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M014. 【思考法・本】思考の教室

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【13回目】です。

 今回は思考法ジャンルの本2回目。

戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 著者である戸田山先生は、科学哲学を専門とする哲学者ですね。科学哲学の本も追々読んでいきたいと思っています。ですが今回読んだ本は一般向けの内容です。高校生~大学1年生くらいを読者として想定して、「じょうずに考える」方法について手ほどきするというものです。

まず一般的なレビュー

 本書は、上手に考えるとはどういうことで、具体的な実践としてはどうしたらよいか、といったことについて書かれた本です。基本的には論理的に考えることが良いとされ、科学ないし学問の発展に学ぶことで、より上手に論理的思考を実践できるとのことです。

 全体的に口語調で、気軽に読めてしまう印象の文ですが、内容は盛りだくさんです。書かれていることは「おっしゃる通り」という感じで、この全てを身に着けて論考に当たれたらとても良いな~、とは思うものの、なかなか一朝一夕には難しいようにも思えます。
 全体の構成も分かりやすいように配慮されていて、上手に考えを伝える工夫の体現という感じがします。基本と実践の2部構成となっていて、はじめに伝えたいことのねらいを示してくれたり、各章の最後に内容のまとめを提示してくれたりします。大変分かりやすくまとめられているので、そちらを本書の雰囲気と内容の紹介として引いておきます。

第I部のねらい

 じょうずに考えるときもヘタに考えるときも、私たちはとにかく考えてはいるわけだ。じゃあ、両方に共通した「考える」ってどういうことなんだろう。まずはこれを明らかにしよう(第1章)。その次に、「じょうずに考える」ためにまず満たすべき条件だと思われている「論理的に考える」とは何か。これに答える(第2章)。「論理的思考」にできるかぎりシンプルな定義を与えることを目指すからね。その定義で大きな役割を果たすのが、「サポート」と「ツッコミ」という概念だ。この二つについてさらに深く考えてみる(第3章)。さてその次。ほんものを極めるためには、にせもの、まがいものにも通じていないといけない。論理にもこれは当てはまる。論理的思考とは何かをしっかりつかむには、いっけん論理に見えるがそうではない思考パターンのことを知るべきだ。疑似論理的思考ね。これについて第4章で扱おう。
 以上で、論理的思考とはどういうものかをわかってもらえるはずだ。ところが、私たちが生まれつき備えているアタマは、どうやらこの論理的思考があまり得意ではないんだな。この衝撃の事実を示そう(第5章)。だとしたら、いったいどうなるんでしょう、どうしたらいいの、とサスペンスを盛り上げつつ第Ⅰ部は終わり。その答えは第Ⅱ部を待て!

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

第Ⅱ部のねらい

 第5章でわかったこと。人間の心にはバイアスが備わっており、私たちが「じょうずに考える」ことを妨げている。私たちが生まれつきもっているアタマは、じょうずに考えるのに最適設計、というわけではない。こりゃ困ったねえ。
 でも、困ってばかりではいられない。どんなにしょぼいアタマであっても、それを使って考えるしかないから、できることは、何らかの補強手段でそのアタマを補ってあげることだ。ざっと分類すると、次の三つの手段がある。
①テクノロジーを使って考える。
②みんなで/他者といっしょに考える。
③考えるための制度をつくって考える。

 第Ⅱ部の実践編(6~11章)では、①から③までの具体的なやりかた・考えかたについて、それぞれ二つの章を使って紹介していこう。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

じょうずな論理的思考

 この本では、「じょうずに考える」ことは「論理的に考える」ことだと言われます。

 さてそこで、「じょうずに考える」ってどういうことだろうと自分に問いかけてみると、まずは「論理的に考える」ということかな、という答えを思いついた。同じような答えをしてくれる人は多いだろう。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 では、「論理的な考え」とは何なのかというと、「サポート関係」でつながった考えだと言われます。この「サポート関係」が、本書全体を通して重要な概念となっています。

 論理とは、文と文のあいだの推論関係に注目するものです。根拠や前提といった内容と、そこから導かれる結論や判断といった内容とのあいだの関係が、「サポート関係」です。

「カブトムシもテントウムシも昆虫だから、昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く。したがって、ミドリムシも昆虫だ。」

 これもサポート関係を含む論理的な考えです。「カブトムシもテントウムシも昆虫だ」という根拠が、「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」という主張をサポートしています。さらに「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」が前提となって、「ミドリムシは昆虫だ」という判断をサポートしています。
 でも、これはじょうずな考え方とは言い難いですよね? なぜかと言うと、サポート関係が弱いからです。

 「カブトムシもテントウムシも昆虫だ」と言うのはまあ良いとしても、それだけで「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」は飛躍でしょう。トンボとかバッタとか、名前に「ムシ」が付かない昆虫もたくさん居ますよね。
 仮に「昆虫の名前にはみんな「ムシ」が付く」という前提が正しかったとしても、そのことを以て「ミドリムシは昆虫だ」と言うのもおかしいです。ハリガネムシとかマムシとか、名前に「ムシ」が付くけど昆虫でない生物だって居ますから。
 このように、サポート関係には強弱があって、弱いサポート関係は、「ツッコミどころがある」サポート関係となってしまいます。論理的思考であって、しかもじょうずな考え方だと言えるためには、強いサポート関係が必要です。

サポート関係は程度の問題である。数学の証明のように、ちゃんとやれば根拠・理由が主張を100%サポートすることもある。その逆に、根拠・理由が主張をまったくサポートしない場合もある。
――(中略)――
ほとんどの場合はこの両極端の間にある。根拠・理由は主張を「ある程度」サポートする。主張の信憑性や確からしさをちょっと高め、主張の説得力をちょっと増す。
――(中略)――
 ところで「強いサポート」って、もうちょっとちゃんと言うとどういうことなんだろう。100%と0%の中間ケースでは、サポート関係にツッコミを入れることができる。あなたの根拠・理由は主張をそんなにサポートしていないよ、あるいはその程度のサポートじゃダメだよ、そんなのちっともサポートになってないよというツッコミである。
――(中略)――
そこで、「強いサポート」というのを「ツッコミに負けないサポート」と考えてみよう。
――(中略)――
ツッコミとは、サポート関係に対する反例を示すことだ。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 では、ツッコむことができない(反例を示すことができない)考えや意見が、じょうずな論理的思考なのかというと、そうとも限らない、というのがとても面白いところなのです。

 ツッコミが反例を指摘することだとしよう。そもそもなんでこういうツッコミができるんだろう。それは、結論・主張で、前提・理由で述べたことを超えた「新しいこと」を言って、その新しい結論・主張を同じ前提・理由でサポートしようとしているからだ。
――(中略)――
サポートする理由・根拠部分(サポート部分と呼んじゃおう)が言っていることがらより、サポートされる結論・主張部分が言っていることがらのほうがなんらかの意味で増えている、ということだ。だから、その増えた部分に間違いがまぎれこむかもしれない。これが、サポート部分が正しくても、結論・主張部分が間違っているケース、つまり反例だ。
 ということは、反例を指摘される、つまりツッコまれるということは、新しいことを言おうとしていることの裏返し、ということだ。ツッコまれる危険を冒さないと新しいことは言えない。だから、逆に言えば、ツッコミをどうしても避けたいなら、何も新しいことを言わなければよい、ということになる。たとえば、次の自称「サポート」を見てみよう。

(1)水星の内側にもう一つ惑星がある。なぜなら、水星の内側にもう一つ惑星があるからだ。
(2)水星の内側にもう一つ惑星がある。したがって、水星の内側にもう一つ惑星がある。

 これ、反例ないのよ。「なぜなら」あるいは「したがって」の前と後に同じ文がある。だから、「サポート部分が正しいのに、結論・主張部分が間違っているケース」はありえない。だって、そんなケースがあったら、同じ文が正しくて間違っている、ということになっちゃうから。
 かくして(1)と(2)には反例はぜったいにない。だから、たんに反例によるツッコミを受けるかどうかだけで考えると、これは論理的思考のお手本だということになっちゃう。だけど、これって何も新しいことを言っていないことに注意しよう。サポート部分で言っていることを超えるようなことを何も結論・主張していない(ただ繰り返しているだけ。だからこういうのを同語反復という)。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 完全にツッコミどころの無い思考や主張には、何も新しいことが含まれません。じょうずな思考とは、新しい考えを導いて、状況をより良くしたり、意外な気付きを提供してくれる、”中身のある”ものなのです。

「じょうずな論理的思考」とは、自分がこれまでに知ったり考えたりしたことを超えたことがらを考え、主張しようとすること。しかし、それだとツッコミが入る可能性がある。その可能性を引き受けて、できるかぎり強力なツッコミは阻止できるように、サポート関係をしっかりつくりあげながら考え、主張しなければならない。これが「強いサポート」ということである。

 ところで、自分の考えにはツッコミが入るということを自覚して何かを言ったり考えたりする、これって臆病者にはなかなかできない。論理的思考には勇気がいるんだ。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

だから、勇気をもって反論の隙がちゃんとあるような主張をしなければならない。つまり、中身のあることを主張しなければならない。中身のあることを主張すると、反論される。それでいいのだ。その反論のほうが正しいにせよ、反論にさらにキミが反論できたにせよ、最初より正解に近づいたんだから。
 学問はそれをやってきた。まず、主張をできるかぎり曖昧さのない言葉で表現する。そこに現れる言葉を厳密に定義する。実験手続きをちゃんと示したり、典拠(何という学術雑誌の何ページに載っている、といった情報)を示す。これらは、他の研究者たちに反論の手がかりを与えるためだ。同じ実験をやってみて違う結果が出たり、典拠に当たったら違う解釈をすべきだということがわかったりしたら反論される。その繰り返しで学問は発展してきた。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 じょうずな思考には、ただ論理的に考えることだけでなく、反論を受け止める勇気も要るわけですね。これって、大学院に入る学生が早期に身につけなければならない能力の一つですね。つい反論に怯えてしまうと研究の先輩から有意義な意見をもらえなかったり、せっかくもらえた意見を、嫉妬やイジメといった、論旨と関係無い行為の一種と決めつけて受け流してしまったりするものです。

 ところで、「分類学」と言うくらいなので、生物の分類も、反論の余地ある「新しいこと」の積み重ねの上に成り立つ学問としての性質を有しているはずですよね。ここを明瞭にできると、僕の探究にも進展がありそうな予感があります。

ツッコミのやめどころ

 強いサポートに支えられたじょうずな思考にもツッコミどころは付き物だと分かりました。ところで、ツッコミってセンスが問われる気がします。つまり、じょうずなツッコミでないと、じょうずな論理的思考の展開を促すことは出来なさそうです。
 「そもそもミドリムシなんて本当に居るの?」とか、「実はみんな夢の中の幻想かもしれないよ」とか、あまりにも基本的なところに向けられるツッコミは、論点を良からぬ方向へ差し向けてしまいます。

A:あのラーメン屋、廃業したぞ。
B:え、なんで?
A:さっき通りかかったら、店の扉に「店主体調不良のため3月10日をもって閉店しました」って張り紙がしてあったんだ。
B:ああ、そうなのか。あそこはうまかったのに、残念だな。
――(中略)――
 ここで、「3月10日で閉店という張り紙があったからといって、廃業したとはかぎらないぞ、店主の冗談かもしれないじゃないかとツッコもうと思えばツッコめるということに注意しよう。でもBはそれをしなかった。そういうツッコミもありうるけど、この際は言いっこなしだ、そんなツッコミはヘリクツだ、やりすぎだ、場違いだと判断したわけだね。
 このことからわかるのは次のことだ。サポートが強いというのは、「なるべくツッコミが入らない」ということだと言ったけど、それは「考えられるかぎりのどんなツッコミも入らない」という意味ではない。その状況で適切なツッコミはない、ということを意味する。
――(中略)――
 で、場に即した有効なツッコミとは何か、というのは一概には決められない。対話の参加者がどういう人か、どういうことがらについて、何を目指して話をしているのか(あるいは考えているのか)、参加者がそれぞれ何を知っているのかに左右される。仮にこの会話が4月1日になされたもので、二人とも店のおやじが冗談好きだということを知っている、という状況なら、さっきのツッコミは適切で有効なツッコミになるかもしれない。
 どうすれば論理的に考えた(対話した)ことになるのかの具体的な基準は、思考や対話を取り巻く状況、とりわけそれをおこなっている人たちの共通知識に左右される、ということがわかった。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 そうすると、ツッコミ→サポート→ツッコミ→サポート……の果てしない連鎖をうまいところで断ち切ることは「じょうずな論理的思考」にとってとても重要だということがわかる。断ち切るためには、一人で考えているなら、自分にとってこれはもうそれ以上のサポートがいらないだろうというところを見つけることが必要だ。他の人といっしょに考えているなら、「これはもうツッコまないでいいよね」と合意できるところを見つけることが必要になる。
――(中略)――
 というわけで、キミが目指すべきは次のことだ。

(1)いまは論理的に考え、語るべきときなのかを見極めることができる。
(2)論理的に考え、語るべきときにはそれができる。
(3)時と場合(相手が誰かも含む)に応じて、どのていど論理的に考え、語ればよいのかの見極めができる。

 こうやって書き出してみると、難しそうに思える。だけど、これってまともな大人なら自然とできるようになっているはずのことだ。これが難しいということは、ひょっとしたらまともな大人になるのが難しいということかもしれないが。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 どんなツッコミまでが有効かは、具体的で絶対的な基準では決められず、あくまで議論の場によりけりの、合意と納得の産物によるわけですね。じょうずな論理的思考というのも、意外と「空気を読む」スキルが必要になるようです。
 複数人の議論の場であれば、論者どうしの合意が重要ですが、一人で考え込むときは、自分自身の納得が重要になります。僕はもしかすると、「ミドリムシは動物なのか?植物なのか?」という議題に対してツッコミすぎているのかもしれないですけど、まだまだ自分自身の納得に至れていないので、引き続きツッコミ続けますよ。もしこの議題について、誰かと議論するようなことがあれば、その時は別途その場での有効なツッコミの程度を探らないといけませんね。

 無限のツッコミどころは、「証拠の証拠」という形でも問題になります。

 さて、「強いサポート」であるためには、有効なツッコミが考えられないサポート関係になっているだけではダメで、証拠じたいが正しくなくてはいけない、たんに証拠があげてあるだけでは不十分。ここまではよい。でも自分が使っている証拠が正しいってどうやってわかるんだろう。あるいは、相手にそれを認めてもらうにはどうしたらよいのだろう。
 残念ながら、自分がサポートのために使おうとしている証拠が、ほんとうに正しいのかどうかをすぐに直接に確かめることができるとはかぎらない。また、自分はそれが正しいと確信していても、相手も同じように正しいと認めてくれるかどうかはわからない。どうしよう……。
 解決法がある。自分にも相手にも、より正しそうだと思ってもらえるような証拠を使うんだ。つまり、ちゃんとサポートされた証拠だ。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 言っていることの内容で判断するのは難しい、というよりできない。ある人はホロコーストの犠牲者は数百万人だと言い、別の人はホロコーストなんてなかった、ユダヤ人の陰謀だと言う。ある人は、恐竜は隕石の衝突で滅んだと言い、別の人はその前から恐竜の絶滅は始まっていたから隕石が主な原因ではないと言う。どっちが信用できるかを、言っていることの内容で判断しようとすると、キミは歴史学者や地球科学者になって自分で研究をしなければならない。そんなことはできない。
 じゃあ、どうしたらよいのだろう。簡単だ。どっちがまともな学者であるか、どっちがまともな出版社から出ている本かを比べればいいんだ。ちゃんと学会に所属していて、博士号をもっていて、大学や研究所に勤めている人なのか、そうでないのか。発行元が、他にも学術書を出しているちゃんとした出版社なのか、陰謀本や特定のイデオロギーの宣伝をするトンデモ本、嫌韓本ばかり出している、「売らんかな出版社」なのか(残念ながらそういう出版社はたくさんある)。これなら、歴史学や地球科学を学ばなくても判断がつくだろう。
 えー。そんな権威主義的なことでいいんですか、と言われるかもしれない。いいんです。というかこれしかないんです。ガクモンはよく考えるための制度だと言った。そうしたら、その制度に属している人は、属していない人より「じょうずに考える」ことができるだろう。その制度の一部になっている出版社はそうでない出版社より、じょうずに考えた成果を出版している可能性が高いだろう
 恐竜の滅亡原因についてはまだ決着が完全についてはいない。だから、ちゃんとした恐竜学者でも、それぞれ異なる説を主張している。その場合は、どっちも信用していいんだ。信頼できるかどうかということは、結果として言っていることが正しいか間違っているかとは関係ない。どっちもそれぞれ信用できるが、まだ白黒はつかないらしいね、と思っておけばよい。
 つまり、主張をみんなで吟味して、批判し合って、より良いサポートを求め合って……真理に少しでも近づこうとするグループの一員の言うことなら、とりあえず信頼してよい。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 証拠の正しさについてのツッコミに真正面から応えるのは大変難しいので、現実的には学問の権威に頼っておくのが、とりあえずは良い方法とのこと。僕がたくさんの本を読んでnoteにまとめようとしているのも、これに近いことです。自分の持つ疑問に、最後には自分で考えて答えたいと思っていますが、哲学や生物学の権威はどのように考えたのか、ということを参考にしたいのです。

じょうずに考えることのできない人は、どんな情報も同列に扱う傾向がある。ちゃんとした本に書かれていることも、怪しげなウェブサイトに書かれていることも区別なしだ。これではガクモンを味方につけて思考力を拡張したとは言えない。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 しかし僕には結構、なんでも同列に扱いたがる志向もあるかもしれないです。だから本も大量に買い漁ってしまうのですよね。買い漁るとき、著者の経歴や出版社は全然気にしていません。じょうずに考えることのできない人かも…

疑似論理的思考

 この本は、論理的思考について説くとともに、その偽物、「疑似論理的思考」についても説明しています。

 ここから先は、疑似論理的思考・議論(ヘリクツ)の代表的なものを六つお目にかけよう。こういう考えかたをする人、こういう議論をする人は世の中にたくさんいる。知らずにやってしまう人もいるし、知っててあえてやっている人もいる。まずはこういう人たちから身を守ってほしいんだ。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

本の中で紹介されている六つの代表例は、次のように題された者たちです。

  1. 同語反復とその仲間たち

  2. 主張の中身ではなく「人」を攻撃する

  3. 「わら人形」論法

  4. どうでもよい細かな点に議論をすりかえる

  5. 「ジレンマ」もしくは「強いられた二者択一」

  6. 「滑りやすい坂」またの名を「雪だるま」

 今回の記事ですべてについて触れることはしませんが、中でも特に興味深かった【「わら人形」論法】の話には触れておきます。

 これは、相手の主張を極端な主張として拡大解釈して、それに対するツッコミを行うことで論破を仕掛けるやり方のことです。極端な主張というのは例外を許さない強い主張です。しかし世の中大概のことには例外がつきものなので、極端な主張に対する反例の提示(ツッコミ)は、比較的容易です。つまり極端な主張は、やっつけやすい相手なのです。【「わら人形」論法】とは、本当は存在しない極端な主張の持ち主、つまり架空のやっつけやすい相手をでっち上げ、それを論破することで上手な論理的思考を実践している気になろうとする、疑似論理的思考なのです。

A:しかし関西の人ってヨシモトの芸人が好きだよな~。
B:んなことないよ。うちんとこのお母ちゃんヨシモトだいっ嫌いやで。

 Bがやったような反論を「ウチのオカン型反論」という(ウソ、いま私が名づけた)。ウチのオカン型反論は、たった一つ、あるいはごく少数の例外をあげて、相手に反論しようとする。無効な反論だ。それで反論になっていると思うってことは、相手の主張を、たった一つの反例でアウトになるような主張だとみなしているということを意味する。つまり、Aが「関西人は全員ヨシモトの芸人が好きだ。例外なし!」という極端な主張をしていると決めつけて反論していることになる。もちろん、Aはそんな極端な主張はする気がない。たんに、関西は他の地域に比べて吉本ファンが多い、くらいのことしか言ってない。だから、Bのやっていることってわら人形でしょ。

出典:戸田山和久・著『思考の教室』(2020年 NHK出版)

 さてこの引用では、Bの行為が【「わら人形」論法】として非難の対象となっています。しかし、TwitterなどのSNSでは、むしろAの方が非難される場面が多くないでしょうか? いわゆる「主語がデカい」とか、場合によっては「差別的」として非難されるように思えます。
 Aの発言した文には、「すべて」や「多い」といった、指示範囲を明確にする語(論理学でいう量化子?)が含まれませんので、解釈のブレが生じえます。思うにSNSでは発言が、それが為された状況や前後の会話、発言者の特性などと切り離されて拡散しやすいために、余計に解釈のブレが助長されるでしょう。
 こうした状況で適正に論理的思考を実践するのなら、発言者の指示意図が極端な場合であると決めつけて非難せず、まずは発言者の意図する指示範囲を明確にするステップが必要なように思えます。つまり、非難の対象があるとすれば、それは架空の極端な意見ではなく、あいまいな表現の方でしょう。グライスの格律にも、【方法の格律】(漠然とした表現はしない)というのがありましたね。

 「ミドリムシは動物か?植物か?」という疑問についても、発話者が「生物はすべて必ず動物か植物のどちらかに分類される」という極端な分類思考をもっていると決めつけてはいけませんね。

おわりに

 今回は大変ためになる本でした。しかし論理的思考の実践を意識しながら、疑似論理的思考に陥らないように注意もしていると、なんだか何も発言できない気になってしまいますね。論理的思考の上手さも、明瞭に上手/下手、というものではなくて、グラデーションになっているのかもしれません。どのくらいで良しとするかは、結局考える人、議論する人々の合意や納得に依るのでしょう。

 最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。


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