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M009. 【哲学・本】言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【8回目】です。
 今回は前回に引き続き、言語哲学の全貌が見渡せそうな本、全4巻の「言語哲学大全」の第2巻を読みました。

飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 はじめに第1巻についての記事のおさらいを。僕は『名指しと必然性』という本を読解するにあたって、固有名にまつわる議論の背景を知りたくて、言語哲学大全を読み始めたのでした。第1巻の内容は、フレーゲとラッセルの言語理論が中心となっていました。第1巻から得られた主要な学びとしては、

① 言語にとって基本的な単位は、「語」ではなく「文」である(文脈原理)。そのため単一の語だけ取り出してその意味について考えてはいけなくて、一つ一つの語の意味は、文に対してどのように寄与しているか、という観点で探究された方が良いらしい。

② 固有名は単に特定の事物を指し示すラベルのようなものと思われがちだが、【宵の明星】/【明けの明星】の例文を考察すると、もう少し複雑な理論を想定した方がしっくりくる気がする。

③ フレーゲやラッセルの言語理論では、「真偽を問うことが意味論の中心となる論理的で完全な言語」が想定されており、これは日常言語にまでそのまま拡張できる理論とは言い難い。

といったところでしょうか。
 第1巻で中心となっていたのが「論理的で完全な言語理論」であったのに対して、今回扱う第2巻の内容の中心は「科学における言語理論」です(また日常言語に拡張でき無さそう…)。
 科学的な理論にとって有意味な言明とはどういうものか。逆に、どういった言明が無意味で、科学の世界から排斥されなければならないか。そういった、科学の在り方を考える科学哲学の議論に伴う、言語哲学の議論が吟味されます。
 残念ながら固有名にまつわる議論はほとんど出てこないのですが、僕としては科学哲学の方にも興味はあり、いずれ集中して調べようとも思っていますので、有意義な読書となりました。

まず一般的なレビュー

 第1巻と変わらず読みやすい文体の第2巻。内容は、最新の(といっても1989年発行の本ですが…)理論の紹介というよりは、哲学史としての性格が強くなっているように感じました。既に多くの批判にさらされてきた論理実証主義という過去の哲学が、ウィトゲンシュタインからどのような着想を得て言語観を醸成し、そして、それを解体したクワインの言語観はどのようなものであったか。さらに推し進めて、クワインの理論における難点はどういったところか。といった議論が展開されます。

 序盤には、「必然 - 偶然」「確実 - 不確実」「分析的 - 綜合的」「ア・プリオリ - ア・ポステリオリ」といった、哲学的な区別に関する話があります。これについては、『名指しと必然性』でも触れられていたところなので、解説が読めて助かりました。

 また現代の目線からすると、論理実証主義者についても、クワインについても、彼らの理論には各々の誤解が含まれているといわれますが、この本にはそういった誤解がなぜ生じたか、といったところにも都度言及があります。そのことがありがたい一方、僕には混乱の種にもなってしまいました…。

 また議論の都合上、数学の哲学に触れる箇所があったのですが、僕には馴染みがなさ過ぎて読解困難でした…。読み飛ばしてしまいましたが、全体の趣旨の理解には大して問題無かった……はず……。

経験主義とア・プリオリな真理

 今回の主役は経験主義という考え方です。ものすごく簡略化すると、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という立場です。なんだか普通の考え方のように思われるかもしれませんが、細かく見ていくと議論の余地がたくさんあります。「何事も」というけど、本当にあらゆるすべての言明に対してそう言い切れるかな?とか。「実際に確かめる」というけど、具体的にどうやって?とか。というか、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という考え方そのものの正しさについて、最初に確かめておいた方が良いんじゃないの?とか。

 経験主義にとっての課題の一つとして、「ア・プリオリな真理」というものがあります。まず、【ア・プリオリ】(a priori)と、それと対を成す【ア・ポステリオリ】(a posteriori)という語彙の確認をしましょう。この二つはある区別を表現するもので、哲学的な議論の中でよく出てくる概念です。『言語哲学大全Ⅱ』においては、次のように説明されます。

つまり、「ア・プリオリーア・ポステリオリ」という区別で問題となっているのは、われわれの認識がどのようにして獲得されたかではなく、われわれの認識の正当化が何に訴えることによってなされるかなのである。そうすると、誤解を招きやすい先の言い方は、むしろ次のように訂正されるべきであろう。すなわち、「ア・プリオリな認識とは、その正当化のために、いかなる経験をも引き合いに出す必要がない認識であり、それに対して、ア・ポステリオリな認識とは、その正当化のためには、何らかの経験を引き合いに出す必要がある認識である」、と。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

つまり「ア・プリオリな真理」とは、いかなる経験に依らなくてもそれが真であると認識できるような言明のことです。平たく言ってしまえば「確かめるまでもなく正しいと分かること」です。これは明らかに経験主義に反する真理ですから、経験主義を貫徹するなら、「ア・プリオリな真理など存在しない」という説明を考え出す必要があります。

 しかし数学や論理学における言明は、どうやら「ア・プリオリな真理」であるようだ、と考えられてきました。例えば、「ある整数aは、10以上か10未満のどちらかである」とか。このことは、確かめるまでもなく正しい気がします。もっと単純な言明「ある整数aは整数である」なんてどうでしょう。他によく出て来る例文としては、「独身者は結婚していない」なんていうのもあります。こういった類の言明は、確かめるまでもなく真であると分かりそうだし(≒ア・プリオリな真理)偽である状況を想定することも難しいし(≒必然的な真理)特段目新しい情報が得られることのない当たり前(≒分析的な真理)な言明です。「自明」って表現も似合いそうですね。

 こういったア・プリオリに真であると思えるような言明を、経験主義のひとつ、論理実証主義という立場がどのように扱ったのか、というところを見ていきます。

論理実証主義の言語観 - 規約主義とその困難

 今世紀の哲学を振り返るとき、どうしても無視できないものとして現れてくるのは、論理実証主義というひとつの哲学的運動の与えた影響である。残念ながら、論理実証主義の評判はあまりかんばしいものではない。哲学的問題に対するセンスを欠いた科学主義者の集団といったところが、世間に流布しているイメージである。たしかに、こうした評価がまったく当たっていないわけではない。しかし、論理実証主義は、きわめて大胆なテーゼを単純明快な仕方で提出したことによって、逆に、哲学的問題の複雑さを改めて明確にしたとも言える。論理実証主義の主要なテーゼのひとつひとつが次々に覆されて行く過程がなかったならば、現在あるような哲学はありえなかったはずである。
 言語哲学の場面での論理実証主義の貢献は、大きくふたつある。ひとつは、数学や論理に属する命題がわれわれの取り決め(規約)によって真であるという規約主義であり、もうひとつは、命題の意味がその検証条件によって与えられるという検証主義である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 論理実証主義は、科学哲学において重要な役割を果たした思想・運動で、形而上学に対して厳しい態度を取ったことでも知られます。「形而上学」という哲学のジャンルがどんなジャンルか、というのは説明が難しいのですが、経験主義との対比を際立てて説明するなら、「事実に基づいて確かめようの無いことについて考える学問」といったところでしょうか。
 論理実証主義者と一言で括っても、その集団の中には様々な考え方の人が居たわけですが、およそ共通する言語哲学上の性格として、規約主義という考え方と、検証主義という考え方を含んでいたようです。

 数学や論理学の言明のような、ア・プリオリで必然的で分析的に見える言明をどう扱うか、という前節の話題に対応するのは、規約主義の方です。

序章でも述べたように、経験主義にとってのもっとも切実な問題は、論理学および数学に属する命題のもつ必然性をどう説明するか、であった。近代の物理科学とともに出現した経験論の哲学は、十九世紀後半における自然哲学の発達、それにもまして、それを基にした科学的技術の、日毎に増す重要性を背景として、「実証主義」という名のもと、科学主義的イデオロギーとなった。そうした実証主義者にとって、数学がもつと思われる必然性は、ひどい当惑の種であった。古くさい形而上学の擁護者が、形而上学的命題に関して、どれほどその「必然性」を言い立てようとも、それは、そもそも自然科学の中に位置を占めるものでないと考えられる限り、実証主義者にとっては、ひたすら「全面的除去」の対象でしかない。それに対して、数学は、自然科学にとって是非ともなくてはならないものであり、論理もまた、科学理論の構成にとって不可欠である以上、あっさりと「除去」してしまうわけには行かない。それにもかかわらず、次のように考えることは、避けられないように思われる。

「こう結論せざるをえないように思われる。すなわち、論理学と数学の命題が、絶対的な普遍妥当性をもち、不可避的な確実性をもつこと、また、そうした命題が主張することに関しては、そうあることが必然であって、そうでないことが不可能であること、こうした理由から、これらの命題が経験に由来することはありえない、と。」

論理学と数学の命題にもつ必然性は、経験主義が誤りであることを一点の曇りもなく立証するように思われる。経験主義のこうした苦境に救いの手をさしのべて、「整合的経験論」を実現可能にすると論理実証主義者達に思われたのは、ホワイトヘッド=ラッセルの『数学原理』における、数学は論理に還元できるという主張であり、それにもまして、『論考』における「論理的真理=トートロジー」説であった。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 論理実証主義は、前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から多大な影響を受けていたそうで、その影響の一つが、ア・プリオリで必然的で分析的な、数学的・論理的真理をトートロジーと見なすことです。【トートロジー】とは、和訳では「同語反復」とも言われる形の言明のことで、要は「同じことを繰り返し言ってるだけ」の言明のことです。同じことを繰り返しているだけなので、トートロジーは必ず真になる言明です。例えば「ミドリムシはミドリムシだ。」という言明は、必ず真になります。もしかしたら発言者は生物学に疎くて、ミドリムシと青虫の区別がついていなかったり、とある地方ではアブラムシのことをミドリムシと呼ぶ習慣があったりするかもしれませんが、発話状況や事実がどうであれ、この言明は常に必ず真であろうと思われます。

 論理的言明は、前提として決まっている推論規則(三段論法だとか、排中律だとか…)に従って「”AならばB” かつ "A" ⇒”B”」(例:60秒経過しているならば1分経過している。かつ、いま60秒経過した。ということは、いま1分経過した。)といった具合に、言明間の関係を整理して表す言明です。前提となっている規則や定義に従って言明が整理されるだけのことですから、偽になりようがありません。常に真で、トートロジカルです。数学的な言明も、算術の規則や定義に従った式変形の後、「A = B」といった具合に、一見異なる表記の数式どうしをイコールで結び、二つの数式が同値であることを示したりしますから、やはり同語反復的という気がします。

「数学の命題は論理の命題とまったく同じ種類のものである。そうした命題はトートロガス(同語反復的)であり、われわれの話題の対象について何かを言うものでは決してなく、ただ、われわれの語り方にかかわるのみである。2+3=5という命題の普遍的妥当性を不可疑的に主張できる理由、また、いかなる観察を待たずとも、2+3=7となることは決してない、と全き確実性をもって主張できる理由は、「2+3」ということでわれわれは「5」と同じことを意味しているからである。
 ……われわれが「2+3」によって「5」と同じことを意味していることは、「2」、「3」、「5」、「+」の意味にさかのぼって、「2+3」が「5」と同じ意味であることがわかるまで、トートロジカルな変形を行うことによって、明らかとなる。「計算」ということで意味されているのは、こうしたトートロジカルな変形の繰り返しである。
 ……どのような数学的証明も、一連のこうしたトートロジカルな変形に他ならない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

以上を踏まえ論理実証主義では、数学的・論理学的言明が常に真であると思われるのは、規約による真理だからだ、という解釈に至ったようです。

エイヤーの『言語・真理・論理』からの次のような一節には、こうした思考の筋道が明瞭に現れている。
 「[分析的命題]は、語をある仕方で用いるというわれわれの決定を記録するものに過ぎない。そうした命題を否定することは、そう否定すること自体が前提する規約に違反せざるをえず、よって、自己矛盾に陥らざるをえない。そして、これこそが、分析的命題のもつ必然性の唯一の根拠なのである。……現に用いられているものとは異なる言語的規約をわれわれが用いていたかもしれないということは、確かに、考えられる。しかし、こうした規約がどのようなものであろうとも、そうした規約を記録しているトートロジーは、常に必然的である。なぜならば、そうしたトートロジーを否定することは、どの場合でも、自家撞着を招くからである。
 こうして、論理学と数学がもつ不可疑的な確実性に、何ら神秘的なものがないことが分かる。どんな観察も命題『7+5=12』を反証しえないというわれわれの知識は、単に、記号的表現『7+5』が『12』と同義であるという事実に基づくものに過ぎず、それは、眼科医(oculist)は皆、目医者(eye-doctor)でもある、というわれわれの知識が、記号『目医者』が『眼科医』と同義であるという事実に基づくのと、まったく同じである。そして、同じ説明が、ア・プリオリである真理のいずれについても当てはまるのである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 ア・プリオリで必然的で分析的に真な言明たちは、我々自身があらかじめ取り決めた言語使用に関する規約に従っているために常に真であるトートロジカルな言明であって、後から経験に依って確かめる必要が無いのも当然のこと。これらは言語的要因についての言明であって、経験主義の考え方が重要になる科学の領域の言明(事実的要因についての言明)とは、はっきり分けて考えられる。そのため経験主義にとって問題となるものでは無い。これが、論理実証主義の取る「ア・プリオリな真理」に対する立場ということのようです。
 似たような考え方の人は、論理実証主義以前にも居て、例えば経験主義を徹底した哲学者ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、「単に言葉のうえの命題(merely verbal proposition)」と「本当の命題(real proposition)」という区別を提唱していました。

 「ア・プリオリな真理」「規約による真理」という考え方は、生物の分類理論・分類学史を整理するにあたっても、おそらく重要な発想です。分類学史の調査は哲学を一通り修めたら(=一旦僕が満足するところまでやったら)取り掛かろうと思っていますが、動物・植物といった生物の分け方が、我々自身が取り決めた規約によるものなのか、それとも我々の認知とは関係なく自然界に存在していたものをア・ポステリオリに発見したものなのか、という整理が必要になるであろうという予感がしています。

 さて、論理実証主義が取った数学・論理の「規約による真理」という考え方は、残念ながらそのまま維持することが困難な考え方だそうです。

論理的真理の全体が規約によって真であることを具体的に示そうとする試みは、論理的真理の全体を少数の公理ならびに推論規則から出発して体系的に提示するという、フレーゲ以来の現代論理学の手続きに習おうとする。どのような公理や推論規則を出発点として取るかは、ひとつに決まることではなく、さまざまでありうるが、結果として得られる論理的真理の範囲に関して一致している限り、最初の選択はたいして重要ではない。
(中略)
しかしながら、ここで、論理の体系化の出発点である公理や推論規則がどのような性格のものであるかについて、思い違いをしてはならない。公理や推論規則が正しいのは、われわれの取り決めによるものである。どのような文が決して偽となることなく常に真であるのか、また、どのような推論が論理的に正しいものであるのかは、われわれが約定することであって、われわれのあいだでの取り決めとは別のところに理由を求めてはならない。つまり、公理や推論規則は規約によって正しいのであり、他の論理的真理もまた、そうした規約からの帰結として、間接的に規約によって正しいのである。
 こうして論理的真理の全体が規約によって正しいと主張することは、現代の論理学の成果を取り込み、しかも、論理的真理の必然性を何か神秘的なものとする必要がないのであるから、きわめて「科学的な」考えであるように思われる。しかしながら、この説は、規約から帰結を引き出すことがどのようにして正当化されるか、という問いに直面するならば、もろくも瓦解するのである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

ここに【論理】というものの扱い難さが如実に表れていますね。結局我々は論理的な思考で以て言明の正当性を表現するので、

「あらかじめ取り決めた規約に従うことで、論理的な言明は必ず真になる」

という規約主義の説明自体も、やはり論理的な言明なのです。この言明が正当なものであることを、規約主義を維持しながら表現すると、

「あらかじめ取り決めた規約②に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約に従うことで論理的な言明は必ず真になる」という論理的な言明は真になる」

という説明になります。しかしこれもやはり論理的な言明なので、この言明の正当性を規約主義を維持しながら表現すると、

「あらかじめ取り決めた規約③に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約②に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約に従うことで論理的な言明は必ず真になる」という論理的な言明は真になる」という論理的な言明は真になる」

となり、規約主義を維持する限り、その正当性を示すには無限に説明が必要となってしまいます

 論理について突き詰めて考えると、無限背進を引き起こすということは、ウィトゲンシュタインの哲学について扱ったときにも見たことなので、そのときに引用した「亀がアキレスに語ったこと」も再度引用します。

亀ははじめ、AであることAならばBであることは認めているのに、Bであることを認めようとしない。そこで、アキレスは亀に、まずこの「論理法則」を納得させようとして「Aと、AならばBから、Bを導くことができる」という前件肯定式を受け入れるように求める。亀が難なくそれを受け入れたので、アキレスは得々として「今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と言う。すると亀は、その論理法則(かりにPと名づけよう)を前提に加えないことには推論は完成しないと主張する。つまり、AAならばBだけではなく、それにP(Aでありかつ「AならばB」であるならばBである)を加えたとき、はじめてそこからBを導くことができる、というわけである。アキレスはしぶしぶそれを認め、「さて今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と宣言する。すると亀は、今自分が認めた「AとAならばBとPからBを導くことができる」という規則をQと置き、それを前提に組み込むことを主張する。つまり、AAならばBPだけではなく、それにQを加えたとき、はじめてそこからBが導けるようになるはずだ(なぜなら、もしQを受け入れなかったならば、たとえ他のすべての前提を受け入れても、そこからBが帰結することはないであろうから)というわけである。しぶしぶそれを認めるアキレスの語調は、悲しげな響きを持ち始める。

出典:永井均・著『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年 筑摩書房)

 以上により、論理実証主義の言語観の内、規約主義は維持が困難であることが確認されました。経験主義を貫徹するためには、別の方法で「ア・プリオリな真理」に対処する必要がありそうなのです。

論理実証主義の言語観 - 還元主義を伴う検証主義

 前節では経験主義の整合性を図るために持ち出された理論としての規約主義と、その維持困難さを見てきました。次は、言語の意味についての経験主義らしい考え方である検証主義と、それに密接に関わる還元主義ついて見ていきます。

 検証主義というのは、「意味の検証理論」と呼ばれる意味論を採用する考え方です。これは、言明の意味とはその検証方法である、と考えるものです。
 他方、前回の記事で扱っていたフレーゲ的言語論では、言明の意味(フレーゲの用語では意義(Sinn))とは真理条件である、とされていました。
 おそらくどちらの考え方においても、言明がどのように事実的要因と関わるかということ、そして、言明は事実と照合されることで真偽が決定される、ということが重要視されています。
 真理条件を重く見る意味論においては、言明の意味を理解できるということは、「どういう事実があるときに真偽が決定するか」を把握できることだ、と考えられます。
 検証方法を重く見る意味論においては、言明の意味を理解できるということは、「どういう経験があるときに真偽が決定するか」を把握できることだ、と考えられます。実に経験主義的です。

 正直言って、真理条件と検証方法の区別について僕はちょっとあやふやなのですが、試しに具体的な文を想定して考えてみます。
 例えば、「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」。この言明の真理条件は、多分文面そのままでよくて、「実際に植物について、強い光が当たっているほど生長が速くなるという事実があること」でしょう。フレーゲ的言語論なら、これを把握しているということを以て、言明の意味を理解できていると言えそうです。検証方法はというと、「異なる強度の光を当てることができる実験設備が用意され、そこで植物Aを育て、生長の速度を記録し、光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられること」といった感じでしょうか。検証主義では、ここまで把握できてやっと言明を有意味なものとして理解できていると言えそうです。
 では、「植物も神様を信仰している」とかどうでしょう。この言明の真理条件も、多分文面そのままでよくて、「実際に植物が、神様を信仰しているという事実があること」ですかね(ちょっと怪しくなってきましたね)。検証方法はというと…、把握するのがかなり難しい気がします。どんな方法で確かめたら良いのか…? こういうとき、検証主義においてはこの言明を無意味な言明として扱うしかなさそうです。
 どうやら真理条件を重く見る意味論の方が、有意味とされる言明の範囲が広いように思えます。もし真理条件すら理解できない言明というものがあるとすれば、全く文法に則っていない言明とか、概念を正しく用いることができていない言明とかでしょうか。もしかすると、最初の記事で触れた、「ミドリムシは動物?植物?」という疑問に対して、「動物でも植物でも無い」と答えることに、なんだか納得がいかないのって、真理条件の把握が難しくなるやりとりだからなのかも…?

 少し脱線してしまいました。ところで既に先の例文にも示されているのですが、ここでの検証主義には、還元主義という考え方も関わっています。先の例文「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」は、その検証方法を理解するにあたり、
・異なる強度の光を当てることができる実験設備が稼働している
・そこで植物Aが育っている
・生長の速度が測定され、記録されている
・光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられる
というように、複数の言明に分解されました。このように、要素に分解(=還元)して捉える考え方が、還元主義と呼ばれます。上記の還元は、本当はまだまだ解像度が低くて、「実験植物ごとに異なる光が当たっていることが、照度計の数値を見て確かめられる」とか、「生長の記録は間違うことなくエクセルに打ち込まれている」とか、無数の要素言明に分解可能です。論理実証主義者のモーリッツ・シュリック(1882-1936)による検証主義の説明と、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908-2000)による還元主義の説明を引用します。

「したがって、命題の意味を見いだすためには、[言語的]定義を繰り返すことによって、最終的には、それ以上定義されることなく、ただ直接的にその意味が指示されるような語だけを含むように、もとの命題を書き換えなくてはならない。そのとき、命題の真偽の基準は、次のものとなる。すなわち、(諸定義に述べられている)特定の条件のもとで、あるデータが見いだされるか否か、がそれである。いったんこのことが確定されたならば、私は、その命題が語っているすべてを確定したことになり、したがって、その命題の意味を知ることになる。もしもある命題に関して、それを検証することが私に原理的にできないならば、すなわち、その真偽を確かめるために何をしたらよいのか、私にまったく見当がつかないならば、明らかに、私は、その命題が何を実際に言っているのか何の観念ももたない。なぜならば、そのときには、私は、定義を辿ることによって文面から可能なデータへ進むという仕方で、その命題を解釈することができないであろう。というのも、私がこのように進むことができる限りで、まさにその事実によって、私は、[命題の]原理的検証への道を示すことができるからである(実際上の理由から、その道を現実に辿ることが私にはできないということが、しばしばであろうとも)。命題がどのような状況のもとで真であるかを述べることは、その意味を述べることと同一であり、それ以外のことではない。」

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

一般に、言明の検証方法は、それを構成している基礎的言明に遡ることによって与えられる。論理実証主義の初期においては、有意味な言明は、すべて、直接的検証、すなわち、感覚的経験との突合せが可能である言明に分析できると考えられていた。それゆえ、これらの基礎的言明は、直接的検証が可能である以上、感覚的経験についての言明であるとされた。これが、クワインの言う「根元的還元主義 radical reductionism」である。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 最終的に直接的検証が可能である言明が基礎になるという点は、前回の記事で紹介したラッセルの固有名論と似ています。ラッセルは語の意味と実在とを結び付けることについて考え抜いた結果、”論理的な意味での名前”は、「これ this」とか「あれ that」といった直接指示語である、という考えに至っていました。
 ところで還元主義のもとでは、些細な言明であっても、細かく還元し出せば無数に要素言明が生まれてしまうはずで、その把握を意味理解の条件に据える理論は、かなり非現実的なモデルという気もします。ちょっとした言明の有意味性を確かめるのにもかなり苦労する、というか、人智を超えてしまうのではないでしょうか…?(上記引用では「実際上の理由から、その道を現実に辿ることが私にはできないということが、しばしばであろうとも」と言うだけで片付けられてしまっていますが…)

 とにかく以上のような考え方が、論理実証主義の言語観のひとつ、還元主義を伴う検証主義でした。しかしこの還元主義についてもやはり、規約主義同様に否定的な議論があります。特にクワインによって提案された別の言語観は、哲学史上かなり大きな影響力を持って、論理実証主義的な言語観を解体していったようです。その中には、初めに触れた、経験主義における「ア・プリオリな真理」への対処に関わる議論も含まれます。この言語観について説明された有名な論文の名は、『経験主義のふたつのドグマ』です。

デュエム=クワイン・テーゼ - 全体論的言語観

 【ドグマ】とは、和訳としては「教義」などが充てられる語彙で、おそらく色々な用いられ方があるのですが、ここでは「無条件に信じられているもの」くらいの意味だと考えて良いと思います。経験主義は、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という立場ですから、確かめもせずに信じられている【ドグマ】なるものに対しては否定的な立場を取らざるを得ないはずです。しかし、論理実証主義は経験主義でありながら、実は無条件に信じ込んでしまっているドグマを抱えているのだ、という批判を展開したのがクワインの論文『経験主義のふたつのドグマ』だったようです。

 クワインが新しく提案した言語観は、経験主義的でありながらも論理実証主義のものとは全く異なり、部分的な差異や修正といった程度のことでは説明しきれない気がします。まずここまで見て来た論理実証主義的な言語観と、新しく提案された言語観を図示してみると、およそ次のような感じだと思います(概念の安易な図示化やアナロジー化は見落としや誤解の元凶にもなりますが、だからこそ自分の理解を"見える化"しておくことによる学びも多いはずです)。

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 ある言明の真偽が現実との照合を経て認識されるにあたり、還元主義を伴う検証主義においては、言明は無数の要素言明に分解されます。要素言明の一つ一つに、対応する経験というものがあり、これら要素言明の真偽が決定されることで、元の言明の真偽も構成されていくのです。
 しかしクワインの言語観では、言明一つと経験一つをそれぞれ結び付けるようなモデルにはなっておらず、無数の言明とそれらをつなぎ合わせる論理的言明が全体としてひとまとまり("信念の体系")になっていて、このまとまり全体で現実との照合が起こると考えられます。
 一つの言明と一つの経験をぴったりと対応させて真偽を決定することが、現実的には不可能であるという着想は、まずデュエムによる物理学実験についての考察から出てきたものでした。

言明の検証の実際が示すことは、圧倒的に多くの経験的言明の検証が、直接的な観察だけでなく、検証されるべき言明と演繹的ならびに帰納的な関係に立つ多数の言明をも巻き込むという事実である。つまり、ダメットも言うように、「一般に、検証は、観察と推論両者の混同なのである。」言明の検証が、検証されるべき当の言明以外の言明をも巻き込まざるをえないということは、他のいっさいの言明から切り離して単独の言明の検証について語ることが、そもそも、意味をなさないという結論に導く。このことをもっとも明瞭に示す議論が、物理学における「決定的実験」なるものの存在を否定したデュエムの議論である(ピエール・デュエム『物理理論:その目標と構造 La Théorie Physique: Son Objet, Sa Structure』(初版、1906))。
 いま物理学のある仮説Hをテストすることを考えよう。ごく単純に考えるならば、仮説Hのテストは、その仮説を採用したとき、特定の実験的状況で、どのような観察結果が予想されるかを計算し、そうした実験的状況を作り出し、そこでの観察結果が予想と合致するかどうかを見ればよいということになる。そして、こうしたテストの結果が肯定的ならば、仮説Hは一定の確証を得たことになり、結果が否定的ならば、仮説Hは反証されたことになる。だが、仮説のテストをこのように考えることは、決定的な点で誤りであることを、デュエムは指摘する。それは、問題となっている仮説Hと特定の実験的状況だけでは、そのとき予想される結果を算出するには不十分であり、必ず、何らかの補助仮説A1、…、Anが必要であるという事実を見落としている。
(中略)
「要約すればこうなる。物理学者には、単独の仮説を実験的テストにかけることは、決してできず、ただ、一連の仮説をテストにかけることができるだけである。実験結果がかれの予測と一致しなかったとき、かれが知るのは、こうした一連の仮説のうちの少なくともひとつが受け入れがたいものであって、訂正されるべきだ、ということである。だが、実験は、これらの仮説のうちのどれを訂正すべきであるかを告げはしないのである。」

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 デュエムの結論は、物理理論のみにかかわるものであるが、クワインは、これを最大限にまで拡張する。「外界についてのわれわれの言明は、個別的にではなく、ひとつの団体としてのみ、感覚的経験の裁きに直面する。」そして、これが、一般に「デュエム=クワイン・テーゼ」と呼ばれるものである。
(中略)
デュエムの議論は、言明の確証や反証には観察だけでなく推論も参与することを明らかにしている。個別の言明ごとにそれを確証・反証する経験的領域を指定することが不可能なのは、言明が他の言明と複雑な推論的関係に立っているからである。「経験の裁き」に直面して、どの言明を保持し、どの言明を捨て去るべきかは、こうした推論的関係を手がかりとしてなされる。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

例えば、還元主義について考える際に使用した例文「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」は、次のような言明を始めとする、無数の要素言明に分解されそうだという話をしました。
・異なる強度の光を当てることができる実験設備が稼働している
・そこで植物Aが育っている
・生長の速度が測定され、記録されている
・光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられる
・実験植物ごとに異なる光が当たっていることが、照度計の数値を見て確かめられる
・生長の記録は間違うことなくエクセルに打ち込まれている

これら要素言明は現実と照合されることで真偽が確かめられる言明(経験的言明、事実的要因についての言明)たちですが、実はこのほかにも様々な推論(論理的言明、言語的要因についての言明)も複雑に関わっているはずなのです。いくつか思いつくものを挙げるとすれば、
・生長とは植物体の重量が増えることである
・生長の速度とは、単位時間あたりの生長の程度である
・照度計の数値が高いならば、光の強度は強い
・植物Aは植物である
などなど…
更に解像度を上げていくなら、植物の生長を重量で測定することにしているため、「重量」についての物理学的な理論も関わってくるでしょう。「光」についての理論も含めないといけないかも。

たとえば、「太郎と花子は夫婦である」といった言明を正当化するような一定の経験領域を指定することができるだろうか。ふたりのあいだの「夫婦らしい」しぐさを目撃すること? だが、「夫婦らしい」しぐさをまったく見せない夫婦は、いくらでも存在する。戸籍簿のうえで両人の名前を確認すること? だが、それは、単なる「視覚的経験」であるはずがない。戸籍というものが社会のなかでどのような機能を果たしているのか、結婚制度とはどのようなものか、等々といったことを述べている多数の言明に依存してはじめて、「太郎と花子は夫婦である」という言明の正当化は可能となるのである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 つまり言明の真偽は、経験的言明の真偽のみからは構成されず、複雑に絡み合う論理的言明の真偽も相まって検証されるのです。このとき、論理的言明についても偽となる可能性が想定されることが、とても重要です。これにより例えば、ある複雑な言明の真偽を確かめる場面において、その言明を還元した経験的要素言明のうち、何かが偽であることが確かめられたとしても、関連する論理的言明の真偽についての認識を変化させることで、元の複雑な言明を真と見なし続けたりすることができます。
 ところで論理的言明は、ア・プリオリに真な言明とされ、経験主義にとって対処を要する難題だったはずでした。論理実証主義は、論理的言明について、確かめるまでもなく真な言明と認めつつ、規約主義という考えを採用し、言語的要因と事実的要因の区別を提唱することで整合を取ろうとしていました。しかしクワインの言語論においては、論理的言明すらもア・プリオリに真な言明と認められず、現実との照合を経て真偽が改訂されても良いと考えられます。ここではもはや、言語的要因と事実的要因の区別は重要でなくなります。

それは、次の有名な一節に見られるように、科学の歴史に照らして、ア・プリオリな真理の存在を端的に否定するものである。

「体系のどこか別のところで思い切った調整さえ行うならば、何が起ころうとも、どのような言明に関しても、それが真であると見なし続けることができる。周縁部にきわめて近い言明でさえ、それにしつこく反するような経験に直面したとしても、幻覚を申し立てるとか、論理法則と呼ばれる種類の言明を改めることによって、相変わらず真であると見なし続けることができる。逆に、まったく同じ理由から、どのような言明も改訂に対して免疫をもっているわけではない。排中律のような論理法則の改訂さえ、量子力学を単純化する一手段として提案されている。そして、こうした転換と、ケプラーがプトレマイオスに取って代わった転換、あるいは、アインシュタインがニュートンに、ダーウィンがアリストテレスに、といった転換とのあいだに、原理的などういう違いがあると言うのだろう。」

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

  クワインが強調していることは、理論の改訂が必要となるとき、理論のどの部分に対して改訂が施されるかは、ほとんど予測を許さないということである。改訂が原理的に不可能であるような理論の部分というものは存在しない。理論のどの部分も、われわれの経験の成行きによっては、改訂可能であるとするならば、たしかに、「いかなる経験に直面しようとも真と評価されるべき言明」なるものは存在しない。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 「経験主義のふたつのドグマ」の名声にもっとも大きく寄与していると思われる一節は、その最終節「ドグマなき経験主義」の最初のパラグラフであろう。このパラグラフは、その全体を引用するだけの値打がある。

 「地理や歴史といったごく表面的な事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周辺に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。言い方を変えれば、科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。周辺部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす。いくつかの言明に関して、真理値が再配分されなければならない。ある言明の再評価は、言明間の論理的相互連関のゆえに、他の言明の再評価を伴う――論理法則は、それ自身、体系のなかの更なる言明、場の更なる要素に過ぎない。ひとつの言明が再評価されたならば、他の言明をも再評価しなければならない。そうした言明は、はじめの言明と論理的に連関している言明であるかもしれないし、論理的連関そのものについての言明かもしれない。だが、場全体は、その境界条件、すなわち経験によっては、きわめて不十分にしか決定されないので、対立するような経験がひとつでも生じたときに、どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある。どんな特定の経験も、場の内部の特定の言明と結び付けられているということはない。特定の経験は、場全体の均衡についての考慮という間接的な仕方でのみ、特定の言明と結び付くのである。」

ここには、経験主義が二十世紀中葉において到達した重要な一段階が、強力なメタファーによって表現されている。この一節で表面上問題になっているのは、「われわれのいわゆる知識あるいは信念」の正当化がどのようになされるかである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 以上のようなクワインの全体論的言語観に、論理実証主義では見落とされていた重要な視点が含まれていることは確かなようです。しかしア・プリオリな真理について完全に否定することは、やはり難しいのではないかという疑義も残されます。結局どんな理論が提唱されたとしても、規約主義の否定と同様の議論「論理について突き詰めて考えると、無限背進を引き起こす」という事態は、それが論理的に整合のとれた論証であればあるほど、起こりえてしまうと思われます。

すなわち、論理と言語との関係はあまりにも密接であるので、言語的規約が論理に先立つことは、そもそも、不可能なのである。パトナムも言うように、「規約が論理に先立つとするには、論理の住まう場所は、(規約の住まう場所と比較するならば)あまりにも深い」のである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

【宵の明星】/【明けの明星】 再考

 以上の『言語哲学大全Ⅱ』の読解を経て、前回扱った【宵の明星】/【明けの明星】の例文の考察について、新しい見方を付け加えることができる気がしてきたので、再度考えてみようと思います。考え直したいのは、次の記述について。

 ここで、同一性言明には二つの読み方があることに触れておきます。それは、記号についての同一性と、対象についての同一性です。前者の読みでは、ある一つの対象について、二つ以上の名前で呼んでもよいことを説明する手続き的な内容を文から読み取ります。後者では、同一であると思われていなかった対象どうしが、実は同一であったという"発見"の内容を文から読み取ります。いま問題としているのは、後者です。

出典:みどりむしエレナのnote記事『M008. 【哲学・本】言語哲学大全Ⅰ 論理と言語

ここで言っていた「二つ以上の名前で呼んでもよいことを説明する手続き的な内容」は、論理的言明の改訂に関することなのかもしれないです。そして、「同一であると思われていなかった対象どうしが、実は同一であったという"発見"の内容」は、経験的言明の改訂に関することなのかも。

 【宵の明星】/【明けの明星】の例文で扱われるべき"経験の裁き"と信念体系の改訂は、おそらく次のような状況ではないでしょうか。

信念体系A(経験の裁きを受ける前の信念体系の一部)>
経験的言明1 夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体と、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体は、別々の天体である。
論理的言明1 
【宵の明星】は、夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体に付いた名前であり、【明けの明星】は、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体に付いた名前である。

信念体系B(経験の裁きを受けた後の信念体系の一部)>
経験的言明2 夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体と、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体は、同じ天体である。
論理的言明2 【宵の明星】【明けの明星】はどちらも、夕方には太陽・月に次いで明るく見え、明け方にも太陽・月に次いで明るく見える一つの天体に付いた名前である。

信念体系がAからBに改訂されたことで得られる「【明けの明星】と【宵の明星】は同じ天体である」という同一性言明に、二つの読み方があるように感じるのは、経験的言明と論理的言明の改訂を区別して把握できるからなのかもしれません。そして確かに、定義的な性格を持っている様に見える「名付け」の言明すらも、事実に照らして改訂の可能性に晒されているということですね。

おわりに

 今回も危うい理解度ながら、とりあえず学べたことを出力できました…。

 『言語哲学大全Ⅱ』では、【ア・プリオリ】【必然的】【分析的】の概念をハッキリと区別し、相互の関係について留意することが、とても重要なポイントになっていました。特に論理実証主義者やクワインには、これらの概念を誤解・混同している節が見られるとのことで、それぞれの理論を理解する上でこれら概念への詳しい言及が重要でした。しかし当記事ではそのことはほとんど省いてしまって、数学的・論理的言明については「ア・プリオリで必然で分析的な言明」などという連言による表現をして済ませることで、内容を簡略化してしまいました。たぶん、これら概念の区別は、次巻以降の議論の方でもっと重要になると予想されますので、またそのときにしっかりまとめたい所存です。

 今回は科学哲学の議論も入っていたため、科学的な理論の正当化や改訂が如何になされるのか、という論点についても学びがありました。これは今後、生物学史・分類学史を整理する際に必ず役立つはずで、今回引用した箇所にも、アリストテレスとダーウィンの名前が入っていたりしましたね。

 また、本文で扱わなかったのですが、『言語哲学大全Ⅱ』の中に、概念を理解しているということと明示的定義との関係についての言及があったので、最後に引用しておこうと思います。これは、これまで読んできた哲学の本からも既に得られた学びですが、僕の探究にとって重要な考え方です。

 プラトンの対話篇のいくつかにおいて、ソクラテスは、「Xとは何か」という形の問いを出す。たとえば、「知識とは何か」といった問いである。ソクラテスの対話の相手の最初の反応は、いつでも、概念Xの事例を挙げることである。たとえば、「知識とは、幾何学や天文学といった学問であるとか、大工や職人がもっている技術のことである」といった具合いに。そして、常に、かれは、求められているのがこうした答えでないことを、ソクラテスから指摘される。「だが、問われていたのは、知識の対象が何であるか、とか、知識にはどれだけの種類があるか、といったことではなかったはずだ。そうしたことを列挙したいのではなく、そのこと自体、つまり、知識とは何かを見つけたいのだ」と。ソクラテスが求めている答は、「Xとは、これこれであり、これこれだけが、Xである」といった、概念Xの明示的定義であるように思われる。だが、プラトンの対話篇におけるソクラテスの意図がどうあれ、概念の説明ということだけについて言えば、事例を挙げるというやり方は、それほど見当違いのものだろうか。われわれは、自身が通常用いている概念の多くについて、明示的定義を与える用意があるだろうか。明示的定義を与えることができないからといって、われわれはそうした概念を理解していないということになるだろうか。ましてや、明示的定義を与えられない概念は、そのことだけで、使用を差し控えるべきだということになるだろうか。
 まず、個人がある概念を理解しているということについて言えば、さし当ってそのことを証拠立てると考えられる要因として、少なくとも、次の三つが挙げられよう。第一に、その概念が適用できる事例をいくつか挙げることができること。第二に、その概念を、他の概念との関連で正しく用いることができること。第三に、これまで出会わなかったようなケースに関しても、その概念の適用に関して、(1)問題なく適用される、(2)問題なく適用されない、(3)適用できるかどうかが問題となる、という三通りのどれに当てはまるかを判断できること。もちろん、こうした個人の理解は、ひとつの社会のなかでその概念が理解されていることを前提する。ある概念がひとつの社会のなかで理解されていると判断する材料となるものも、同様に、三つ挙げることができる。第一に、その概念の典型的適用事例として挙げられるものについての、ある程度の一致。第二に、その概念を他の概念との関連で用いる仕方についての、ある程度の一致。第三に、社会全体がこれまでに出会ったことのないケースについても、概念の適用が、ある程度一致すること。つまり、個人の場合も、社会全体の場合も、ある概念が理解されていると判断するためには、その概念の明示的定義は必要とならないのである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

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