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M005. 【哲学・本】ウィトゲンシュタインのパラドックス

「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本について書き留めるnoteの【4回目】です。

今回は哲学者ソール A. クリプキ(1940 - )に関する、以下2冊の本。

ソール A. クリプキ・著、黒崎宏・訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1983年 産業図書)。

 ② 飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版)。2015年に発行されたKindle版の方で読みました。

僕は著者のクリプキという哲学者については、他の著作(『名指しと必然性』)を読みたいと思ったことをきっかけに知り、後からこの本も書いていたことを知ったのです。ちょうどウィトゲンシュタインについて記事にまとめた直後なので、続けてこの本を読もうと思ったわけです。

また現在、ウィトゲンシュタイン後期著作『哲学探究』の最新邦訳本も読書中です。以下で直接引用する箇所はありませんが、影響を多大に受けながら、今回の記事を書きました。

まず一般的なレビュー

『ウィトゲンシュタインのパラドックス』はタイトルのとおり、前回の記事でも触れたウィトゲンシュタインの哲学についての本。

世のほかの哲学書の例にもれず、この本の内容も超難解で、更に翻訳本ならではの読みづらさもあいまって、さわりを理解するだけでも2周以上は読み込む必要がありました…。

幸運なことにこの本の内容を平易な文で解説してくれている飯田隆さんの著書がありましたので、そちらも併せて読むことで、なんとか内容が把握できた気になりました。

本の中では、ウィトゲンシュタインの哲学を下地として、「言葉が意味をもつとはどういうことなのか?」ということについて議論されます。以下の記事中では特に触れませんが、帰納法についての懐疑論などにも言及があり、常識のように思っていることを疑って考えてみる哲学的な思考法を勉強できました。

クリプキによる懐疑論発見の背景

「ウィトゲンシュタインのパラドックス」の内容について説明するには、まずその背景に触れる必要があるように思います。

この本の内容は、ウィトゲンシュタインの後期著作『哲学探究』(略して『探究』)についてのものです。クリプキという哲学者は『探究』の中に、ある壮大な哲学的議論を見出しましたが、これはその当時(1970~80年代はじめ頃?)あまり重視されていない論点だったようです。他方で当時の『探究』読者たちが大きく取り上げていた論点といえば、例えば「私的言語論」でした。私的言語というのは、以下のような言語のことです。

他人には理解できず、私だけが理解できる言語」のように特徴づけられる。ただし、他人にも理解することは原理的に可能だが、たまたま私だけが解読の鍵をもっているような言語は、私的言語ではない。私的言語とは、他人が理解することが論理的に不可能な言語のことだからである。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版)

代表的な私的言語は「痛み」です。自分の「痛み」はどうやっても他人に正確に感じてもらうことはできませんし、自分も他人の「痛み」を正確にそのまま感じることはできません。「痛み」がどんな感覚を指し示す言葉なのか、他者と理解し合うことは難しいのです。

これとは違って、例えばある人が個人的に、心の中で、自宅の観葉植物に名前を付けていたり、毎日習慣的に行っている行動に独自の造語の動詞をあてがったり、といった場合の語では、私的言語とは呼ばれないでしょう。説明さえすれば他人にも正確に理解してもらえるでしょうし。

ところで近代哲学における伝統的な言語観は、言葉は必ず何かの事実を指し示す記号である、とうものだったそうです。その中でも「痛み」のような、感覚や感情を指し示す言葉は「私的言語」と呼ばれたわけですね。前期ウィトゲンシュタインもこうした伝統的言語観の例にもれず、その代表著作『論考』は、言語とは「世界の構造を写し取って論理的に物事を表現する記号の配列(=命題)」であるといった考え方が下地になっていました(前回の記事参照)。

一方、後期ウィトゲンシュタインの哲学は、前期ウィトゲンシュタインの哲学を批判し、解体しながら展開してゆきます。そして『探究』では、私的言語などあり得ないといった、伝統的な言語観を揺るがす論調が現れます。では、ウィトゲンシュタインは如何にして私的言語が不可能であるという結論に至ったのか?という点が、『探究』読者たちの主要な論点になっていた、とのことです。

しかし実は『探究』本文中の、私的言語について論じられる部分より少し前の部分において、「そもそも、あらゆる言語、あらゆる概念形成が、不可能かもしれない」という、凄まじい懐疑論が先に提示されていると、クリプキは言いました。これが本当なら、反私的言語論は、あらゆる言語についての不可能性の議論から当然導かれる、ひとつの各論に過ぎなかったということになります。

ウィトゲンシュタインは、懐疑論のある新しい形を発明したのである。個人的には私はそれを、今日まで哲学が見て来た最も根源的で独創的な懐疑的問題であり、高度に異能な精神のみが作り出し得たものである、と見なしたいと思っている。

出典:ソール A. クリプキ・著、黒崎宏・訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
(1983年 産業図書)

『探究』はウィトゲンシュタインの死後に出版されたものですし、本当にクリプキの解釈の仕方が、ウィトゲンシュタインの意図に合致しているか、という点については様々な議論があります。というか、合致していないという見方の方が多いようです。クリプキ独自の解釈が入りすぎて、”クリプケンシュタイン”と呼ばれることもあるそうです。しかし、ここでクリプキが強調した懐疑的議論とその懐疑的解決が、哲学史に大きな影響を与えたことは、その後の議論の波及から見て取れます。

規則のパラドックスとクワス算の懐疑論

『探究』の中心テーマの一つは「言語ゲーム」でした。「言語ゲーム」はおよそ、言語の使われ方を、ある規則(ルール)に従って行われるゲームのように見る、見方のことです。また、「言語ゲーム」は『探究』原著のドイツ語 "Sprachspiel" の和訳ですが、ドイツ語 "spiel" には、「遊び」や「ゲーム」の他に、「劇」という意味もあるそうです。言葉や人間や状況や文脈、あらゆるものが役割を演じたり、効果的な演出をしたりする、演劇の一場面のように、言語の使われ方を見るという意味合いも、「言語ゲーム」という表現に含まれているようです。

しかし言語の使われ方が、何らかのある規則に従ったゲームのようだ、といっても、それは後出しジャンケンのように、何らかの規則に従っているように恣意的に解釈できるというだけのことではないか? なにかの規則に従っている、などと表現するのは無意味ではないのか?

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例えば上図のように、グラフ上の3つの点の並びを見てみましょう。この点たちは、ある決まった線上に位置づけられるという法則に従って配置された点である、と言ってみる。直ちに思い浮かぶのは、全ての点を通る直線。3つの点は、この直線上に並ぶという法則のもと、配置されたのだと納得できます。しかし、他にも3つの点を通る線はいくらでも思いつく…。「ものごとが何らかの規則に従っている」と言うことは、解釈のしようによって後からいくらでも言えることなのだから、無意味な言明のようにも思えるのです。それこそ、どんな出来事が生じても、これも神の御意思だ、とか言って辻褄をあわせるような…何か怪しげな宗教じみた言語観ではないだろうか…? そうなってしまっては、規則に従っているとも従っていないとも、何とも言えない状態になるのでは…?

『探究』の第198~202節あたりは、そんな、規則に従うことについてのパラドックスを持ちかける懐疑論者と、ウィトゲンシュタインとの対話のような体裁で、展開されます。

クリプキはこの、規則に従うことのパラドックスについて深掘りするつもりで、「クワス算」の懐疑論を展開します。それは、68 + 57 という計算(普通に計算すれば、答えは 125)の正しい答えは 5 である、と誰かに言われても、125と言いたい自分の正しさを擁護できる事実が無い、という頭の痛くなるような思考実験です。

ちなみにここでは、自分の人生の中で、計算に現れた最大の数は 56 までであったということが前提されています。ここの数字は何でもよくて、要は、自分がこれまでに計算したことのない大きな数の計算に出くわしたとき、を想像してほしいということです。あなたが小学校低学年くらいだったときを思い起こしてみてください。57という数がとてつもなく大きく思えた頃がきっとあったことでしょう。

さて、初めて計算する大きさの数ですが、臆することはありません。落ち着いて数式を見てみましょう。「+」は足し算を意味する記号ですので、これまでの人生通りの足し算として計算すれば、 68 + 57 の答えは 125 …と言いたくなります。しかしひねくれた懐疑論者がやって来て、「君がこれまで通りの計算をするなら、答えは 5 とするべきだ。君がこれまで通りに計算したら答えが 125 になることについて、証拠を出してみてくれ。」などと言ってきます。

ここで注意が必要です。この懐疑的議論の目的は、人々の知識に何か不備や不当な思い込みがあって、それを暴いて驚かせてやろう、というものではありません。我々が当たり前のように思っていることが、そもそもどういったことなのか、精緻に見極めるために、極端な例を考えてみることが目的なのです。なので、懐疑論者の主張の粗を探して反論したりはせずに、まずは相手の要望に応えるとして、とにかく自分の答えの正しさの証拠を探してみる姿勢で臨みましょう。

繰り返しになりますが、「+」は足し算を意味する記号ですので、足し算と呼ばれる関数(仰々しい言い方…!)の規則に従って計算すれば、 68 + 57 の答えは 125 となって然るべきです。…と、懐疑論者に説明すると、相手は次のように言います。

「たしかに「+」が足し算を意味しているなら、答えは 125が正しい。しかし、そうではない。「+」は、足し算ではなく、クワス算を意味しているのだ。クワス算とは、 57 より小さい数の計算のときには、君が言うとおりの足し算の計算をして、 57 以上の数の計算の時には、答えを必ず 5 とする、という規則の関数だ。君もこれまでの人生で、ずっと「+」がクワス算を意味しているということで、計算を行ってきたじゃないか。君がこれまで従ってきた通りの規則に従うなら、正しい答えは 5 とするべきだね。」

規則のパラドックスとの関連が見えてきましたね。この懐疑論者の「君はこれまで「+」が「クワス算」を意味していると認識して計算してきたはずだ」という指摘は、明らかに誤りという感じがします。そんな特殊な関数の計算なんて、これまでの人生で教わったことも行なったことも無いはずだ…。しかし一方で、クリプキによれば、「これまで「+」が「足し算」を意味していると認識して計算してきた」という自分の信念を擁護するための証拠になる事実も、一つとして挙げられないらしいのです!(証拠を挙げる事が出来るという反論に対する再反論について、クリプキは本の中でかなりの文量を割いて解説しています。それらを読むと、確かに自分の主張の証拠となる事実を挙げることは難しいように思えます。クリプキは、全知の神でさえも証拠となる事実を挙げることはできない、と言います。)

ひとがふつう当然知っていると思っている事柄について、それを知っていると考える正当な理由が本当にあるのかと問い、そんな理由はないと結論する議論のことを「懐疑論」と呼ぶ。ただし、「懐疑論」という言葉は、正当な根拠をもたない考えを軽々しく信じるべきではないといった態度のことを指すためにも用いられるから、それと区別したいときには「哲学的懐疑論」と言う。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版)

さらにこのクワス算の懐疑論の強烈なところは、「自分がこれまで「+」が「足し算」を意味していると認識して計算してきたということについて、証拠となる事実が存在しない」という言明が、そのままあらゆる言葉の意味についても拡張できてしまうところです。例えば次のように。

「自分はこれまで「植物」は「光合成できる生物」を意味していると認識して「植物」という言葉を使用してきたと思っているが、そのことについて証拠となる事実が存在しない。」

こんなことがあっては、自分が使用する言葉の意味にはいくらでも再解釈の余地があり、言葉の意味を正しく理解し、使用するということがどういうことなのか、良く分からなくなってきてしまいます。自分が言葉に意味をもたせて使用することは、あり得ないことになってしまうのでしょうか…。

もしも「+」についての懐疑的仮説を斥けることができないならば、他の言語についての懐疑的仮説を斥けることもできない。その結果は、「私はこれまでEという言葉で……のことを意味してきた」という形で言い表される事柄を、われわれは、当然知っていると思ってきたけれども、じつは知ってなどいなかったということである。――(中略)――懐疑的議論には二種類のものがある。ひとつは、話題となっている領域に関する真理をわれわれが知ることはできないということを示そうとするだけで、その領域にそもそも知るべき真理があるかどうかを問題にはしない種類の懐疑論である。――(中略)――他方、ある領域に関するわれわれの知識の主張がまちがっているのは、そこにそもそも知るべき真理がないからであると論じる種類の懐疑論がある。――(中略)――われわれが相手にしている懐疑的議論は、後者の種類の議論である。――(中略)――クワス仮説を斥けられない限り、言葉で何かを意味してきたという事実があるかのようにわれわれは振舞い語っているが、それもまた単なる思い込みのうえに成り立っているのだと結論せざるをえないのである。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版)

この懐疑論について、クリプキ自身も相当頭を悩ませていたようです。

このような事態を注意深く観察して来た私は、ときおり、ある不気味な感情を持ったものである。この文章を書いている今でさえ私は、未来のあらゆる場面において、私に何をなすべきか指示するところの或るもの――言うなれば私が「プラス」という記号に与えている意味なるもの――が、私の心の中に存在しているという事を、確かに感じている。――(中略)――しかし翻って考えるに、私が今私の心の中にあるものに注意を集中するとき、一体どんな指示がそこに見出され得るのだろうか。そして、何らかの指示がそこに見出されたとしても、未来において私が行為するとき、如何にして私は、それらの指示に基づいて行為しているのだと、言われ得るのだろうか。未来の私が参照するための、無限に多くの場合の計算結果の表が、私の心の中にあるわけではない。即ち、私の心の中にあり得るのは、有限個の場合の計算結果の表のみなのである。そして更に、未来において、如何に「プラス」の計算をなすべきかを私に告げるところの、ある一般法則が私の心の中にあるのだ、と言うことは、単に問題を、やはり有限個の場合の計算結果のみによって与えられていると思われるところの、他の諸規則に、移しかえているだけなのである。未来において私が行為するとき、私が使用するどんなものが、私の心の中にあり得るのだろうか。かくして、私の心の中にある意味なるものの観念は、全く雲散霧消してしまうと思われるのである。 このような信じ難い結論から、我々は逃れ得るのだろうか。

出典:ソール A. クリプキ・著、黒崎宏・訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
(1983年 産業図書)

懐疑的議論の懐疑的解決

しかし、そうはいっても実際のところ我々は日々普通に言葉を使用して、生活を営むことができています。自分の言葉が何かを意味していることの根拠となる事実が無いからと言って思い悩む場面は、今を除いてありません。そんなことを気にしなくても、正しく言葉を使用できている……はずなのです。

ということは、「自分が「ある言葉」は「ある内容」を意味していると認識して使用することについて、証拠となる事実が存在しない」ことは、「自分が言葉を正しく使用できるための条件に関係ない」、ということではないでしょうか…!

いずれにせよ肝心なのは、意味についての懐疑論を認めたとしても、意味についての言明は事実的言明ではないと認める限り、言葉はいっさい意味をもたないという破壊的な結論は避けられるということである。 だが、それで一件落着というわけには行かない。「意味についての言明が事実的言明でないならば、それはどういう種類の言明か」という問いが控えているからである。意味についての懐疑論を認めながらも、意味について語ることを放棄するのでないならば、この問いに答える事が出来なくてはならない。こうした方向での懐疑論への対処のことを、クリプキは「懐疑的解決」と呼ぶ。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版)

しからば、その「懐疑的」解決とは何か。懐疑的な哲学的問題に対して提供された解決が、よく調べてみたら「懐疑論」には正当な根拠がない事がわかった、という事を示しているとすれば、あるいは、わかり難い複雑な議論を経て、懐疑論者によって疑われていたテーゼは正しい事がわかった、という事を示しているとすれば、その解答を「正面からの解決(straight solution)」と呼ぼう。――(中略)――それに対し、懐疑的な哲学的問題についての懐疑的な解決(sceptical solution)は、懐疑論者の否定的言明については正面からは答えられない、という事を認めることで始まる。しかし、我々の通常の実践あるいは確信は、正当化を必要とするかに見えるにもかかわらず、懐疑論者によって否定せられた正当化は必要としないがゆえに、正当化されているのである。そしてまさに、懐疑論者の議論の価値の多くは、彼が、通常の実践は、もしそれがそもそも擁護されるべきであるとしても、ある仕方(例えば、正面からの解決を与える、という仕方)では擁護され得ないのだ、という事を示したという事実に、あるのである。このような懐疑的解決はまた――さきに示唆したように――通常の確信についての懐疑的分析あるいは懐疑的説明を含んでおり、それによって、通常の確信は形而上学的不合理に一見言及しているかに見える事を、論駁しているのである。

出典:ソール A. クリプキ・著、黒崎宏・訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
(1983年 産業図書)

近代哲学の伝統的な言語観であった、「言葉は必ず何かの事実を指し示す記号である」とうものを受け入れている限り、「言葉が正しく使用されるためには、その言葉に指し示されるべき何かの事実が必ず存在している」はずです。しかし、これまでの懐疑的議論はこれを拒否し、指し示されるべき事実が無くても、言語は正しく使用されることができるという懐疑的解決が提示されます。では、言語が正しく使われるための条件(正当化条件)は何でしょう?

クワス算の議論の中で、68 + 57 の計算の答えは 125 である、とする自分の主張の正しさが揺らいだのは、ひねくれた懐疑論者が現れたからでした。マトモな人との会話だったら、そんなことは起こりません。自分の計算の答えが125で正しいということに、相手も同意してくれるでしょうから

そして、ここが重要なのです。マトモな相手がいるとき、言葉の意味は正当化され得るのです。

私だけを孤立させて考えたときには「正しいこと=正しいと思われること」であったのに対して、私が属する社会との関係において私を考えるとき、「正しいと私に思われること=正しい」ということにはならない。社会という観点を持ち込んだおかげで、社会の構成員のひとりひとりにとってそれぞれ正しいと思われることと、その大部分にとって正しいと思われることとを区別できるようになるからである。私に正しいと思われることが、社会の構成員の大部分にとって正しいとは思われないとき、正しいことと正しいと私に思われることとは明らかに一致しない。そしてこの場合、正しさは私以外のところにある。 よって、私が「+」でプラスのことを意味しているという言明の正当化は、私個人についての事実によってではなく、「+」を含む言語表現への私の反応を、私が属する社会が正しいものとして受け入れるかどうかに依存する。「68+57は?」という問いに対して「125」と私が答えるならば私の答えは受け入れられるが、「5」と答えるならば私の答えは受け入れられない。もしも私の答えがあまりにもひんぱんに社会からの拒絶に会うようなときには、私は、でたらめを言っているのでなければ、「+」でプラスのことを意味していないと判定されるだろう。そして、こうした判定に抗弁して、自分の言葉で自分が何を意味しているかをいちばんよく知っているのは自分だと言い立てることはできない。私が何を意味しているかを決めるのは私ではないからである。意味についての懐疑論に対する懐疑的解決の要点は、私以外のひとが私の言葉を受け入れてくれることによって、私の言葉は意味をもつということだからである。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版発行)

というわけで、言葉がきちんと意味をもって正しく使用されるための条件は、その正しさに対する共同体の一致に依るということになります。そういえば前回の記事で触れた中に、「正確」に対するウィトゲンシュタインの考えとして、「目的」について考える必要がある、というものがありましたね。もしここまで議論してきた「正当化」を、「正確化」と読み替えて良いなら、そして言語の目的を他者とのコミュニケーションと考えて良いなら……そもそも言語における正しいとは、共同体の一致が得られることを言う、と言ってしまっても良いのかも…。

自分の行う行為の正しさ、とりわけ、「言葉で何かを意味する」のような自分の心の中で行っていると思われる行為の正しさが、実は自分では決められず、社会によって決められる、というのは、素朴な感覚としてはなんとも信じ難い結論です…。

しかしクリプキは以上の議論をウィトゲンシュタインの『探究』から読み取り、言語一般に言えるこの帰結を以てすれば、私的言語も成り立たないことが導けると言ったわけです。

したがって、私的言語が不可能であるという主張は、デカルト以来の哲学的伝統をゆるがすだけの重要性をもちうる。『哲学探究』を論じた初期の解釈者たちの多くが私的言語論を大きく取り上げたのも当然である。しかしながら、私的言語の不可能性を示すとされる『哲学探究』での議論の妥当性はおろか、それがそもそもどんな議論であるかに関してさえ、解釈者間での見解は一致していなかった。 それに対して、先にも述べたように、『哲学探究』の目的が、意味についての懐疑的議論とそれに対する懐疑的解決を提出することにあるとするクリプキの解釈を取るならば、私的言語の不可能性はすぐに見て取ることができる。懐疑的議論によれば、私が「痛み」という言葉で痛みのことを意味するといった私自身に関する事実はまったく存在しない。「痛み」という言葉で私は痛みのことを意味するといった、われわれの日常の語り方を廃棄しようというのでもない限り、ひとは懐疑的解決に訴えるしかない。それによれば、「痛み」という言葉で私が何かを意味できるためには、私は他の人々から是認されるような仕方で「痛み」という言葉を用いることができなくてはならない。「痛み」のような私的な感覚を表す言葉であってさえも、それに意味を付与するのは、私ではなく、共同体における一致なのである。ここに私的言語のようなものが存在しうる余地がないことは明らかである。

出典:飯田隆・著『クリプキ ことばは意味をもてるか』(2004年 NHK出版発行)

以上が、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の概要です。改めてこの本がどういう本なのか、要約は次の通りです。

この本が如何なる本であるかという事については、クリプキ自身がその「まえがき」と「序章」において語っている。しかし、それをあえて更に要約すれば、この本は、『探究』の核心はその第一三八節から第二四二節までの部分にあり、そこで展開される「規則に従う」あるいは「規則に従っている」という事についての議論こそ、『探究』を理解する鍵である、と考えて、その部分を徹底的に理解しようと試みたものなのである。ただしその方法は、いわゆる注釈ないしは解釈といった類ではない。それは、ウィトゲンシュタインの断片的な議論に対し、四方八方から自ら議論を構築してゆくものである。したがってこの本は、いわゆる入門書ではない。それは、まぎれもなく本ものの哲学書である。しかし、本ものの哲学に接する事よりも勝れた哲学への入門はあり得ない。

出典:ソール A. クリプキ・著、黒崎宏・訳『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
(1983年 産業図書)

おわりに

なーんてややこしい内容なんだ!!

『探究』の方だってきちんと理解できているか怪しい僕なのに、他の哲学者が『探究』から読み取った独自の解釈の話なんて、理解できるわけがない!

と思いながらこの記事を書いていますが、いろいろと勉強になるところはありました。例えば「正面からの解決」と「懐疑的解決」の考え方なんかは、僕の「ミドリムシは動物か?植物か?」という謎を考える上でも役に立ちそうです。

自分の知識(本の中で主に議論されているのは「言葉」についてですが、同様の議論を「知識」に拡張することも可能とのことです)の正しさを決定するのは自分ではなく、共同体の反応である、というのは、そのまま飲み込むのは難しいですが、分かる気もします。

僕はこうして、本から新しく得る知識についてnoteの記事にまとめる活動を始めたわけですが、ただ本を読むよりも、記事を書く工程を経た方が、知識の身に付く度合いが段違いに大きいという実感があります! これって、文書をインターネット上に晒すことで、共同体の反応を意識できるから、だと思うんですよね(例え反応してもらえなかったとしても)。「知識」とか「言語」のような、たぶん知性を持った生物に特有なものを習得するには、自分ひとりの世界に籠っているより、他人の目に触れる機会を持った方がよいということですよね、きっと。

そんなわけで、引き続きたくさんの知識・考え方を習得しながら、「ミドリムシのパラドックス」について考え続けていきます。

最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。



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