「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【11回目】です。
今回はついに言語哲学大全シリーズ最終巻です。長かった、、、
飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)
『言語哲学大全』Ⅰ~Ⅲ巻までで、『名指しと必然性』の読解に役立つ背景知識を得たいという当初の目的は既に達成されています。しかしせっかくなのでシリーズ最終巻であるⅣ巻も読みました。自分の探究に役立ちそうな事柄について、まとめておきます。
まず一般的なレビュー
本書の内容の中心は、「デイヴィドソンのプログラム」と呼ばれる、自然言語(≒日常的に自然と人々が話している言語)の意味論の分析手法を、日本語に対して実践してみることです。文の意味を理解できる、ということについての緻密で具体的な分析が展開されています。
僕としては具体的な分析内容よりも、何か複雑でつかみどころのないものを理論立てて考えていくにはどうすればよいか、という、探究の姿勢について触れる部分が興味深かったです。
探究の方法論
意味論研究は、言語の意味が通じるという事態について、理論を組み立てながら探究するものです。こうして理論立てて進める探究の方法には、二つのやり方があるそうです。
おそらく、現代の生物学で主流な分類理論の在り方は前者かと思います。つまり、生物の分類は進化の系統に基づいて為されるべきであるという、原理的な主張がまずあって、そこから論理的に導かれる分類体系が支持されます。
他方で、専門的でない一般的な生物の分類感覚……つまり多くの人々が人生を通して慣れ親しむ感覚は、後者に近しい流れで形成されるものである気がします。どんな生物が動物であって、植物であるのか、具体的な事例がまずあって、それに沿うように分類感覚が醸成されていくというような…。
ところで自然言語という複雑で膨大な現象を相手にして研究を進めるには、ひとまずは断片的な部分を相手にして具体的な研究を実行していくしかなさそうです。しかしこのやり方にも二通りの方法があるそうです。
古くからの生物学の進み方が前者寄りであるのに対し、近年の逆遺伝学や合成生物学といったアプローチは後者寄りの探究方法かもしれませんね。こういった方法論は、分類理論の探究にも活かされる余地があるでしょうか? 僕としては、なんとなく後者の方法は分類理論については適用できないような直感があり、そのことが「生物を分類する」ということの性格を理解する手がかりになるのでは、という気もしています。
会話のふくみ――協調の原理と格律
本の内容の中心は意味論の分析であり、これは話し手が発話した文から、聞き手が意味を汲み取る過程についての解明を目指すものです。意味論の特徴のひとつとして、その自動性が挙げられます。
一方、文のみからでは自動的に理解されない事柄も、コミュケーションにおいては重要になります。先の引用の中では、空が晴れ渡っているという状況と、「雪が降っている」という発話のミスマッチが、訝しさを感じさせます。聞き手は状況や文脈を踏まえて、例えば雪が降っていることとは別の何かを話し手が伝えようとしているはずだと考え、話し手の意図について考えを巡らせます。こういったことは「会話のふくみ」として、意味論とは少し違った観点で考察されるべきものだそうです。この点についてのグライスという人の考えが面白く、『はじめての言語哲学』からも引いておきます。
僕の探究のゴールは、必ずしもミドリムシについての真なる分類の在り方を提示することでは無くて、「ミドリムシは動物か?植物か?」という疑問に適切に答えることです。したがって、これは発せられた疑問に対して回答で応じるという言語コミュニケーションの一種ですから、「会話のふくみ」への配慮も要するように思えます。つまり、この疑問の発せられうる文化的、あるいは知識的、もしかしたら歴史的な、背景も踏まえる必要がありそうだと思うのです。
まずこの疑問を発することができる人は、「動物」と「植物」の概念を有しているはずで、「ミドリムシ」についても何らかの情報を知っていて、そのことが分類を迷わせているのだろう、と分かります。とすれば、「動物」「植物」「ミドリムシ」の概念についてどのような理解をしているときに、この疑問が発せられうるのか、という考察ができるはずで、ここに協調原理も関わる気がします。
言語の探究が実在の探究でもあること
言語の意味というものについて考察し続けた『言語哲学大全』シリーズは、意外にも実在の探究という、形而上学への接続で締めくくられます。面白かったので触れておきます。これは平たく言えば、何か実在物というのが初めに在って、それを言い表すことができるのが言語である、と考えず、言語で言い表されることによって実在が確立するとする考え方のようです。フレーゲの考えを引きます。
クワインも近しい考え方をしていたようです。個々人にとっての、何が存在していて何が存在しないか、という世界観は、個々人がどのような理論を正しいと考え受け入れるかに依るものだといいます。
これは相対主義的な考え方を含むものと言えそうです。何が存在して何が存在しないかは、人それぞれの信じる理論に依って異なっていてよいということでしょう。ある人にとっては神が存在し、ある人にとってはウイルスなんて存在しない、というように。
しかしそうは言っても、本当に本当のところでは、真に存在しているものと真に存在していないものとは決まっているのではないか? 絶対の正解があるのではないか? という直観も否定しがたいものです。
クワインは、科学理論が実在についての絶対の正解に最も近いものであるはずだと考えたのですね。デイヴィドソンの場合は、言語の一般的な構造を研究することが、実在というものの特徴を明らかにすると考えたようです。
実在について異なる意見を持つ人どうしでも、現に言葉を通わせることができているのなら、根底のところでは同じ世界観を共有しているはずで、それゆえ共通した存在論的コミットメントも発生しており、それを明らかにすることで実在の特徴も見えてくるはずだ、と考えるわけですね。
おわりに
言語についての研究って、「既にそれとして成り立っていることについての分析」である点で、自然科学にも近しいものを感じます。異なる点としては、応用領域が見えづらいことでしょうか。自然科学は、その知見を応用して産業や医学に貢献することができます。もしかして僕が知らないだけで、言語哲学にもプログラミングやAIの領域あたりに応用の場があったりするのでしょうか。『言語哲学大全Ⅳ』の日本語断片の分析は、そんなことを思わせるような内容でした。
さて、随分長く言語哲学の本を読んでいたので、次は少し毛色の違うジャンルの本を読んでみるつもりです!
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