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M012. 【哲学・本】言語哲学大全Ⅳ 真理と意味

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【11回目】です。
 今回はついに言語哲学大全シリーズ最終巻です。長かった、、、

飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 『言語哲学大全』Ⅰ~Ⅲ巻までで、『名指しと必然性』の読解に役立つ背景知識を得たいという当初の目的は既に達成されています。しかしせっかくなのでシリーズ最終巻であるⅣ巻も読みました。自分の探究に役立ちそうな事柄について、まとめておきます。

まず一般的なレビュー

 本書の内容の中心は、「デイヴィドソンのプログラム」と呼ばれる、自然言語(≒日常的に自然と人々が話している言語)の意味論の分析手法を、日本語に対して実践してみることです。文の意味を理解できる、ということについての緻密で具体的な分析が展開されています。

 本書がめざすのは、デイヴィドソンそのひとが何を言っているかを追跡することではなく、デイヴィドソンによってその端緒が開かれた意味論上のプログラムに対して、どのような哲学的動機づけと正当化を与えることができるかを、過去三十年間にわたる議論の蓄積のなかから探ることである。それにあわせて、本書では、このプログラムを現実の自然言語に適用する際に、どのような問題が生じ、それに対してはどのようにして解決をはかることができるのかという点についても、具体的な分析例に即してみて行きたい。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 僕としては具体的な分析内容よりも、何か複雑でつかみどころのないものを理論立てて考えていくにはどうすればよいか、という、探究の姿勢について触れる部分が興味深かったです。

探究の方法論

 意味論研究は、言語の意味が通じるという事態について、理論を組み立てながら探究するものです。こうして理論立てて進める探究の方法には、二つのやり方があるそうです。

 理論が立てられる仕方のなかには、対照的な二つのものがある。ひとつは、正しいだけでなく、何らかの意味で原理的と思われる主張をいくつか立て、そこから何が論理的に帰結するかを見ようというやり方である。この場合、理論は、探究の道具として使われる。それに対して、もうひとつのやり方は、成り立つことがすでにわかっている主張の集まりがあるとき、その全体を論理的帰結としてもつ理論を作ることである。この場合、理論は、ある分野の知識を体系化・組織化するための道具としてはたらく。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 おそらく、現代の生物学で主流な分類理論の在り方は前者かと思います。つまり、生物の分類は進化の系統に基づいて為されるべきであるという、原理的な主張がまずあって、そこから論理的に導かれる分類体系が支持されます。
 他方で、専門的でない一般的な生物の分類感覚……つまり多くの人々が人生を通して慣れ親しむ感覚は、後者に近しい流れで形成されるものである気がします。どんな生物が動物であって、植物であるのか、具体的な事例がまずあって、それに沿うように分類感覚が醸成されていくというような…。

 ところで自然言語という複雑で膨大な現象を相手にして研究を進めるには、ひとまずは断片的な部分を相手にして具体的な研究を実行していくしかなさそうです。しかしこのやり方にも二通りの方法があるそうです。

自然言語は、その成熟した使い手にとってさえ見通せるものではない。理論家もまた、せいぜい、そうした使い手と同じ場所から出発するしかない。したがって、理論家にできることは、言語の部分ごとに、とりあえずの見通しをつけながら進むことだろう。
 だが、そうする仕方にも二通りあるひとつは、たがいに関連する語彙や語法を研究するために、言語の他の部分についての文法と意味論は仮に既知のものとして進むというやり方である。自然言語に関する記述的研究の多くは、こうした形を取る。たとえば、日本語の複合動詞にはどのような種類のものがあり、それぞれどのような文法的および意味論的特徴をもつか研究する場合、複合動詞と一緒になって文を作る名詞句や副詞句といった他の要素の文法と意味論は背景として前提するだけにとどめるような場合が、そうである。それに対して、もうひとつのやり方では、何かが暗黙のうちに背景として前提されるようなことはいっさい許されない。このやり方でも、扱うのは、言語の一部にすぎない。だが、それは、それ自体で完結した文法と意味論を与えることができるような言語の一部でなくてはならない。これを「言語断片 a language fragment」と呼ぶ。ある語彙と語法が言語断片の手法による研究の対象として選ばれたならば、それから構成できるすべての文は、この断片に属するのでなくてはならない。
 言語学者のパルテーは、対照的なこの二つの方法を特徴づけて、前者は「完全な自然言語のさまざまな側面の、小規模ではあるが興味深い断片的分析」、後者は「自然言語の断片の、小規模ではあるが興味深い完全な分析」であると述べている。
――(中略)――
 「断片的分析」と「断片の構成」という二つの方法は、対照的ではあるが、どちらか一方しか取れないというわけではない。扱うべき言語的現象の見当をつけたり、さまざまな理論的選択肢を比較するには、前者の方法が適しているだろう。それに対して、採用した理論的選択肢が実際の言語現象に適合するかどうかを検証するには、関連する言語の部分を断片として構成するという方法以上に具体的なやり方は見当たらない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 古くからの生物学の進み方が前者寄りであるのに対し、近年の逆遺伝学や合成生物学といったアプローチは後者寄りの探究方法かもしれませんね。こういった方法論は、分類理論の探究にも活かされる余地があるでしょうか? 僕としては、なんとなく後者の方法は分類理論については適用できないような直感があり、そのことが「生物を分類する」ということの性格を理解する手がかりになるのでは、という気もしています。

会話のふくみ――協調の原理と格律

 本の内容の中心は意味論の分析であり、これは話し手が発話した文から、聞き手が意味を汲み取る過程についての解明を目指すものです。意味論の特徴のひとつとして、その自動性が挙げられます。

しかしながら、発せられた言葉の言語的意味を理解するという過程そのものは、自動的になされる過程だと思われる。たとえば、真夏の午後、晴れ渡った空を眺めながら、友人が私に

(7)雪が降っている

と言ったとする。私は、友人がなぜそんなことを言ったのかを訝しく思い、あれこれと考えをめぐらすだろう。しかしながら、「友人がそんなことを言った」というその「そんなこと」が何であるかに関して、私が迷うことはない。それは「雪が降っている」という文が意味することであり、日本語の使い手である限り、私はこの文が何を意味するかをほとんど否応なしに理解してしまっている。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 一方、文のみからでは自動的に理解されない事柄も、コミュケーションにおいては重要になります。先の引用の中では、空が晴れ渡っているという状況と、「雪が降っている」という発話のミスマッチが、訝しさを感じさせます。聞き手は状況や文脈を踏まえて、例えば雪が降っていることとは別の何かを話し手が伝えようとしているはずだと考え、話し手の意図について考えを巡らせます。こういったことは「会話のふくみ」として、意味論とは少し違った観点で考察されるべきものだそうです。この点についてのグライスという人の考えが面白く、『はじめての言語哲学』からも引いておきます。

文字どおり言葉で表現されたこと以外にコミュニケーションの対象になる内容を「会話のふくみ」とよんだグライスは、「協調原理」という基礎的な原理が、そのようなコミュニケーションを可能にすると考えた。
――(中略)――
[協調原理] 会話において受け入れられている目的と方向がそのつど要求することを話し、その会話に貢献せよ。
――(中略)――
これはいわれてみればあたりまえだが、一般原理としての協調原理はかなり抽象的なので、じっさいどうすればこの原理に準じた言語行為ができるのか、即座にさだかではない。この問題点を正すために、グライスはよっつの「格律」を提唱する。

[量の格律:情報] 会話の目下の目的が要求する量の内容を話す(要求される以上の内容は話さない)。
[質の格律:真理] 偽だと思うことはいわない(適切な証拠がないことは言わない)
[関係の格律:関連性] 無関係なことはいわない。
[方法の格律:明瞭性] 漠然とした表現はしない(曖昧さを避ける。端的に話す。整然とした言葉づかいをする)。

これらの格律は、あたりまえで、いうまでもないものだと思われるかもしれないが、その「あたりまえさ」こそ、これらの格律の真実性のあかしだといえるだろう。
――(中略)――
 グライスの原理と格律は、日常会話で常に誰の頭のなかにもあって、話し手の発話に直面したとき聞き手が意識的に使って「会話のふくみ」を計算するような、心理学的にリアルな原理・格律として提案されているわけではない。「いわれてみれば、そうだ」という反応はひきおこすだろうが、いわれてみなければその原理と格律を明確に表現できるひとは非常に少ないだろう。それがグライスのえらいところである。誰もいわなかったことをはじめて定式化し、「そういわれてみれば、そのとおりだ」または「そんなことは、あたりまえだ」という反応をひきおこす理論的にポジティブな業績は、簡単になしとげられるものではない。

出典:八木沢敬・著『はじめての言語哲学』(2020年 岩波書店)

グライスのつぎのような文章からは、会話の理論の構成要素のいわば超越論的証明をかれがゆめみていたことがうかがわれる。

…私は、協調の原理や格率の遵守が理にかなった(合理的な)ものであることを、次のような結論を目指す方向で明らかにできればと考えている。すなわち、会話/伝達にとって中心的な目的(たとえば、情報の授受だとか、影響を与え合ったりすることだとか)を配慮する人なら誰でも、適当な状況では、《言葉のやり取りは全体として協調の原理と格率を遵守する形で行われる》という仮定の下で初めて有益となる種類の言葉のやり取りに参加することに関心を持つことが予想されるのでなければならない、という結論である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 僕の探究のゴールは、必ずしもミドリムシについての真なる分類の在り方を提示することでは無くて、「ミドリムシは動物か?植物か?」という疑問に適切に答えることです。したがって、これは発せられた疑問に対して回答で応じるという言語コミュニケーションの一種ですから、「会話のふくみ」への配慮も要するように思えます。つまり、この疑問の発せられうる文化的、あるいは知識的、もしかしたら歴史的な、背景も踏まえる必要がありそうだと思うのです。
 まずこの疑問を発することができる人は、「動物」と「植物」の概念を有しているはずで、「ミドリムシ」についても何らかの情報を知っていて、そのことが分類を迷わせているのだろう、と分かります。とすれば、「動物」「植物」「ミドリムシ」の概念についてどのような理解をしているときに、この疑問が発せられうるのか、という考察ができるはずで、ここに協調原理も関わる気がします。

言語の探究が実在の探究でもあること

 言語の意味というものについて考察し続けた『言語哲学大全』シリーズは、意外にも実在の探究という、形而上学への接続で締めくくられます。面白かったので触れておきます。これは平たく言えば、何か実在物というのが初めに在って、それを言い表すことができるのが言語である、と考えず、言語で言い表されることによって実在が確立するとする考え方のようです。フレーゲの考えを引きます。

 存在論的問題へのフレーゲ流の接近法の特色をよく示すのは、「対象」という観念についてのかれの扱いである。アリストテレスであろうが、カントであろうが、哲学における「対象」の伝統的観念には、ある偏向が隠されている。伝統的な立場によるとき、本当の意味で「対象」と言えるのは、空間的・時間的に一定の位置を占める具体物であり、こうした具体物と何らかの類似を示していることが、弱められた意味ですら「対象」と呼ばれるためには必要な条件である。これに対して、フレーゲにとって、「対象」とは、単称名によって指されるものである。つまり、対象という存在論的カテゴリーは、単称名という文法的――むしろ「意味論的」と言う方が適切だろう――カテゴリーによって完全に規定される観念なのである。
――(中略)――
繰り返せば、フレーゲにとって、対象とは、単称名によって指示されるものであった。ある言語表現は、それが対象を指示するから単称名であるのではない。そのように考えることは、論理とは別の場所ですでに対象の一般的観念が与えられていると考えることである。対象を指示するものが単称名なのではなく、単称名が指示するものが対象なのである。
 こうした考え方は、対象以外の他の存在論的カテゴリーにも適用できよう。この方向で一般化をさらに進めるならば、意味論が存在論である、あるいは、存在論の全体は意味論で尽くされるといったテーゼに行き着くだろう。このテーゼの含意するところは大きい。伝統的立場からみられた対象の観念に隠されている具体物への偏向は、対象とは基本的にわれわれが「出会う」ことのできるものであるという考えに基づいている。それに対して、存在論とは意味論の別名であるとすることは、言語を媒介としない、対象との「直接的出会い」といったものはありえないとすることである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 クワインも近しい考え方をしていたようです。個々人にとっての、何が存在していて何が存在しないか、という世界観は、個々人がどのような理論を正しいと考え受け入れるかに依るものだといいます。

理論的探究から何らかの存在論的結論が引き出される際にしばしば用いられるのが、クワインの提案になる「存在論的コミットメントの基準」である。
――(中略)――
要するに、クワインの基準は、なにが存在するかを教えてくれるものではなく、任意の理論が与えられたとき、その理論によればなにが存在するとされる――「存在者とされる to be assumed as an entity」――かを教えてくれるものである。そうした存在者が実際に存在するかどうかは、問題となっている理論を受け入れるかどうかに依存する。もしもその理論が正しいと考えるならば、その理論がコミットしている存在論にわれわれもコミットすることになるが、さもなければそうしたコミットメントは生じない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 これは相対主義的な考え方を含むものと言えそうです。何が存在して何が存在しないかは、人それぞれの信じる理論に依って異なっていてよいということでしょう。ある人にとっては神が存在し、ある人にとってはウイルスなんて存在しない、というように。
 しかしそうは言っても、本当に本当のところでは、真に存在しているものと真に存在していないものとは決まっているのではないか? 絶対の正解があるのではないか? という直観も否定しがたいものです。

 存在論的コミットメントの基準によっては、述語論理の言語で表現された理論が与えられたとき、「その理論によれば、なにがあるのか」ということしか答えられない。「では、本当のところ、なにがあるのか」と聞かれたときにわれわれはどうすべきか。クワインはおおよそつぎのように答える。――この問いに答えるためには、何が本当であるか、つまり、真理はどうなっているかを知らなくてはならない。真理とは、この世界について成り立つことのすべてである。よって、世界全体を包括する真である理論があれば、それによって表現されるものが真理である。そうした理論を現在のわれわれが手にしているという保証はない。しかしながら、科学探究とは、世界全体を包括する真である理論を手に入れようとする努力のことである。したがって、われわれにできることは、現在の段階の科学において受け入れられている理論を、現在のわれわれがもちうる最上の理論と考えて、それに対して存在論的コミットメントの基準を適用することである。
 世界についてのわれわれの認識の基礎に、世界の構成要素との直接的出会いのようなものを想定することはできないと考える点で、クワインもまたフレーゲ的伝統につながる哲学者のひとりである。何が存在するかは、何が存在するとわれわれが言うかということと、われわれが言うことが真であるかという二つのことに依存している。だが、何が存在するとわれわれが言うかという問いを考慮する際に、クワインは、物理学を中心として組織立てられた自然科学に最大の発言権をもたせる。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 クワインは、科学理論が実在についての絶対の正解に最も近いものであるはずだと考えたのですね。デイヴィドソンの場合は、言語の一般的な構造を研究することが、実在というものの特徴を明らかにすると考えたようです。

「形而上学における真理の方法」をデイヴィドソンは次のように書き出す。

コミュニケーションのために必要とされるという意味で、言語が共有されているとき、われわれは、大綱的な特徴において真でなければならない世界の描像をも共有している。このことから、言語の大綱的な特徴が明らかにされるならば、実在の特徴も明らかになるはずだということが帰結する。形而上学の探究を進めるひとつの道は、それゆえ、言語の一般的構造を研究することである。もちろん、これが形而上学の唯一正しい方法というわけではない。唯一の方法などというものは存在しない。だが、それはひとつの方法であり、プラトン、アリストテレス、ヒューム、カント、ラッセル、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、クワイン、ストローソンのような時代的にも学説的にもきわめてかけ離れた哲学者たちによって実践されてきた方法である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

もちろん、かれらが真だと思っていることは必ずしもわれわれが真だと思っていることとは一致しないだろうし、何を善いと思っているかについても、さまざまな食い違いがあるだろう。だが、真だとかれらが思っていること、善いとかれらがみなしているものが、われわれの場合と全面的に――文字通り、全面的に――相違するということはありうるだろうか。
 デイヴィドソンが指摘するのは、信念を共有してこそ相違ということは了解可能になるということである。

相違はたしかに了解可能だが、それは共有された信念という背景に照らしてという限りのことである。共有されているものは一般に話題にされない。それらは、あまりに陳腐でありふれていて注目に値しない。しかし、広汎な共通基盤なしには、論争をとりおこなうために論争者が位置する場所もない。もちろん、おたがいに通じるところが多くあるのでなければ、同意することも反対することもできない。だが、おそらく、これはわかりきったことだろう。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』(2002年 勁草書房)

 実在について異なる意見を持つ人どうしでも、現に言葉を通わせることができているのなら、根底のところでは同じ世界観を共有しているはずで、それゆえ共通した存在論的コミットメントも発生しており、それを明らかにすることで実在の特徴も見えてくるはずだ、と考えるわけですね。

おわりに

 言語についての研究って、「既にそれとして成り立っていることについての分析」である点で、自然科学にも近しいものを感じます。異なる点としては、応用領域が見えづらいことでしょうか。自然科学は、その知見を応用して産業や医学に貢献することができます。もしかして僕が知らないだけで、言語哲学にもプログラミングやAIの領域あたりに応用の場があったりするのでしょうか。『言語哲学大全Ⅳ』の日本語断片の分析は、そんなことを思わせるような内容でした。

 さて、随分長く言語哲学の本を読んでいたので、次は少し毛色の違うジャンルの本を読んでみるつもりです!

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