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Long Last Date [1]


『Last Date』 Eric Dolphy (alto sax, bass clarinet, flute), Misja Mengelberg (piano), Jacques Schols (bass), Han Bennink (drums) 1964年録音

  じゃあ、逃げてくれる?一緒に。

亜津子は、私がタバコに火をつけたあと、ちぎらずにそのままにしてある、先の黒くなった紙マッチの軸を一本一本ちぎり灰皿に捨てながら、顔も上げず、わざと投げやりに言ったであろうと容易に推測のつく少し上ずった調子で呟くように言った。

私には、片手で紙マッチの軸をちぎらず半分に折り、先の火薬の部分を親指で茶色の部分に押しつけ、はじくようにこすりつけて火をつける癖があった。いや、厳密に言えば癖ではなかった。そうすることが様(さま)になると思っていたのだ。毎回意識してやっていた。白黒のハードボイルド映画のワンシーンよろしく、ジャズバーのカウンターのスツールに横向きに半分だけ尻を乗せ、片手をポケットに突っ込みながら、カウンターに肘をついたもう一方の手で紙マッチに火をつけ煙草を吸う、そんな姿が様(さま)になるまで何度も練習したものだった。

そして亜津子には、私が火をつけた後の、先が黒くなってもはや用を足さない軸を、一本一本ていねいにちぎっては灰皿に捨てる癖があった。

いや、それも厳密に言えば、癖とは言えなかったかもしれない。
先の黒ずんだ軸を根元からていねいにちぎりながら、亜津子は時々こちらをわずかに非難がましくちらりと見た。

どうしてあなたはいつも、こうしてほったらかしにしておくのかしら?どうして、きちんと始末できないのかしら?

そう言いたそうに嫌味ったらしく、細心の注意を込めて根元からきれいにちぎり取るのだった。

  いいよ。

私もできるだけ投げやりに言った。そう言う以外にどのような返答が可能だったであろう。ここまで来て、驚くことは無論、かすかな躊躇いを見せることも様(さま)にならない。いとも平然と「いいよ」と言ってのけることしか自分には許されないような気がした。

様(さま)にさえなっていれば良かったのだ。そう返答することで呼び寄せる事態の重さを測り、十全に受け止める器量も賢明さも、私には微塵もなかった。あるいは、あえて判断停止していたのかもしれない。判断停止をし、未来を拒否することにより「実存的に」様(さま)になる、そう思うような哲学的チャラ男の極みだった、私は。実際には、そういう振りをしている自分を愉しむ余裕ある自分をでっちあげながら、単に思考停止していただけかもしれない。

  ほんとに軽いわね。何も考えてないでしょ。

その通り。私は軽かった。ぺらっぺらだった。
ただ、様(さま)になるというそれだけの理由で、何百冊も小説や哲学書を読み、それなりの言葉を散りばめた会話をしても、私の中身はただただ空っぽで虚ろだった。いや、それだけの理由ではなく、確かに私の中にそういったものに惹きつけられる何かがあったのかもしれないが、いくら書物を読んでも「魂を震え上がらせる」と人が言うような、何かリアルなものは私の中に残らなかった。最初から燃え尽きていて灰皿に捨てられているマッチの軸のようなものだった。いや、一度は実際に燃えただけ、灰皿の中のへしゃげたマッチの燃えかすの方がまだましだった。

人間関係においても恋愛においてもそうだった。私の人生はそのリアルな何かの影を追いかけているだけのようなものだった。実際に魂に触れるのではなく、その影の濃淡でそのリアルらしさを推し測っているだけの。

  そんなことないよ。

  そんなことあるわよ。分かるんだから、あなたの頭ん中ぐらい。くだらないへ理屈ばかりで、実際はすっかすかのすかすかよ。蝉の抜け殻よ。

  蝉の抜け殻か。うまいこと言うね。形あるのに実体はない。その殻と殻が内包する空虚。虚無。それは、かつて、これから蝉になろうとしているものがそこにあったということを表すだけの虚ろな表象そのものだ。

  まさにあなたね。虚ろ、空っぽ、文字通り空蝉(うつせみ)ね。

私が中身のない薄っぺらい人間だと責めたいのだろうが、それにしても空蝉とはあまりに詩的で文学的だ。こういう時にさらっとその言葉が出る亜津子「も」私は限りなく愛していた。私の下らない哲学もどきの戯言(たわごと)や戯言(ざれごと)にうんざりしながら、または、した振りをしながら(そのどちらなのか判然としないことの方が多かったが)、それでも彼女は適度に言葉をはさんだり、コケティッシュに抗ったりしながら私の話に耳を傾けていた。その時間が私は堪らなく好きだった。私はにやにやしながら聞いていたのだろう。それを牽制するように彼女は言った。

  言っとくけど、褒めてないから。だから軽いって言うのよ。

私がこの程度の男でしかないのは、たぶん亜津子にはとうの昔にお見通しだったであろう。非常に不思議なのは、そんな私に亜津子が人生を投げ出そうとしていることだった。それほど今の亭主から逃れたいのか、それともこの女も私と同じ穴の狢、何か止むに止まれぬ、情熱などとは到底言えない、すかすかの虚ろな焦燥感でぎりぎりと自分を不幸へと追い詰めていくようなところがあるのか。そういう私も逃げているだけだった。だが何から?

  まぁ、いいわ。いいのね?

  いいよ。

  じゃあ、待ってて。用意してくる。

えっ?今? この女には本当に痺れる。

その当時、哲学的チャラ男であった私が崇拝していたジャズミュージシャン、エリック・ドルフィーのアルバム『Last Date』に唯一「実存的」反応を示した女が亜津子だった。

貸したそのレコード(当時はレコードの時代だった)を返してもらい、その感想を聞くと「魂を脱水されちゃった」そう、彼女は言った。幼稚な哲学的チャラ男には痺れるような様(さま)になる台詞を時々吐く女だった。

  通帳とか、ありったけお金持ってくる。数万しかないけど。

と言って立ち上がった。私は言葉も返せず、その姿を見ているしかできなかった。通帳やお金を持ってくるということは、事前に決めていたことではなく、今思いついたということだ。人に軽いと言っておきながら、何と自分も軽い女なのか。それとも私を試したということか?少しでも躊躇を示せば、冗談よとでも言いながら話を済ませ、その後二度と私には会わない、そういう算段だったのかもしれない。いや、そういう算段であればなおさら、用意は済ませて来てもおかしくはない。あるいは、そういう算段で、あえて用意をしに自宅に戻り、私を一人ここに残し、尚も私を試したのか、それとも何か劇的な効果を狙ったのか。それとも矢張りまったくの気まぐれな思いつきか。思い詰めた果ての衝動か。いずれにせよ、この女には本当に「痺れる」。

  待ってて。

カランコロンと、喫茶店にありがちなドアの音を立てて亜津子が行ってしまうと、私は、彼女がちぎって一本だけ残っている紙マッチでタバコに火をつけた。そして、火をつけ終わった軸を、今度は彼女がするように丁寧にちぎり灰皿に捨てた。そのことに何か象徴的な意味をつけようとしてのことだったが、しかし、そう思うこと自体が単なる軽い気まぐれだった。

(最も脱水される曲、A面1曲目の「Epistrophy」composed by Thelonious Monk)

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