雪夜

 あれは5年前の1月だった。当時も今も僕は無職で、それというのも22歳に新卒で入社した後数ヶ月で辞めてからというもの、8年間もの年月を数多の女性に衣食住を施され、俗に言う「ヒモ」として、生活というよりも女性に飼われている、飼ってもらっているといったほうが正しいようなその日暮らしをしていた。今夜は〇〇さんの家、明日は✕✕さんの家、という放浪で、定住もしなければ気の向くままに連絡して練り歩いていた。実家には帰りたくなかった。そして、実家にいる親もまた僕が帰ってくる事を嫌がっていた。お互いに不協和音のように噛み合わないという点で僕と親との間で暗黙の了解となっていた。
 その日は都内の八王子に住んでいる大学生の女性の家に行くつもりであった。当時通っていた精神病院が同じ路線で、その病院の帰りにそのまま宿泊させてもらうつもりだった。彼女は地元から都内の大学に通うために学生街である八王子に引っ越して一人暮らしをしていた。僕は彼女に軽く連絡を済ませて薬の入った袋をぶら下げて高尾行きの電車に乗った。
「あら、もう来たの?晩御飯はカレーで良い?鶏肉が安かったから」
僕が玄関を開けると静かに笑ってそう訊いてくれるのが僕にはひどく辛かった。
「いつもごめんね」
僕はすごすごと部屋に入ると、彼女のために道中のコンビニで買っておいたハーゲンダッツのストロベリーを冷凍庫に入れ、リビングに行きテレビを付けた。彼女はいちごが好きだった。
「またそこら辺の女の子をひっかけて遊んでたんでしょ。まったく」
と何故か嬉しそうに横目で僕を見て言うのだった。僕はテレビを見るフリをしてわざと聞き流した。本当はテレビなんて見たくない。ただ、女遊びをしている自分を責める言葉が出た時の静けさに耐えられない僕の弱さを包み隠してくれるだけであった。興味のないテレビをぼーっと見ているとキャスターが天気予報をしていた。東京は雪の予報だった。
「ねえねえ、今夜は雪が降るらしいよ」
その場の空気を流すように殊更にはしゃいで僕は彼女に言った。彼女は特に興味もないのか「ふーん」といった感じで火加減を調整していた。
 その時の僕は精神的にも大変苦しく、精神科医は僕に様々な病名をつけ大量の薬を処方した。お酒が体質的に飲めない僕はなんとか苦しさを紛らわすために煙草を吸ってみたり、ゲームに興じたり哲学なんかはうってつけの暇つぶしとして愛読した。精神的に不安定で、孤独を恐れ常に女性と関わりを持ち、路地の端なんかで野良猫を見かけると僕とあの野良猫は一体どれほど違っているだろうかなどと一人で考えては涙を流したこともあった。
 彼女の作ったカレーはごろごろと大きめに切った野菜が沢山入っていた。2人でテーブルに向かい合っていただきますと言って食べた。僕は大盛りのカレーを三杯もおかわりして炊飯器も鍋もみんな空にしてしまうと、彼女はいつまでもクスクスと笑っていた。
「どうせ全部食べてしまうと思ったから4人前炊飯しておいたのよ」
僕に向かって胸を張って言った。僕は照れくさいやら申し訳ないやら嬉しいやらで「ありがとう」と言ったきり彼女を直視できなかった。
 満腹で週末のテレビ番組を眺めながらごろごろしている彼女にバスタオルを借りると僕は風呂に入った。意識がぼんやりしているみたいだった。何もかもが曖昧で不確かで、何も分からなかった。この先どうやって生きていくのか、働けるのか、多くの人に迷惑をかけ続けている自分という存在は何なのだろう。そして、そういう生き方をしてきた事に後悔の気持ちを持てぬ自分はやはり頭がおかしいのだろうとも思った。風呂はいつも嫌なことを思い出す。両親と暮らしていた頃、家庭崩壊をしていく有様を、母が狂い父が怒鳴る有様を眺めながら辛い時苦しい時は風呂で顔を湯につけて大声で泣いた。
 僕は風呂から出ると髪を乾かして布団に寝転んだ。時計を見ると24時だった。
「ねえ、今日は窓もカーテンも全部開けて寝ない?」
僕は冬が好きでいつもこの季節になるとそうしているのだった。
「嫌、寒いから」
とても当たり前すぎる回答である。僕はそれでもめげずに
「お願い、僕は冬が好きなんだ。前にも話したろ?匂いも空気も雰囲気も好きなんだ。何より肌が冷えつくと自分と世界の境界がはっきりと分かって生きているって実感できるんだよ」
彼女はそれでも断ったが僕が「そこをなんとか」とお願いすると
「まったく、しょうがないなあ」
と言って彼女は厚着をして窓とカーテンを開けて布団に入った。
 テレビを消して電気を消すと雪の白い明かりがうっすらと遠くに浮かぶ思い出のように部屋を照らした。遠くで走る救急車の音が止むと張り詰めたピアノ線のような静寂が訪れた。僕たちは窓の外を見ると、さらさらと流れるように降り積もる雪が街灯の光で照らされてキラキラと光っていた。
「君さあ、いつまでそういう風に生きていくの?」
彼女は窓の外の雪を見ながら独り言のようにつぶやいた。僕は僕より歳下の彼女が僕のことを君と呼ぶのが気に入っていた。
「分からない。でも、できる限り頑張りたいなあ」
僕は彼女の方に振り返りながら答えた。彼女の瞳に僕は映っていない。この降りしきる白い雪に照らされた彼女の顔はなんだかひどく幼く見えた。
「まあ、やれるだけやりなよ。生き方に正解なんて無いんだし。誰かの生き方を批判するやつなんてほっときな」
彼女はそう言って仰向けになると寝てしまった。ほんの少し泣いてから、僕も寝た。

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