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「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」の感想(#文学フリマで買った本の感想 #6)

自由律俳句ユニットひだりききクラブ(出雲にっき、すずめ園)による句集。
これまでにnoteで発表していた交換日記での自由律俳句に加え、新作の自由律俳句・エッセイを収録。

以前、ひだりききクラブの2人が講師を務めた自由律俳句のワークショップに参加したことがある。
そのとき2人が定型俳句と自由律俳句の違いについて、定型俳句は瞬間を切り取る写真であり、自由律俳句はその瞬間の前後数秒も切り取るライブフォトのようなものだと説明していた。
その言葉どおり、ひだりききクラブの自由律俳句には、直接は書かれていない前後が見えるものが多い。
かつ、それは、ときに人生まで想像させられるほどの手触りがある。

唐揚げ色の犬見て/出雲にっき

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」

柴犬やコーギーなど茶色の犬の毛は、唐揚げの色に似ている。しかし、犬と唐揚げが結び付けられるとき、私たちの心は少しざわめく。食べられる鶏と食べられない犬。しかも、「見て」とあることから、これはそのことを誰かに伝えている場面で、伝えている主体の少し禁忌に触れるような感性にしびれる。
そして、この句の特筆すべきは、その短さ。俳句の定型17音に対して、11音である。しかし、様々な想像が掻き立てられるのに必要十分である。

雨降った時しか会えない川/すずめ園

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」

豪雨で増水した川が浮かんだ。「会えない」とわざわざ書いているのは、「会いたい」の裏返しなのだろう。一方、増水した川は危険で、氾濫すれば住民の命や生活が脅かされる。そのようなものに魅力を感じてしまっているという感覚は危険であるが、危険なものは魅力的なのだ。

身体があってわたしは眩しい/出雲にっき

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」

眩しさを感じるのは、当然視覚を感じられる目を含む身体があるからである。眩しさという感覚により、当たり前になっている身体の存在に気付いているよう。もしくは、私自身の身体が眩しいということとも読める。いずれにしても、身体を通じた感覚は、当たり前なようで当たり前ではない。

固い蓋開けられる孤独と暮らす/すずめ園

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」

独りで生きていくには、あらゆる場面を独りの力で乗り越えなければならない。固くて開けられない蓋も、家族や友人、パートナーなどと暮らしていれば、自分より力のある誰かに頼ることもできるが、独りではままならない。一方、覚悟を決めれば、意外と独りでやっていける。びくともしない固い蓋だって、ネットにあふれる裏ワザを駆使すれば意外と簡単に開けられる。「孤独と暮らす」と言い切る人は、強い。

好きなだけ食べるから見てて/出雲にっき

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」『翌る日くるくる』

あの中でまた新しい氷が生まれる/すずめ園

「ひだりききクラブの自由律俳句交換日記・傑作選 vol.3」『箱の中』

巻末に新作の自由律俳句の連作とエッセイが添えられている。
出雲さんのエッセイは、自身の両耳で形の違う耳たぶについて。
すずめさんのエッセイは、昔は読むことが苦手だった小説について。
いずれも年齢を重ねていくことで、変わっていくものと変わらないものと丁寧にすくい取っているような文章で、その感性が興味深かった。

2023年9月17日現在、ひだりききクラブの自由律俳句交換日記は、少し休止中だ。
働くこと、生活すること、生きることは、とにもかくにも大変だ。
ましてや働きながら文筆活動をすることはより大変であり、ゆえに「今の」出雲にっきさん、「今の」すずめ園さんの自由律俳句や文章もきっとおもしろい。
2人の作品や文章をこれからも楽しみにしていたい。

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