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【アーカイブス#7】環球巡回演奏家ブラザヴィル *2009年10月

 ぼくがブラザヴィル(Brazzaville)を知ったのは、彼らのデビュー・アルバム『Brazzaville(環球巡廻演奏2002年)』(通称『2002』)が発表された頃だったから、今からもう10年も前、1998年か99年のことだったように記憶する。
 ブラザヴィルの中心人物のデヴィッド・ブラウンは、というか、ほとんどの曲を書いて歌って、プロデュースしているのは彼だから、ブラザヴィルそのものと言えるのだが、その頃ベック(Beck)のバンドのサックス奏者として活躍していて、ベックは毎年のように来日公演を行っていた。
 もちろんベックの来日公演にはデヴィッドもいつも同行していて、当時日本でベックのアルバムはビクター傘下のMCAビクターから発売されていたので、それで関連会社のビクター・エンタテインメントが、デヴィッドがブラザヴィルという自分のプロジェクトをやっているのを知って、日本盤を出す話を彼に持ちかけたのではないだろうか(もしかするとデヴィッドの方からアプローチしたのかもしれない)。

 ブラザヴィルの1998年のデビュー・アルバムは、結局は日本盤としては発売されず、ビクター・エンタテインメントの系列会社がディストリビューションだけ行ったように記憶する。その時、ぼくはビクターの担当の女性からブロモーションを受け、それで初めてブラザヴィルを知ることになった。
 アルバムを聴いてぼくはとても気に入り、来日中のデヴィッドにインタビューする話も持ち上がったが、それはスケジュールがとれなくて結局は実現しなかった。しかしブラザヴィルが大好きになったぼくは、担当の女性に「とてもよかったです」と感想を述べ、いろんな人に素敵なバンドがあるよと話したり、ブラザヴィルの紹介記事もどこかに書いたりした。

 デビュー・アルバムこそ輸入盤での登場だったが、2000年のブラザヴィルのセカンド・アルバム『ソムナムブリスタ(Somnambulista)』は、その年の9月にビクター・エンタテインメントから日本盤が発売され、続く2002年のサード・アルバム『ルージュ・オン・ポックマークト・チークス(Rouge On Pockmarked Cheeks)も、同じくビクターから日本盤がリリースされた。
 ブラザヴィルのそれらのアルバムに耳を傾け、ますますファンとなったぼくは、その後もブラザヴィルの新しいアルバム、2006年の『East L.A. Breeze』や2008年の『21st Century Girl』を手に入れて、耳を傾け続けていた。
 ところが2004年の四枚目のアルバム『Hastings Street』だけは、ぼくが得意とするAmazon関係では、どこの国のサイトを見てもいつも手に入れることができず、聞きそびれたままだった。ブラザヴィルの公式サイトのショップでなら手に入ることがわかっていたが、値段はユーロ建てで、発送もヨーロッパからと送料がうんと高くつきそうなので、つい二の足を踏んでしまっていた(何だ、その程度の願望だったのか。何としてでもほしくはなかったのか)。

 しかし聞きそびれていたブラザヴィルの『Hastings Street』をやっぱりどうしても聞きたくなり、遂に一大決心をして(そんな大袈裟な)、10月の初めにブラザヴィルの公式サイトのショップから、そのアルバムを購入することにした。そしてカートに入れて購入申し込みをしたのだが、翌日「住所の表記が日本語だから、アルファベットで教えてほしい」とeメールが送られて来た。その差出人は、何とデヴィッド・ブラウン本人だった。びっくり。彼がサイトの管理をして、物販も自分で担当していたのだ。
 そこで早速返信メールを送ると、またまたデヴィッド本人からメールが来て、そこには「ぼくらは会ったことはないけど、あなたの名前は知っているよ。何年も前に日本のビクターの女性たちが、ブラザヴィルの最初のアルバムのことを書いてくれている人がいるって教えてくれたんだ。それってあなたのことでしょう? 評論家だけど、歌も歌ってギターも弾く人だって聞いていたよ」と書かれていた。びっくり、びっくり、びっくり。デヴィッドがぼくのことを覚えていてくれただなんて。
 しかも彼のメールはまだ続いていて、「myspaceであなたの歌を聞いて、とても気に入った」とも書いてくれ(嬉しい)、「すぐに『Hastings Street』を送ります。ぼくの最新ソロ・アルバム『Teenage Summer Days』も一緒に付けてね」という言葉で締めくくられていた(嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい)。

 デヴィッド・アーサー・ブラウンは、1967年ロサンジェルス生まれで、家出してロサンジェルスの街をうろついていた15歳の頃から詩を書いたり、日記をつけたりし始め、18歳でサンフランシスコに移り、地元のパンク・ロックやゲイのレストランで皿洗いをしてお金を貯め、サキソフォンを手に入れた。
 サキソフォンの練習を積み重ね、その一方でインドや南米、ヨーロッパやアジアを貧乏旅行しているうち、気がつくとデヴィッドは、ベックやスージー・スー、ベン・リーやジュードのバックで演奏をするようになっていた。
 1997年、ベックでワールド・ツアーをしている時に、ブラザヴィルの構想が浮かび上がり、バルセロナで小さなギターを買い求めて、曲作りなどを始めるうち、それがいつしかブラザヴィルの1998年のデビュー・アルバムに結実していった。

 デヴィッドはロサンジェルスのコリアン・タウンで育っていて、ソロ・アルバム『Teenage Summer Days』に収められている同名曲では、「親父はトラック野郎で、一日12時間貨物を運びっぱなしだった」と歌われている。また『ルージュ・オン・ポックマークト・チークス』の村尾泰郎さんの解説には、「ロサンゼルスのなかでも、ラテン系、アジア系の人々が多く住む地域で生まれ、小さい頃から異国の文化、言葉、食べ物に囲まれて育ったというDB。詩人の祖母からその豊かな感性を受け継いだ彼は、19歳でドラッグ漬けの生活にケリをつけ、頻繁に旅に出るようになっていったという」と、書かれている。現在デヴィッドは、奥さんと二人の小さな子供たちと一緒にバルセロナに住んでいる。

『ソムナムブリスタ』の日本盤の小杉俊介さんによる解説の中には、ブラザヴィルの構想についてのデヴィッドの言葉が紹介されている。長くなるが、それを引用させてもらうことにしよう。
「2002年1月1日にミュージシャンをのせた貨物船が、ニューヨークから東へ向けて出航。この“The Brazzaville 2002 World Tour”の参加者には、有名バンド、詩人、画家、小説家、哲学者、実験音楽家から前衛舞踏家まで様々なメンバーが含まれていた。この船は、各地の港でパフォーマンスを行いながら世界一周航海をしていくのだが、時を経るにつれてそのパフォーマンスは変化していく。この船は、住居部分だけでなくリハーサル・スタジオも備えており、アーティスト達は洋上でも創作活動を行うことが出来るのだ。船には、ドキュメンタリー・フィルムの撮影クルーものっている。船体に有名企業のロゴが刻まれていたりはしない。ノエル・ゴールデンと彼のバンドは特別ゲストとして歓待される。このツアーの目的は、死ぬ前に何かおもしろいことをすること、世界の文化とエンターテインメントの権威として、増え続ける大企業の供給するものに代わるものを人々に提供するために、愚かな大使のようにのろのろと、常識はずれに、国から国へ渡り歩くこと」
 原文を読んでいないから、よくわからないところもあるが、これはまさにブラザヴィルの哲学にして、1998年のデビュー・アルバム以来、デヴィッドがブラザヴィルの活動でやり続けていることだと思う。ぼくは国家や企業、すなわち権力者が押し進める悪しきグローバリゼーションに対峙する、それぞれの国や文化を良さや違いを大切にして連帯していく、「民衆の側のグローバリゼーション」なのだと理解している。

「船で世界を旅して回る」というそのコンセプトどおり、ブラザヴィルの音楽には、旅や放浪のイメージが濃厚に漂っている。タイトルや歌詞には、世界各地の街の名前が登場し、それに合わせてその音楽もその地域のものが巧みに取り入れられている。しかもそれらはアカデミックで正統的というよりも、ちょっとインチキくさかったり、まがいものぽかったりするところがあって(これは褒め言葉)、それがとてもユニークで独創的で面白いのだ。

 ブラザヴィルのタイトルや歌詞に登場している地名をざっと挙げていってみると、上海、バンコック、ヒンドゥスタン、スーダン、リスボン、広州、台北、バンドン、ナポリ、ブルネイ、ケープタウン、釜山、ダブリン、ルソン、リマ、ダカール、キプロス、マルタ、パレストリーナ、リオデジャネイロ、ニューヨーク、シアトル、ワシントンD.C.、バルセロナ、ジェノバ、パリ、ロンドン、ハリウッド、ロサンジェルス、サンフランシスコ、香港、ヴァンクーヴァー、イリノイ、モスクワ、ペテルブルグ、ラゴス、アムステルダム、ボスポラス、バルト海、カマリロ、アナトリア、タタールスタンなどなど、とにかく世界中いたるところに旅している。
 バンド名のブラザヴィルも、コンゴの首都の名前で、『ソムナムブリスタ』の小杉俊介さんの解説には、その名前を選んだことについてのデヴィッドの次のような発言が紹介されている。
「BRAZZAVILLEはコンゴの首都の名前で、どこなのか分からないその名前に惹かれたんだよ。アフリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、どこに属しているか分からない。しかも、BRAZZAVILLEは、数年間の内戦、それに生活環境がひどいという理由で、国連から最悪の都市として指定されているんだ。神秘的で、現代社会から離れていて、経済よりもアートが大事にされてる気がして、バンドにぴったりの名前だと思ったんだ」

 もちろんブラザヴィルの歌の中では、日本も登場している。「4 P.M. Osaka」という歌があって、そこでは歌詞の中にたこ焼きが出てくるし、別の歌では「ヤマンバ」なんていう、今は死語になってしまった言葉も出て来て、デヴィッドの日本通ぶりに気づかされる。そういえば「Trona」という曲では、「さくら、さくら」のメロディがオルゴールのようなもので奏でられている。とにかく彼は日本のことに関しては、相当詳しいようだ。

 そんなわけで、ぼくはブラザヴィルの、恐らくは日本で最も熱心なファンの一人だと思うのだが、大好きなのはブラザヴィルだけでなく、デヴィッドが『Hastings Street』と一緒に送ってくれた、今年2009年に発表された彼のソロ・アルバム『Teenage Summer Days』も、ほんとうに素晴らしく、好きで好きでたまらない一枚だ(ブラザヴィル=デヴィッドと捉えれば当然のことなのだが)。
 世界を旅するブラザヴィルの音楽性はそのままに、ソロ・アルバムではよりパーソナルな、それこそ自伝的と言えるデヴィッドの歌がたっぷりと楽しめる。前述したように父親のことが歌われた歌があったり、お金がなくて愛用の古いギターを売るしかないと歌われる「Foolin’ Myself」(初めて聞いた時、「あっ、これはぼくの歌だ」と思った)、メキシコから出稼ぎに来ているイサベルという女性のことが歌われた「Palm Springs」、はたまたイラクのファッルージャの戦いに赴いた兵士の歌「Fallujah」など、人間デヴィッドの姿がブラザヴィル以上にリアルに浮かび上がる傑作アルバムとなっている。

 ブラザヴィルはロシアでとても人気があって、ロシア国内をよくツアーし、ウラジオストックやハバロフスクなど極東ロシアの方にも足を運んでいる。そしてデヴィッドはぼくにくれたメールの中で、「それらの街に来ると、日本海を越えて、日本に飛んで行きたい気持ちでいっぱいになる」と、何とか日本でライブができないものかと、その思いを伝えている。また新しいソロ・アルバムも、ぜひとも日本でリリースされることを願っている。

 来日公演や日本盤のリリースなど、ぼくにはそんなことをする能力はないが、あちこちに働きかけたり、いろいろと動き回ったりして、ぼくの大好きなブラザヴィルやアーサー・デヴィッド・ブラウンの音楽を、この日本でももっともっとたくさんの人たちに楽しんでもらえるよう、精一杯努力することはできる。面白そうだなと思った人は、ぜひともブラザヴィルやデヴィッド・ブラウンの音楽に耳を傾けてみてください。

中川五郎
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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