結論や判断といった内容とのあいだの関係が、「サポート関係」です。
「カブトムシもテントウムシも昆虫だから、昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く。したがって、ミドリムシも昆虫だ。」
これもサポート関係を含む論理的な考えです。「カブトムシもテントウムシも昆虫だ」という根拠が、「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」という主張をサポートしています。さらに「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」が前提となって、「ミドリムシは昆虫だ」という判断をサポートしています。
でも、これはじょうずな考え方とは言い難いですよね? なぜかと言うと、サポート関係が弱いからです。
「カブトムシもテントウムシも昆虫だ」と言うのはまあ良いとしても、それだけで「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」は飛躍でしょう。トンボとかバッタとか、名前に「ムシ」が付かない昆虫もたくさん居ますよね。
仮に「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」という前提が正しかったとしても、そのことを以て「ミドリムシは昆虫だ」と言うのもおかしいです。ハリガネムシとかマムシとか、名前に「ムシ」が付くけど昆虫でない生物だって居ますから。
このように、サポート関係には強弱があって、弱いサポート関係は、「ツッコミどころがある」サポート関係となってしまいます。論理的思考であって、しかもじょうずな考え方だと言えるためには、強いサポート関係が必要です。
では、ツッコむことができない(反例を示すことができない)考えや意見が、じょうずな論理的思考なのかというと、そうとも限らない、というのがとても面白いところなのです。
完全にツッコミどころの無い思考や主張には、何も新しいことが含まれません。じょうずな思考とは、新しい考えを導いて、状況をより良くしたり、意外な気付きを提供してくれる、”中身のある”ものなのです。
じょうずな思考には、ただ論理的に考えることだけでなく、反論を受け止める勇気も要るわけですね。これって、大学院に入る学生が早期に身につけなければならない能力の一つですね。つい反論に怯えてしまうと研究の先輩から有意義な意見をもらえなかったり、せっかくもらえた意見を、嫉妬やイジメといった、論旨と関係無い行為の一種と決めつけて受け流してしまったりするものです。
ところで、「分類学」と言うくらいなので、生物の分類も、反論の余地ある「新しいこと」の積み重ねの上に成り立つ学問としての性質を有しているはずですよね。ここを明瞭にできると、僕の探究にも進展がありそうな予感があります。
ツッコミのやめどころ
強いサポートに支えられたじょうずな思考にもツッコミどころは付き物だと分かりました。ところで、ツッコミってセンスが問われる気がします。つまり、じょうずなツッコミでないと、じょうずな論理的思考の展開を促すことは出来なさそうです。
「そもそもミドリムシなんて本当に居るの?」とか、「実はみんな夢の中の幻想かもしれないよ」とか、あまりにも基本的なところに向けられるツッコミは、論点を良からぬ方向へ差し向けてしまいます。
どんなツッコミまでが有効かは、具体的で絶対的な基準では決められず、あくまで議論の場によりけりの、合意と納得の産物によるわけですね。じょうずな論理的思考というのも、意外と「空気を読む」スキルが必要になるようです。
複数人の議論の場であれば、論者どうしの合意が重要ですが、一人で考え込むときは、自分自身の納得が重要になります。僕はもしかすると、「ミドリムシは動物なのか?植物なのか?」という議題に対してツッコミすぎているのかもしれないですけど、まだまだ自分自身の納得に至れていないので、引き続きツッコミ続けますよ。もしこの議題について、誰かと議論するようなことがあれば、その時は別途その場での有効なツッコミの程度を探らないといけませんね。
無限のツッコミどころは、「証拠の証拠」という形でも問題になります。
証拠の正しさについてのツッコミに真正面から応えるのは大変難しいので、現実的には学問の権威に頼っておくのが、とりあえずは良い方法とのこと。僕がたくさんの本を読んでnoteにまとめようとしているのも、これに近いことです。自分の持つ疑問に、最後には自分で考えて答えたいと思っていますが、哲学や生物学の権威はどのように考えたのか、ということを参考にしたいのです。
しかし僕には結構、なんでも同列に扱いたがる志向もあるかもしれないです。だから本も大量に買い漁ってしまうのですよね。買い漁るとき、著者の経歴や出版社は全然気にしていません。じょうずに考えることのできない人かも…
疑似論理的思考
この本は、論理的思考について説くとともに、その偽物、「疑似論理的思考」についても説明しています。
本の中で紹介されている六つの代表例は、次のように題された者たちです。
同語反復とその仲間たち
主張の中身ではなく「人」を攻撃する
「わら人形」論法
どうでもよい細かな点に議論をすりかえる
「ジレンマ」もしくは「強いられた二者択一」
「滑りやすい坂」またの名を「雪だるま」
今回の記事ですべてについて触れることはしませんが、中でも特に興味深かった【「わら人形」論法】の話には触れておきます。
これは、相手の主張を極端な主張として拡大解釈して、それに対するツッコミを行うことで論破を仕掛けるやり方のことです。極端な主張というのは例外を許さない強い主張です。しかし世の中大概のことには例外がつきものなので、極端な主張に対する反例の提示(ツッコミ)は、比較的容易です。つまり極端な主張は、やっつけやすい相手なのです。【「わら人形」論法】とは、本当は存在しない極端な主張の持ち主、つまり架空のやっつけやすい相手をでっち上げ、それを論破することで上手な論理的思考を実践している気になろうとする、疑似論理的思考なのです。
さてこの引用では、Bの行為が【「わら人形」論法】として非難の対象となっています。しかし、TwitterなどのSNSでは、むしろAの方が非難される場面が多くないでしょうか? いわゆる「主語がデカい」とか、場合によっては「差別的」として非難されるように思えます。
Aの発言した文には、「すべて」や「多い」といった、指示範囲を明確にする語(論理学でいう量化子?)が含まれませんので、解釈のブレが生じえます。思うにSNSでは発言が、それが為された状況や前後の会話、発言者の特性などと切り離されて拡散しやすいために、余計に解釈のブレが助長されるでしょう。
こうした状況で適正に論理的思考を実践するのなら、発言者の指示意図が極端な場合であると決めつけて非難せず、まずは発言者の意図する指示範囲を明確にするステップが必要なように思えます。つまり、非難の対象があるとすれば、それは架空の極端な意見ではなく、あいまいな表現の方でしょう。グライスの格律にも、【方法の格律】(漠然とした表現はしない)というのがありましたね。
「ミドリムシは動物か?植物か?」という疑問についても、発話者が「生物はすべて必ず動物か植物のどちらかに分類される」という極端な分類思考をもっていると決めつけてはいけませんね。
おわりに
今回は大変ためになる本でした。しかし論理的思考の実践を意識しながら、疑似論理的思考に陥らないように注意もしていると、なんだか何も発言できない気になってしまいますね。論理的思考の上手さも、明瞭に上手/下手、というものではなくて、グラデーションになっているのかもしれません。どのくらいで良しとするかは、結局考える人、議論する人々の合意や納得に依るのでしょう。
最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。