M009. 【哲学・本】言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)
「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【8回目】です。
今回は前回に引き続き、言語哲学の全貌が見渡せそうな本、全4巻の「言語哲学大全」の第2巻を読みました。
飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)
はじめに第1巻についての記事のおさらいを。僕は『名指しと必然性』という本を読解するにあたって、固有名にまつわる議論の背景を知りたくて、言語哲学大全を読み始めたのでした。第1巻の内容は、フレーゲとラッセルの言語理論が中心となっていました。第1巻から得られた主要な学びとしては、
① 言語にとって基本的な単位は、「語」ではなく「文」である(文脈原理)。そのため単一の語だけ取り出してその意味について考えてはいけなくて、一つ一つの語の意味は、文に対してどのように寄与しているか、という観点で探究された方が良いらしい。
② 固有名は単に特定の事物を指し示すラベルのようなものと思われがちだが、【宵の明星】/【明けの明星】の例文を考察すると、もう少し複雑な理論を想定した方がしっくりくる気がする。
③ フレーゲやラッセルの言語理論では、「真偽を問うことが意味論の中心となる論理的で完全な言語」が想定されており、これは日常言語にまでそのまま拡張できる理論とは言い難い。
といったところでしょうか。
第1巻で中心となっていたのが「論理的で完全な言語理論」であったのに対して、今回扱う第2巻の内容の中心は「科学における言語理論」です(また日常言語に拡張でき無さそう…)。
科学的な理論にとって有意味な言明とはどういうものか。逆に、どういった言明が無意味で、科学の世界から排斥されなければならないか。そういった、科学の在り方を考える科学哲学の議論に伴う、言語哲学の議論が吟味されます。
残念ながら固有名にまつわる議論はほとんど出てこないのですが、僕としては科学哲学の方にも興味はあり、いずれ集中して調べようとも思っていますので、有意義な読書となりました。
まず一般的なレビュー
第1巻と変わらず読みやすい文体の第2巻。内容は、最新の(といっても1989年発行の本ですが…)理論の紹介というよりは、哲学史としての性格が強くなっているように感じました。既に多くの批判にさらされてきた論理実証主義という過去の哲学が、ウィトゲンシュタインからどのような着想を得て言語観を醸成し、そして、それを解体したクワインの言語観はどのようなものであったか。さらに推し進めて、クワインの理論における難点はどういったところか。といった議論が展開されます。
序盤には、「必然 - 偶然」「確実 - 不確実」「分析的 - 綜合的」「ア・プリオリ - ア・ポステリオリ」といった、哲学的な区別に関する話があります。これについては、『名指しと必然性』でも触れられていたところなので、解説が読めて助かりました。
また現代の目線からすると、論理実証主義者についても、クワインについても、彼らの理論には各々の誤解が含まれているといわれますが、この本にはそういった誤解がなぜ生じたか、といったところにも都度言及があります。そのことがありがたい一方、僕には混乱の種にもなってしまいました…。
また議論の都合上、数学の哲学に触れる箇所があったのですが、僕には馴染みがなさ過ぎて読解困難でした…。読み飛ばしてしまいましたが、全体の趣旨の理解には大して問題無かった……はず……。
経験主義とア・プリオリな真理
今回の主役は経験主義という考え方です。ものすごく簡略化すると、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という立場です。なんだか普通の考え方のように思われるかもしれませんが、細かく見ていくと議論の余地がたくさんあります。「何事も」というけど、本当にあらゆるすべての言明に対してそう言い切れるかな?とか。「実際に確かめる」というけど、具体的にどうやって?とか。というか、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という考え方そのものの正しさについて、最初に確かめておいた方が良いんじゃないの?とか。
経験主義にとっての課題の一つとして、「ア・プリオリな真理」というものがあります。まず、【ア・プリオリ】(a priori)と、それと対を成す【ア・ポステリオリ】(a posteriori)という語彙の確認をしましょう。この二つはある区別を表現するもので、哲学的な議論の中でよく出てくる概念です。『言語哲学大全Ⅱ』においては、次のように説明されます。
つまり「ア・プリオリな真理」とは、いかなる経験に依らなくてもそれが真であると認識できるような言明のことです。平たく言ってしまえば「確かめるまでもなく正しいと分かること」です。これは明らかに経験主義に反する真理ですから、経験主義を貫徹するなら、「ア・プリオリな真理など存在しない」という説明を考え出す必要があります。
しかし数学や論理学における言明は、どうやら「ア・プリオリな真理」であるようだ、と考えられてきました。例えば、「ある整数aは、10以上か10未満のどちらかである」とか。このことは、確かめるまでもなく正しい気がします。もっと単純な言明「ある整数aは整数である」なんてどうでしょう。他によく出て来る例文としては、「独身者は結婚していない」なんていうのもあります。こういった類の言明は、確かめるまでもなく真であると分かりそうだし(≒ア・プリオリな真理)、偽である状況を想定することも難しいし(≒必然的な真理)、特段目新しい情報が得られることのない当たり前(≒分析的な真理)な言明です。「自明」って表現も似合いそうですね。
こういったア・プリオリに真であると思えるような言明を、経験主義のひとつ、論理実証主義という立場がどのように扱ったのか、というところを見ていきます。
論理実証主義の言語観 - 規約主義とその困難
論理実証主義は、科学哲学において重要な役割を果たした思想・運動で、形而上学に対して厳しい態度を取ったことでも知られます。「形而上学」という哲学のジャンルがどんなジャンルか、というのは説明が難しいのですが、経験主義との対比を際立てて説明するなら、「事実に基づいて確かめようの無いことについて考える学問」といったところでしょうか。
論理実証主義者と一言で括っても、その集団の中には様々な考え方の人が居たわけですが、およそ共通する言語哲学上の性格として、規約主義という考え方と、検証主義という考え方を含んでいたようです。
数学や論理学の言明のような、ア・プリオリで必然的で分析的に見える言明をどう扱うか、という前節の話題に対応するのは、規約主義の方です。
論理実証主義は、前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から多大な影響を受けていたそうで、その影響の一つが、ア・プリオリで必然的で分析的な、数学的・論理的真理をトートロジーと見なすことです。【トートロジー】とは、和訳では「同語反復」とも言われる形の言明のことで、要は「同じことを繰り返し言ってるだけ」の言明のことです。同じことを繰り返しているだけなので、トートロジーは必ず真になる言明です。例えば「ミドリムシはミドリムシだ。」という言明は、必ず真になります。もしかしたら発言者は生物学に疎くて、ミドリムシと青虫の区別がついていなかったり、とある地方ではアブラムシのことをミドリムシと呼ぶ習慣があったりするかもしれませんが、発話状況や事実がどうであれ、この言明は常に必ず真であろうと思われます。
論理的言明は、前提として決まっている推論規則(三段論法だとか、排中律だとか…)に従って「”AならばB” かつ "A" ⇒”B”」(例:60秒経過しているならば1分経過している。かつ、いま60秒経過した。ということは、いま1分経過した。)といった具合に、言明間の関係を整理して表す言明です。前提となっている規則や定義に従って言明が整理されるだけのことですから、偽になりようがありません。常に真で、トートロジカルです。数学的な言明も、算術の規則や定義に従った式変形の後、「A = B」といった具合に、一見異なる表記の数式どうしをイコールで結び、二つの数式が同値であることを示したりしますから、やはり同語反復的という気がします。
以上を踏まえ論理実証主義では、数学的・論理学的言明が常に真であると思われるのは、規約による真理だからだ、という解釈に至ったようです。
ア・プリオリで必然的で分析的に真な言明たちは、我々自身があらかじめ取り決めた言語使用に関する規約に従っているために常に真であるトートロジカルな言明であって、後から経験に依って確かめる必要が無いのも当然のこと。これらは言語的要因についての言明であって、経験主義の考え方が重要になる科学の領域の言明(事実的要因についての言明)とは、はっきり分けて考えられる。そのため経験主義にとって問題となるものでは無い。これが、論理実証主義の取る「ア・プリオリな真理」に対する立場ということのようです。
似たような考え方の人は、論理実証主義以前にも居て、例えば経験主義を徹底した哲学者ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、「単に言葉のうえの命題(merely verbal proposition)」と「本当の命題(real proposition)」という区別を提唱していました。
「ア・プリオリな真理」「規約による真理」という考え方は、生物の分類理論・分類学史を整理するにあたっても、おそらく重要な発想です。分類学史の調査は哲学を一通り修めたら(=一旦僕が満足するところまでやったら)取り掛かろうと思っていますが、動物・植物といった生物の分け方が、我々自身が取り決めた規約によるものなのか、それとも我々の認知とは関係なく自然界に存在していたものをア・ポステリオリに発見したものなのか、という整理が必要になるであろうという予感がしています。
さて、論理実証主義が取った数学・論理の「規約による真理」という考え方は、残念ながらそのまま維持することが困難な考え方だそうです。
ここに【論理】というものの扱い難さが如実に表れていますね。結局我々は論理的な思考で以て言明の正当性を表現するので、
「あらかじめ取り決めた規約に従うことで、論理的な言明は必ず真になる」
という規約主義の説明自体も、やはり論理的な言明なのです。この言明が正当なものであることを、規約主義を維持しながら表現すると、
「あらかじめ取り決めた規約②に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約に従うことで論理的な言明は必ず真になる」という論理的な言明は真になる」
という説明になります。しかしこれもやはり論理的な言明なので、この言明の正当性を規約主義を維持しながら表現すると、
「あらかじめ取り決めた規約③に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約②に従うことで、「あらかじめ取り決めた規約に従うことで論理的な言明は必ず真になる」という論理的な言明は真になる」という論理的な言明は真になる」
となり、規約主義を維持する限り、その正当性を示すには無限に説明が必要となってしまいます。
論理について突き詰めて考えると、無限背進を引き起こすということは、ウィトゲンシュタインの哲学について扱ったときにも見たことなので、そのときに引用した「亀がアキレスに語ったこと」も再度引用します。
以上により、論理実証主義の言語観の内、規約主義は維持が困難であることが確認されました。経験主義を貫徹するためには、別の方法で「ア・プリオリな真理」に対処する必要がありそうなのです。
論理実証主義の言語観 - 還元主義を伴う検証主義
前節では経験主義の整合性を図るために持ち出された理論としての規約主義と、その維持困難さを見てきました。次は、言語の意味についての経験主義らしい考え方である検証主義と、それに密接に関わる還元主義ついて見ていきます。
検証主義というのは、「意味の検証理論」と呼ばれる意味論を採用する考え方です。これは、言明の意味とはその検証方法である、と考えるものです。
他方、前回の記事で扱っていたフレーゲ的言語論では、言明の意味(フレーゲの用語では意義(Sinn))とは真理条件である、とされていました。
おそらくどちらの考え方においても、言明がどのように事実的要因と関わるかということ、そして、言明は事実と照合されることで真偽が決定される、ということが重要視されています。
真理条件を重く見る意味論においては、言明の意味を理解できるということは、「どういう事実があるときに真偽が決定するか」を把握できることだ、と考えられます。
検証方法を重く見る意味論においては、言明の意味を理解できるということは、「どういう経験があるときに真偽が決定するか」を把握できることだ、と考えられます。実に経験主義的です。
正直言って、真理条件と検証方法の区別について僕はちょっとあやふやなのですが、試しに具体的な文を想定して考えてみます。
例えば、「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」。この言明の真理条件は、多分文面そのままでよくて、「実際に植物について、強い光が当たっているほど生長が速くなるという事実があること」でしょう。フレーゲ的言語論なら、これを把握しているということを以て、言明の意味を理解できていると言えそうです。検証方法はというと、「異なる強度の光を当てることができる実験設備が用意され、そこで植物Aを育て、生長の速度を記録し、光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられること」といった感じでしょうか。検証主義では、ここまで把握できてやっと言明を有意味なものとして理解できていると言えそうです。
では、「植物も神様を信仰している」とかどうでしょう。この言明の真理条件も、多分文面そのままでよくて、「実際に植物が、神様を信仰しているという事実があること」ですかね(ちょっと怪しくなってきましたね)。検証方法はというと…、把握するのがかなり難しい気がします。どんな方法で確かめたら良いのか…? こういうとき、検証主義においてはこの言明を無意味な言明として扱うしかなさそうです。
どうやら真理条件を重く見る意味論の方が、有意味とされる言明の範囲が広いように思えます。もし真理条件すら理解できない言明というものがあるとすれば、全く文法に則っていない言明とか、概念を正しく用いることができていない言明とかでしょうか。もしかすると、最初の記事で触れた、「ミドリムシは動物?植物?」という疑問に対して、「動物でも植物でも無い」と答えることに、なんだか納得がいかないのって、真理条件の把握が難しくなるやりとりだからなのかも…?
少し脱線してしまいました。ところで既に先の例文にも示されているのですが、ここでの検証主義には、還元主義という考え方も関わっています。先の例文「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」は、その検証方法を理解するにあたり、
・異なる強度の光を当てることができる実験設備が稼働している
・そこで植物Aが育っている
・生長の速度が測定され、記録されている
・光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられる
というように、複数の言明に分解されました。このように、要素に分解(=還元)して捉える考え方が、還元主義と呼ばれます。上記の還元は、本当はまだまだ解像度が低くて、「実験植物ごとに異なる光が当たっていることが、照度計の数値を見て確かめられる」とか、「生長の記録は間違うことなくエクセルに打ち込まれている」とか、無数の要素言明に分解可能です。論理実証主義者のモーリッツ・シュリック(1882-1936)による検証主義の説明と、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908-2000)による還元主義の説明を引用します。
最終的に直接的検証が可能である言明が基礎になるという点は、前回の記事で紹介したラッセルの固有名論と似ています。ラッセルは語の意味と実在とを結び付けることについて考え抜いた結果、”論理的な意味での名前”は、「これ this」とか「あれ that」といった直接指示語である、という考えに至っていました。
ところで還元主義のもとでは、些細な言明であっても、細かく還元し出せば無数に要素言明が生まれてしまうはずで、その把握を意味理解の条件に据える理論は、かなり非現実的なモデルという気もします。ちょっとした言明の有意味性を確かめるのにもかなり苦労する、というか、人智を超えてしまうのではないでしょうか…?(上記引用では「実際上の理由から、その道を現実に辿ることが私にはできないということが、しばしばであろうとも」と言うだけで片付けられてしまっていますが…)
とにかく以上のような考え方が、論理実証主義の言語観のひとつ、還元主義を伴う検証主義でした。しかしこの還元主義についてもやはり、規約主義同様に否定的な議論があります。特にクワインによって提案された別の言語観は、哲学史上かなり大きな影響力を持って、論理実証主義的な言語観を解体していったようです。その中には、初めに触れた、経験主義における「ア・プリオリな真理」への対処に関わる議論も含まれます。この言語観について説明された有名な論文の名は、『経験主義のふたつのドグマ』です。
デュエム=クワイン・テーゼ - 全体論的言語観
【ドグマ】とは、和訳としては「教義」などが充てられる語彙で、おそらく色々な用いられ方があるのですが、ここでは「無条件に信じられているもの」くらいの意味だと考えて良いと思います。経験主義は、「何事も実際に確かめてみないと正しいかどうか分からないよね」という立場ですから、確かめもせずに信じられている【ドグマ】なるものに対しては否定的な立場を取らざるを得ないはずです。しかし、論理実証主義は経験主義でありながら、実は無条件に信じ込んでしまっているドグマを抱えているのだ、という批判を展開したのがクワインの論文『経験主義のふたつのドグマ』だったようです。
クワインが新しく提案した言語観は、経験主義的でありながらも論理実証主義のものとは全く異なり、部分的な差異や修正といった程度のことでは説明しきれない気がします。まずここまで見て来た論理実証主義的な言語観と、新しく提案された言語観を図示してみると、およそ次のような感じだと思います(概念の安易な図示化やアナロジー化は見落としや誤解の元凶にもなりますが、だからこそ自分の理解を"見える化"しておくことによる学びも多いはずです)。
ある言明の真偽が現実との照合を経て認識されるにあたり、還元主義を伴う検証主義においては、言明は無数の要素言明に分解されます。要素言明の一つ一つに、対応する経験というものがあり、これら要素言明の真偽が決定されることで、元の言明の真偽も構成されていくのです。
しかしクワインの言語観では、言明一つと経験一つをそれぞれ結び付けるようなモデルにはなっておらず、無数の言明とそれらをつなぎ合わせる論理的言明が全体としてひとまとまり("信念の体系")になっていて、このまとまり全体で現実との照合が起こると考えられます。
一つの言明と一つの経験をぴったりと対応させて真偽を決定することが、現実的には不可能であるという着想は、まずデュエムによる物理学実験についての考察から出てきたものでした。
例えば、還元主義について考える際に使用した例文「植物は、当てる光が強くなるほど生長が速くなる」は、次のような言明を始めとする、無数の要素言明に分解されそうだという話をしました。
・異なる強度の光を当てることができる実験設備が稼働している
・そこで植物Aが育っている
・生長の速度が測定され、記録されている
・光が強い時ほど生長速度が速いことが確かめられる
・実験植物ごとに異なる光が当たっていることが、照度計の数値を見て確かめられる
・生長の記録は間違うことなくエクセルに打ち込まれている
これら要素言明は現実と照合されることで真偽が確かめられる言明(経験的言明、事実的要因についての言明)たちですが、実はこのほかにも様々な推論(論理的言明、言語的要因についての言明)も複雑に関わっているはずなのです。いくつか思いつくものを挙げるとすれば、
・生長とは植物体の重量が増えることである
・生長の速度とは、単位時間あたりの生長の程度である
・照度計の数値が高いならば、光の強度は強い
・植物Aは植物である
などなど…
更に解像度を上げていくなら、植物の生長を重量で測定することにしているため、「重量」についての物理学的な理論も関わってくるでしょう。「光」についての理論も含めないといけないかも。
つまり言明の真偽は、経験的言明の真偽のみからは構成されず、複雑に絡み合う論理的言明の真偽も相まって検証されるのです。このとき、論理的言明についても偽となる可能性が想定されることが、とても重要です。これにより例えば、ある複雑な言明の真偽を確かめる場面において、その言明を還元した経験的要素言明のうち、何かが偽であることが確かめられたとしても、関連する論理的言明の真偽についての認識を変化させることで、元の複雑な言明を真と見なし続けたりすることができます。
ところで論理的言明は、ア・プリオリに真な言明とされ、経験主義にとって対処を要する難題だったはずでした。論理実証主義は、論理的言明について、確かめるまでもなく真な言明と認めつつ、規約主義という考えを採用し、言語的要因と事実的要因の区別を提唱することで整合を取ろうとしていました。しかしクワインの言語論においては、論理的言明すらもア・プリオリに真な言明と認められず、現実との照合を経て真偽が改訂されても良いと考えられます。ここではもはや、言語的要因と事実的要因の区別は重要でなくなります。
以上のようなクワインの全体論的言語観に、論理実証主義では見落とされていた重要な視点が含まれていることは確かなようです。しかしア・プリオリな真理について完全に否定することは、やはり難しいのではないかという疑義も残されます。結局どんな理論が提唱されたとしても、規約主義の否定と同様の議論「論理について突き詰めて考えると、無限背進を引き起こす」という事態は、それが論理的に整合のとれた論証であればあるほど、起こりえてしまうと思われます。
【宵の明星】/【明けの明星】 再考
以上の『言語哲学大全Ⅱ』の読解を経て、前回扱った【宵の明星】/【明けの明星】の例文の考察について、新しい見方を付け加えることができる気がしてきたので、再度考えてみようと思います。考え直したいのは、次の記述について。
ここで言っていた「二つ以上の名前で呼んでもよいことを説明する手続き的な内容」は、論理的言明の改訂に関することなのかもしれないです。そして、「同一であると思われていなかった対象どうしが、実は同一であったという"発見"の内容」は、経験的言明の改訂に関することなのかも。
【宵の明星】/【明けの明星】の例文で扱われるべき"経験の裁き"と信念体系の改訂は、おそらく次のような状況ではないでしょうか。
<信念体系A(経験の裁きを受ける前の信念体系の一部)>
経験的言明1 夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体と、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体は、別々の天体である。
論理的言明1 【宵の明星】は、夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体に付いた名前であり、【明けの明星】は、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体に付いた名前である。
<信念体系B(経験の裁きを受けた後の信念体系の一部)>
経験的言明2 夕方に太陽・月に次いで明るく見える天体と、明け方に太陽・月に次いで明るく見える天体は、同じ天体である。
論理的言明2 【宵の明星】【明けの明星】はどちらも、夕方には太陽・月に次いで明るく見え、明け方にも太陽・月に次いで明るく見える一つの天体に付いた名前である。
信念体系がAからBに改訂されたことで得られる「【明けの明星】と【宵の明星】は同じ天体である」という同一性言明に、二つの読み方があるように感じるのは、経験的言明と論理的言明の改訂を区別して把握できるからなのかもしれません。そして確かに、定義的な性格を持っている様に見える「名付け」の言明すらも、事実に照らして改訂の可能性に晒されているということですね。
おわりに
今回も危うい理解度ながら、とりあえず学べたことを出力できました…。
『言語哲学大全Ⅱ』では、【ア・プリオリ】【必然的】【分析的】の概念をハッキリと区別し、相互の関係について留意することが、とても重要なポイントになっていました。特に論理実証主義者やクワインには、これらの概念を誤解・混同している節が見られるとのことで、それぞれの理論を理解する上でこれら概念への詳しい言及が重要でした。しかし当記事ではそのことはほとんど省いてしまって、数学的・論理的言明については「ア・プリオリで必然で分析的な言明」などという連言による表現をして済ませることで、内容を簡略化してしまいました。たぶん、これら概念の区別は、次巻以降の議論の方でもっと重要になると予想されますので、またそのときにしっかりまとめたい所存です。
今回は科学哲学の議論も入っていたため、科学的な理論の正当化や改訂が如何になされるのか、という論点についても学びがありました。これは今後、生物学史・分類学史を整理する際に必ず役立つはずで、今回引用した箇所にも、アリストテレスとダーウィンの名前が入っていたりしましたね。
また、本文で扱わなかったのですが、『言語哲学大全Ⅱ』の中に、概念を理解しているということと明示的定義との関係についての言及があったので、最後に引用しておこうと思います。これは、これまで読んできた哲学の本からも既に得られた学びですが、僕の探究にとって重要な考え方です。
最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?