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ゴーギャン、破滅の人生 - その現代における意味 …


我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 1898年

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 後期印象派を代表する画家ポール・ゴーギャンの最も有名な絵に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1898年)という絵がある。「ヨーロッパ文明と人工的・因習的なものすべて」に疑念を抱き、反文明的で素朴な生活に憧れ続けたゴーギャンは晩年、彼にとって憧憬の地であるタヒチを二度にわたって訪れる。そして最後は、ヨーロッパから遠く離れたマルキーズ諸島ヒヴァ・オア島で、経済的身体的精神的苦境のどん底で、誰にも看取られず、一人その生涯の幕を閉じる。それは、放埒で波瀾万丈な、そして反道徳的で身勝手な彼の人生の最後に相応しいものであった。

 ゴーギャンは1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和主義のジャーナリストのクローヴィス、母アリーヌはペルー生まれの女権拡張論者で社会主義者のフローラ・トリスタンの娘で、ともに急進的な考えの両親のもとに彼は生まれた。この年、ナポレオン3世が政権を握り、その迫害・弾圧を逃れ一家は、アリーヌの大叔父の、富豪でペルーのリマの副王であるトリスタン・デ・モスコソを頼り、南米に赴く。その船上で、父のクローヴィスは心臓発作で死んでしまうが、リマに渡った母アリーヌとゴーギャン、そして1歳年上の姉マリーの3人家族はそれから6年間、リマの親戚に温かく迎えられ、使用人付きの恵まれた豊かな生活をする。しかしゴーギャン7歳の時、ペルーで市民戦争が起こり、リマの親戚は権勢を失う。それとほぼ同時に父方の祖父ギョーム・ゴーギャンが死亡し、その遺産相続のため一家はフランスに帰国。父の故郷オルレアンに行き、イジドール伯父の世話を受ける。その後、彼はフランスのいくつかの学校や神学校に通ったのち14歳の時、海軍予備校に入学しようとするが試験に失敗、商船の水先人見習いとして世界中の海を巡った。20歳でフランス海軍に入隊し、2年勤め普仏戦争などにも参加する。その航海中に彼の母親は死んでしまうのだが、母の愛人であった、資産家で美術品コレクターのギュスターヴ・アローザが彼の後見人となり、その彼の紹介でパリ証券取引所に職を得、株式仲買人としてかなりの成功を収めることになる。そして1873年にデンマークの美人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚、その後、二人の間に5人の子供、エミール、アリーヌ、クローヴィス、ジャン・ルネ、ポール・ロロンをもうけた。

 ゴーギャンが絵を始めたのはその頃であった。1873年、証券取引所の同僚に勧められ画塾に通い始めたのがきっかけである。この時、彼は25歳。彼の後見人のアローザは素晴らしい絵画コレクションを有し、彼の家には著名な画家が多数出入りしていた。また、彼の住むパリ9区には画廊や印象派の画家が集まるカフェも多く、そういった事情が、彼の奥底に眠っていた画家としての魂を呼び覚ましたのであろうか。いずれにせよ、世に傑作を残す偉大な天才画家の多くが、幼少の頃より絵の訓練を始め、早い時期からその天才ぶりを発揮しているのに比べると、ゴーギャンの場合、その画業の開始はかなり遅く、例外的とも言える。しかも最初は趣味の日曜画家程度にすぎない。それが、印象派の有名な画家カミーユ・ピサロの教えなどを受けながら、絵画の修行開始からわずか3年後の1876年には、サロン(フランス芸術アカデミー主催の公式展覧会、官展)に応募した絵画の一枚が入選を果たし、後に次々と傑作を放ち、ゴッホ、セザンヌ、モネ、ルノアールなどと比肩しうる名を後世に残すのであるから、絵描きとしての天分は相当のものだったにちがいない。

 だが、その天分を追求することは、また同時に、パリの華やかな暮らしや妻子を捨てることでもあった。1882年、フランスの貿易赤字に端を発したユニオン・ジェネラル銀行の破綻により、パリの株式市場が大暴落。フランスは大不況時代に突入する。株式仲買人として裕福な生活をしていた彼の収入も激減。また、その不況の影響は絵画市場にも及び、それまでそこそこ買い手がついていた彼の絵もまったく売れなくなってしまった。ところが彼は、経済的に先行き不透明な中、妻と5人の子供を抱え、賢明な家庭人としてそれまで以上に堅実な生活を送るべきであるにもかかわらず、なぜか画家として一本立ちする決意を固める。当然妻は猛反対をするがゴーギャンは絵を捨てられず、一家は経済的に困窮を強いられることになる。その後、一家は生活を立て直そうとパリから生活費の安いルーアンに移り住むが、それでもうまくいかず、結局妻メットはコペンハーゲン(デンマーク)の実家に帰ってしまう。ゴーギャンもコペンハーゲンにまで家族を追っかけ、そこで防水布の外交販売などを始めたりするが、それも結局うまくいかず、パリに戻るものの画業は精彩を欠きさらに苦難の生活を強いられる。

 その後、彼は知人に誘われパナマやマルティニーク島を旅する。彼の画風が、それまでの西洋絵画の伝統や印象派の繊細な洗練されたものに背を向け、晩年の作品に繋がるような、くっきりとした輪郭、野生的で、原色をべったり塗ったような大胆な色使いと構図、そして神話的象徴的な主題へと大きく変わっていくのはこの頃である。マルティニーク島から帰ったゴーギャンは、パリの画廊に展示されたマルティニーク島での作品を見て感銘を受けたゴッホの誘いに応じ、南仏アルルの有名なゴッホの「黄色い家」で彼と共同生活をし始める。その当時の絵画の主流である正統派印象主義に背を向けたかのようなゴーギャンの作品を見て、ゴッホがいかに感激したかは想像に難くない。だが、9週間に及ぶその共同生活も、芸術論の激しい対立から終わりを告げ、ゴーギャンはゴッホのもとを去る。その時、絶望のあまり激情にかられたゴッホが自らの左耳たぶを切り落としたことは、つとに有名な話であろう。そしてその後、紆余曲折を経て、1891年、妻の反対を押し切り、憧れの地であったタヒチへと一人旅立つのである。

果実を持つ女 1893年

 タヒチでは13歳の若い、幼いと言ってもいいほどの年齢の妻をめとり、その彼女をモデルに多くの絵を描いた。そのタヒチでの生活は最初こそ、彼の望む、退屈で虚飾に満ちた文明から隔てられた、原始的で開放的な生と性の快楽に満ちた楽園の生活であった。だが、すぐに金が底をつく。そしてタヒチで描きあげた絵を携えて1893年に一度パリに戻る。だがパリでのゴーギャンは、異国帰りの画家としての、そのエキゾチックな絵画が世間の注目を大いに浴びたものの、そのますます大胆で力強く鮮烈になってゆく構図や色合い、そしてその筆遣いで描かれた非西洋的で神話的象徴的な画風は、当時のパリの美術界や画廊、またはますます洗練度を増してゆく印象派のメンバー達の理解を得られず、その絵はほとんど売れなかった。そして結局、失意のうちに、1895年に再びタヒチに舞い戻ることになる。

二人のタヒチ女 1899年

 タヒチに戻ったゴーギャンは、そこでもまたパウラという当時14歳の少女と結婚し、二人の子供までもうける。しかしその二度目のタヒチ滞在は彼にとってはやはり幸せなものではなかった。パウラとの間にもうけた二人の子のうち女の子は産まれてまもなく死んでしまう。その上、膨れ上がる借金、心臓病やら梅毒、以前患った足首の骨折の悪化などの様々な病魔、そしてデンマークに残した愛娘アリーヌ(彼の母親と同名)の死の知らせなどにより、彼は失意のどん底にあった。その中で描きあげられたのが、冒頭で述べた『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』である。その絵は、それまでのヨーロッパの印象派の洗練された手法に背を向け、重厚な輪郭線で区切られた単純で平面的な色面を強調し、そこに象徴的神話的なテーマを盛り込んだ、彼の絵画の集大成であり、なかば遺書のようなものであった。彼はこう述べている。「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが、私にはこれ以上の作品は描くことはできない」。彼はこの絵を書き上げた後、ヒ素による服毒自殺を試みている。

 だが結局死ねなかったゴーギャンは1901年、タヒチ滞在の頃から憧れていたマルキーズ諸島ヒヴァ・オア島を終(つい)の住処と定め移り住む。タヒチでの妻パウラはついて来なかった。彼はまたもや14歳の少女ヴァエホを妻にし、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名付けた二階建ての家を建て、自身の快楽と芸術活動を追求する。だがその最晩年は、現地の司教と揉め事を起こしたり、役人の汚職や無能力を批判し名誉毀損で訴えられたりと、決して穏やかなものではなく、また妊娠中だったヴァエホも故郷の村に戻ったきり帰らず、モルヒネに頼らなければならないほど悪化した健康状態の中、1903年5月8日の朝、彼は誰にも看取られないまま息を引き取った。死因は心臓発作、梅毒によるもの、またはアヘンの過剰摂取による自殺などと言われているが、現在も不明。

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眼鏡をかけた自画像 1903年

 ゴーギャンはまさに典型的な破滅型の芸術家であった。そういう人間は確かにいる。どう足掻いても、まるで悪魔に魅入られたかの如くその人生が破滅と絶望に向かっていってしまうタイプの人間。

 今日、特に日本などではゴーギャンは、「ヨーロッパの古い道徳や因習に背を向け、南国の楽園に理想の生を追い求めた芸術家」だとか「今でいうサラリーマン的な、型通りの行き詰まった人生に飽き足らず、南国の地に、光に満ち溢れた土着の原初的な生の喜びを追い求めた、放浪の芸術家」などと、その「波瀾万丈で破天荒な」、いかにも芸術家らしい人生をもてはやされたりする。

 だが一方で、その彼の生き方や行動には批判的な見方も多い。その第一は何といっても、自分の理想と欲望のため妻と子供を捨てたことである。妻メットは、画家としての彼ではなく羽振りのいい証券マンの彼と結婚したのである。ところが彼は、5人も子供を作っておきながら、最初は趣味でしかなかった絵画に次第にのめり込み、展覧会に入選すると突如「芸術に目覚め」、社会の景気や彼自身の経済状態が芳しくないにもかかわらず、画家としての独り立ちを決意する。そして妻の反対をよそに画業に邁進し、挙げ句の果てにその美しい妻と5人の子供を捨て、1891年4月1日、一人タヒチに渡る。その直前に彼はコペンハーゲンの妻子のもとを訪ねている。そして、それが妻子と会う最後となった。

 批判の第二はその性的嗜好である。性的に奔放であるといえば聞こえは良いが、ゴーギャンはおそらく性依存症とも言えるほど性的にだらしなく放埒で、あたり構わず女性と関係を持っていたと思われる。しかもこの記事を読めばすぐ分かると思うが、ペドフィリア(小児性愛)ぎりぎりの病的なほどのロリコンで、現在ならば確実に犯罪者。いや、当時ですらその性癖は反道徳的であり、そうおおっぴらに出来るものではない。その批判の中心は、西洋人という特権的身分を利用して南国の少女を食い物にし、そのいかがわしい性的欲求を満足させていたというものである。実際、2019年から20年にかけてロンドン・ナショナル・ギャラリーで開催された「ゴーギャンの肖像画展」では館内の壁に「ゴーギャンは複数の少女たちと性的関係を持ち、その内の2人と“結婚”し、複数の子供をもうけた」「ゴーギャンは自らの性的自由を謳歌するため、特権的な西洋人の地位を間違いなく利用した」という説明文を掲げ、音声ガイドで「ゴーギャンの作品はもう見るべきではないのだろうか」と、ゴーギャンの作品がはらむ性的差別、人種差別、西洋文化の特権意識などに絡め、美術ファンに問題提起している。

 そして第三の批判は、今述べたこととも大きく関係するが、タヒチに対するゴーギャンの憧憬の根底にある、非西洋文化に対する差別的意識と自己欺瞞である

 ゴーギャンがタヒチに強い憧れを抱くようになったのは二つの理由があると言われる。一つは1889年のパリ万博の「人間動物園」。「人間動物園」とは当時ヨーロッパの万博などで人気を博した展示物で、そこではアジア、アフリカ、オセアニアなどの集落や暮らしが再現され、植民地から連れて来られた原住民などが、各地の華やかな民族衣装に身を包み、ヨーロッパ人の目を楽しませていた。最初の方で述べたように、ゴーギャンは幼少期に南米ペルーで暮らしたり、10代の頃から商船の水先人見習いをしたり海軍に入隊するなど、若い頃から異境の地を体験し、それに強い憧憬とロマンを抱いていたことが考えられる。元々ヨーロッパの窮屈な小市民的な生活や生き方に気質的に合わなかったであろうゴーギャンが、パリ万博でタヒチの野生的で自然と融合した土着の暮らしを見て、その地に強い憧れを抱いたのも無理はないであろう。

 ゴーギャンがタヒチに憧れるようになったもう一つの理由は、当時ベストセラーとなったピエール・ロティの「ロティの結婚」という小説に感化されたからだと言われる。

 ピエール・ロティはその当時のフランス海軍士官で、その航海中に立ち寄った土地の紀行文や、その土地の女性との体験を元にした恋愛小説などで大人気を博した作家で、特に、2ヶ月ほどのタヒチ滞在中に若いタヒチ女性との暮らしを描いた「ロティの結婚」はそのエキゾティズムが大いに受け、フランスのみならずヨーロッパでベストセラーとなった。またロティは二度にわたり日本にも滞在し、その時の経験をもとに短編集「日本の秋」や「お菊さん」「お梅が三度目の春」などの小説を出している。実は「ロティの結婚」をゴーギャンに教えたのはゴッホだと言われている。ゴッホはピエール・ロティの作品の愛読者だった。ゴッホといえば、その当時のモネやドガなどとならんで浮世絵など「エキゾチック」な日本文化や芸術の影響を大きく受けた作家として有名であるので、考えてみれば当然かもしれない。

 その「ロティの結婚」の中で描かれた、牧歌的で文明に侵されていない野生的なポリネシアの自然と大らかな人々の暮らし、そして現地の若い女性との目眩く情熱的な楽園生活は、前述したように元々非ヨーロッパ的な異境の地に高い親和性を示す気質を持ち、窮屈で似非道徳的なヨーロッパ社会にうんざりしている当時のゴーギャンにとって、抗し難い魅力と魔力を持っていたことであろう。1890年、タヒチ行きを決意したゴーギャンは次のような手紙を友人に送っている。「ヨーロッパでは、惨めな人々が、寒さと飢えに耐えながら終わりない労働を強いられている。だが遥かオセアニアに浮かぶタヒチに行けば、未開の楽園の住人たちは、人生の快楽のみを知る。彼らにとって生きることは、歌い、そして愛することなのだ。」

 だがそのタヒチは、ゴーギャンが訪れた頃にはすでにフランスの植民地となり、押し寄せる西洋の文化と害毒に侵され、本来の無垢な伝統的文化的なタヒチらしさをすっかり失くし、単に西洋人に口当たりの良い異国情緒溢れる見せかけの楽園になっていた。

 歴史的にタヒチの人々は、紀元前3000年から4000年頃にユーラシア大陸から東南アジアを経て南下し、広大な南太平洋の島々に進出し始めたモンゴロイドがその先祖であると言われている。その先祖がタヒチを含むソシエテ諸島に定着したのは紀元後3世紀から4世紀にかけて。そこからニュージーランド、ハワイ、イースター島などに拡がり、14世紀ごろまでには、現在ポリネシア・トライアングルと呼ばれる一大ポリネシア文化圏が形成されていった。その後、16世紀から17世紀にかけてこの海域を航行するスペイン船やポルトガル船が漂着したりなどして、ヨーロッパ人が訪れるようになり、次第に彼らの間で「南国の海に横たわる地上の楽園」という噂が広まっていった。

 史実として初めてタヒチを訪れた最初のヨーロッパ人はイギリス人航海士のサミュエル・ウォリスで、1767年南太平洋を航海中、風に流されてタヒチに漂着した。一行は島の女王の歓待を受けたが、島民が勝手に船内の物を取っていってしまうことに激怒した水夫たちが島に砲弾を放ち、それに対して島民たちが攻撃をしかけるという事件が起こった。島民の行為は「来訪者の所有物は住民に自由に配布されるもの」というタヒチの慣習なのだが(ウォリスの船を最初見た時、タヒチの人たちはそれを、海に浮かんで漂流する島だと思ったという)、それを知らなかったウォリス達はタヒチを「盗人の島」と呼んだ。争いの和解に乗じてウォリスはタヒチを「国王ジョージ3世島」と命名し、英国領であると宣言する。その翌年、フランスの軍人で数学者で探検家のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルが、ウォリス達の上陸を知らずにタヒチ島の反対側に上陸し、タヒチをフランス国王領と宣言する。ブーガンヴィルは記録の中で、タヒチを「裸の美しい女性がたくさんいる官能の楽園」と書き、その女性たちを「あたかもフリギアの羊飼いたちに現れたヴィーナスのごとく、この世のものとも思えぬほど美しい肢体を持っていた」などと書いている。こうして「陽光と真っ青な海と自然の恵みに満ち溢れ、半裸の美しい女性が歩き回る地上の楽園」というタヒチのイメージがヨーロッパ人、特にフランス人の間に完全に定着していくことになる。

黄金色の女たちの肉体 1901年

 だがそれと引き換えに、武器、アルコール、売春、病気、物質主義といった文明の負の部分がタヒチに急速に広まってゆく。特に西洋人が持ち込んだ梅毒、結核などの病原菌は、18世紀半ばごろには推定4万人いたとされる人口を、1881年には約6千人にまで減らしてしまうほどだった。また1797年、1838年には、イギリスとローマのカトリック宣教師団が相次いで入島し、神殿のマラエを破壊、土着の宗教を禁止し、扇情的で非道徳的だという理由でタヒチアンダンスをも禁止し、島民から自分たちの伝統的な文化を次々と奪っていく。その後、フランス・タヒチ戦争を経て1880年にはタヒチ国王ポマレ5世が主権譲渡を宣言し、正式にフランスの植民地となってからは近代的法整備が進み、例えば、それまではお腹が空けばそこらの果実を自由に取って食べられたのが「窃盗」にあたるとされ、処罰の対象となった。こうして、豊かな自然に抱かれ、自然の恵みを皆で共有し合う、大らかで素朴で無垢な、真の意味で文明に毒されていない文化は、ヨーロッパ文明とその植民地主義によって破壊され、そして自らが破壊し蹂躙してきた物に対するヨーロッパ人の都合の良い、欺瞞的な憧憬と幻想の食い物にされたのである。ゴーギャンの描いた半裸または全裸のタヒチの女が身につけていた装飾品は、その多くがヨーロッパから輸入されたものであることが今は分かっている。

 もちろん、ゴーギャンがタヒチをそのようにした訳ではない。その責めをゴーギャンに負わせるのは酷である。批判の中心は、タヒチに対する彼の憧れと行動の根底に横たわるものである。窮屈なヨーロッパ社会に満足せず、文明に根本的な疑義を抱くゴーギャンは、書物などを通して伝え聞く夢物語のようなタヒチの原始的で野蛮な生活に自らの理想を見た。だがそれがどのような構図の上に成り立っていたのかを象徴的に物語るのが、タヒチに渡航する際その旅券を彼は、植民地を統治する宗主国フランスの国民の特権として3割引きで購入したことである。彼はその旅券でタヒチに渡り、その憧れの地がすでにヨーロッパの文明に毒され、未開の地に求めるヨーロッパ人の幻想と差別意識、優越感の上に成り立っている虚構の楽園と化していることに、非常な憤りを抱いていたらしい。しかしその彼もまた、白人特権として「供与」される形で、若い、幼いと言っていいほどの現地妻を、次々と手に入れているのである。それが誰の目にも許し難い大きな自己欺瞞でなくて一体何であろう?つまり、その他多くの白人男性のように、彼が抱くタヒチに対する憧れは、憧れといえば聞こえはいいが、同じ人間に対する基本的な人間としての敬意を欠いた、「未開」人に対する西洋人の根深い優越西洋人の意識に支えられたものであり、窮屈な西洋の文明社会に溶け込めない肥大した自我と、ペドフィリアぎりぎりの病的な欲望を満たす単なる捌け口であった。言い換えれば、憧れのタヒチの自然や文化やその女性の「無垢」は、大切にする対象ではなく、西洋文明がこれまで「周辺」に対して常にそうしてきたように、蹂躙する対象でしかなかった。それを象徴的に物語る文章をゴーギャンは書き残している。自伝的随想であり、タヒチ滞在記でもある「ノアノア」の原稿の余白に、彼は次のように書き残したという。「目が穏やかな女をたくさん見た。私は、彼女たちが一言も発することなく、抵抗することもなく、乱暴に犯されるのを望んだ。それは強姦することへ切望とも言えるだろう」また、友人にあてた手紙にも次のように書いている。「ただこの場に座り、煙草を吸って一杯のアブサンを飲むことは、私の毎日の至福である。私には15歳の妻がいて、彼女は私の食事を用意し、私が望めばいつでもベッドにその背中をつけて、私を迎え入れてくれる。その代償として私が彼女に与えるのは、僅か10フラン相当の衣服である。」

 妻と5人の子供を捨てたこと、犯罪的とも言えるほど性的に放縦だったこと、そして素朴で原始的な文化に対する憧れに隠された、西洋人としての欺瞞的な優越意識。ゴーギャンの芸術と人生の根底にそういったものがあったことを考えると、とても手離しで彼の残した絵画を賞賛することはできなくなるような気がする。しかし、これは非常に大きく、かつ微妙でやっかいな問題を孕んでいるように思える。
( [ 3 ] に続く予定。)

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