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選ばなかったおにぎりの分だけ愛が増えてもまあいっか

お腹がすいて死にそう、後部座席に座っていた後輩がそう言った。素直で、欲に忠実で、とてもかわいいなと思った。

発見が多い。私は何で構成されているのだろうとそこに意識を集中させてみると、他人とは別のもので構成されているのだとはっきりわかる。

私は、人生において、お腹がすいて死にそうと言った記憶がない。私は、人生において、今すぐ会いたいと言った記憶が一切ない。私は、人生において、異性の部屋を「やっほー」と訪れたことがない。

そうやって自分の過去に「ない」ものを並べても、これからできるようになるわけではない。ただ、証明されるだけ。私がそういう人間だと、私が納得できるだけ。

私は他人にはなれないし、他人は私になれない。私のスタンスは「やる気がない」「覇気がない」ときっと反感を買うだろう。でも仕方ない。「意識高い系」「ガチ勢」と嫌味を言われて居心地が悪かった過去の十年よりも、今の世の中を漂う生き方の方が私は生きやすい。残念ながら、もう、本気を出して熱くなって泣き喚いたり、人の目を憚らず自分の気持ちを叫んだりする気力が、ない。若いのにそんなこというなんて、と言われても、仕方ない。

羨ましいなと思う。「死にそうなほど」お腹がすいたと実感できるのが、そしてそれを口に出すことができるのが、空間に放たれたその言葉が可愛らしい色で私たちの耳に届くのが、羨ましいなと思う。

愛され慣れている人は上手に人を頼る。誰も不快にしない甘え方ができる。なんと表現するのが良いか難しいけれど、私はそういう人の「生きる手際の良さ」のような、「説明のつく生き方」のような、真っ向からあかるい質が好きだ。自分にはないから好きだ。毎日、毎分、羨ましい。

羨ましいなと思う。胸が張り裂けそうなほど、声を張り上げて喉がつぶれるほど、つい涙がこぼれ落ちてしまうほど伝えたい言葉があることが、羨ましいなと思う。

強い気持ちがある人は、それに突き動かされるようにして前に進んでいくことができる。その強い気持ちに心を揺さぶられる人があらわれて、いざというときにちゃんと味方になってくれる。私は強い気持ちがある人の表明力と信念が好きだ。自分のどこを探しても声を枯らすほど叫びたい魂が見つからない。逃げることばかり考えているし、逃げ方もださい。私はドッジボールをするみたいに逃げる。相手に背中を見せない。相手の球を受ける姿勢で逃げる。そんなの、いちばん狡い。受け入れますよ、みたいな顔をしてじわじわ逃げるなんて、狡いにも程がある。

誰かのやさしさとただしさの隣で生きている。誰かの叫びと涙の隣で生きている。私の人生は、どっちつかずでいつも他人の人生みたいだ。それなのに、他人の人生みたいなのに、めちゃくちゃに楽しくて面白くて愉快で泣いちゃうほど愛に溢れてしまう。



おにぎり、ツナマヨと昆布どっちがいいかな?

2秒で昼食を決めてしまう私は、真剣に悩むあなたがどうしようもなく愛おしい。おにぎりなんてどっちでもいいって思っている私は、人生なんてどっちでも良い気がしているよ。ぜんぶどうでも良くって、なんだか無性に会いたくなった人がいた。



ゆっくりしていってね