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「短歌同人ねこくるよNo.4」の感想(#文学フリマで買った本の感想 #6)

藍笹キミコさん、尾崎飛鳥さん、華栄さん、鴇巣さん、豊冨瑞歩さん、夜夜中さりとてさん、れもんぜすたさん、ワトゾウさんがメンバーである短歌同人「ねこくるよ」の4冊目の作品集。
メンバーそれぞれの連作やエッセイなどを収録。
個性的な連作は秀作ぞろいで読みごたえがあり、エッセイもボリュームがあって楽しい。
あと、猫の写真がいっぱいあって、癒される。

手のひらにあるもの強く握ったら犬のよだれのように垂れてく/藍笹キミコ

「短歌同人ねこくるよNo.4」『ほがらか悪夢』

犬のよだれのねっとりとした絶妙に嫌な感じに実感がある。手にしたものを強く握りしめることで手のひらにあるものが垂れていってしまうのは、欲を出してしまったために大切なものを失ってしまうことのメタファーに感じられた。
『ほがらか悪夢』と題された一連の作品は、微妙に嫌な悪夢のようでありながら、現実での微妙に嫌な体験のようでもある。

早朝の隣の家のりんごの木いつかはそこに還るのだろう/尾崎飛鳥

「短歌同人ねこくるよNo.4」『まだそこにあるもの』

一連の作品は、自分がどこかにいなくなってしまっても残り続けているものを描いているよう。静謐な朝の空気に包まれて、じっと立っているりんごの木の姿が浮かぶ。「いつかはそこに還る」という感覚は、死後に自然に還るようなイメージ。隣家のりんごの木は、ただ立ち続け、「そこにある」ことを続けるのだろう。

アルマジロという名前をなにかにつけたらきっと格好いいと思うんだ/鴇巣

「短歌同人ねこくるよNo.4」『アルマジロ』

「アルマジロ」という言葉の響きの魅力。カタカナでスマートなイメージがありながら、「マ」が入っていることで妙なユニークさがある。一方、すでに特定の動物の名称として使われている「アルマジロ」という言葉を一旦奪ってなにかに名前としてつけようとしている主体の発想には実は残酷さも潜んでいる。
字数について、とても大胆なのも魅力的。「アルマジロ(5)/という名前を(7)/なにかにつけたら(8)/きっと格好(7)/いいと思うんだ(9)」と読むと、1・2・4句目は定型。直線的に一気に読んだときに鮮やかさがある。

わがままに生きて百年経ったとき誰のことなら思い出せるかな/豊冨瑞歩

「短歌同人ねこくるよNo.4」『なんでもいい』

恵まれた環境でわがままに生きる人間が浮かんだ。傍から見れば幸せな人生であるが、周囲の人間からは嫌われ、孤独な人間でもある。わがまま放題をしているとき、周囲の人間を人間とも扱っていないため、いざ人間らしく思い出に浸ろうとしても、顔や名前が浮かばない。主体の思考実験的な歌になっているが、実際にいるわがままで孤独な老人に思いを馳せているようでもある。

幸せとあらかじめ付けられた名のニュータウンみたいな嘘っぽさ/れもんぜすた

「短歌同人ねこくるよNo.4」『無辜の白』

名は体を表すが、名が先にあると怪しくなる。ニュータウン自体、街の無いところに街を作る嘘っぽさをもともとはらんでいるが、特定の価値観をその街の名前で背負ってしまうとより嘘っぽさが増す。歌では、嘘っぽさの比喩として「幸せ」と名付けられたニュータウンが引かれており、何かの嘘っぽさの欺瞞を告発している。
連作のタイトルは、『無辜の白』。『無辜』は無実の者を意味し、『白』は潔白のイメージカラーである。重複した過剰に無実を訴える姿の嘘っぽさのイメージに重なった。

二周目のビュッフェの皿で本当のラブリーってやつを見せつけてやる/ワトゾウ

「短歌同人ねこくるよNo.4」『go my way.』

ビュッフェで料理を取るときの配置の仕方は悩ましい。美しい盛り付けやボリュームのある取り方を考えたことはあったが、「ラブリー」ということは考えたことがなかった。「ラブリー」という言葉の独特な強度。ラブリーを見せつけようとするのが、誰に対してなのか、そしてなぜ見せつけたいのか、全くわからないのに説得力がある。

自分より大きい犬を撫でることでしか消せない感情がある/華栄

「短歌同人ねこくるよNo.4」『2022年の上半期自選3首』

動物を愛でているとき、それは間接的に自分を愛でていることがある。犬を撫でて自分の感情を消しているのは、自分の傷をなでて、癒しているようでもある。
あと、公園や路上でゴールデンレトリバーやグレートスピニーズがいると、おおー、という気持ちになる。デカい犬はかっこいい。

一晩かけてコーラは泡を手放した、それはもうコーラが決めたこと/夜夜中さりとて

「短歌同人ねこくるよNo.4」『2022年の上半期自選3首』

コーラが擬人化され、コーラの炭酸が抜けてしまったことをコーラの意思によるものとされているのがユニーク。炭酸が抜けた、というそれだけのことなのに、壮大な物語のような語り口になっているのもおもしろい。

しかし、純粋な美しさとは何かを考えるとき、自らの美しさ(あるいは美しくなさ)に対して抱く感情は不純物であるとわたしは考えます。どれほど美しい人であっても、完全に純粋な美しいそのものにはなれないと思うのです。

「短歌同人ねこくるよNo.4」れもんぜすたエッセイ『ボーカルドールはゴーストの夢を見るか?』

エッセイはどれも読みごたえがあったが、特にれもんぜすたさんのエッセイが印象的だった。
純粋な美しさを考えるときに、人間の魂が邪魔になるという発想は、グロテスクであるが本質的。ある特定の価値観への徹底した従属を誓うとき、人間は人間らしさを失ってゆく。

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