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山本晶大「蒲原散策(5日目)」

今日は風が強く吹いている。どうやら春一番らしい。

午前中は旧五十嵐歯科医院で豊永さんと共に、NPO法人旧五十嵐邸を考える会および蒲原宿まちなみの会の片瀬さんと吉田さんからお話を伺った。

旧五十嵐歯科医院は文字通り歯医者だった建物で、外観は洋風建築だが中に入った一階部分は畳敷きの生活空間などがある和風建築になっており、玄関にある受付横の階段を上がった二階が大きな窓とリノリウムの床が張られた洋風造りの明るい治療室となっている。また、この建物は隣接していた建物を取り込むかたちで徐々に増築されながら今の大きさになったため、もともとは別々だった3つの建物が繋がってできている点もユニークだ。歯科医院の廃業後は20年ほど住居として使用され、その後空家となっていたが、文化財的価値の高さが認められて蒲原町が土地を購入し、建物を所有者から寄贈してもらって公有化された。現在は旧五十嵐邸を考える会が管理を行っており、建物の公開やイベント・展示などを行える場として活用されている。私たちが伺ったときには三月の桃の節句ということで、蒲原の家から出てきた様々な時代の雛人形の展示が行われていた。

5日目五十嵐外観

5日目五十嵐治療室

蒲原宿まちなみの会では古い建物の保存活動や、子供達に昔のくらしを体験してもらうための催しなどを行っている。古い町ではよくある話だが、外から訪れた人にとっては昔の街並みや古民家が残っていることが風情や魅力に感じられても、地元住民にはただ古臭いだけにしか感じられず、新しいものに建て替えられて風情ある街並みがつまらない住宅地に変わってしまうことが多い。蒲原でも建て替えられてしまったり取り壊されて空き地となってしまった町家も多いが、蒲原の街並みの魅力を再認識してもらおうと、まちなみの会が蒲原の住民の人々を他の宿場町や古い街並みが残っている場所へ視察に連れて行くという取り組みを行った結果、「他の古い町より蒲原の街並みの方がいいんじゃないか」という人も増え始め、まちなみを保存していくことに対する理解も徐々に広まっていったそうだ。それでも家を建て替えたり取り壊したりする人がいなくなるわけではなく、家の所有者に対して建物の保存を強制することはできないため、ゆっくり時間をかけてでも理解を広めていくつもりで活動されているとのこと。

また、片瀬さんと吉田さんから蒲原の少し前までの暮らしや町家がどう変化して行ったかについてもお話しをお聞きしたが、その中で通り庭に関する内容がとても興味深かった。通り庭というのは町家の中を通る土間のことで、細長い町家は通りに面してお店などを開く「見世の間」、その次に「中の間」、そして中庭に面した私生活の空間である「仏間」と続き、それらの部屋の横に表通りから中庭までつながる土間が通っているのが一般的な町家の作りだ。通り庭の先にある中庭も隣の家や裏道などと繋がっているので、近所の子供が「ただいまー」と言いながら土間や中庭を通って帰って行ったり遊んだり、隣の奥さんがやってきて世間話をしたりと、蒲原ではほんの一昔前まで家の中の通り庭を近所の人達が勝手に通り抜けていくのが当たり前の風景だったという。

だが、建て替えたりリフォームされたりする町家が増えていくとともに、その風景も次第に消えて行ってしまった。近所の人々が自由に家の中を通り抜けていくということは、それだけプライベートがないということでもあり、いいことばかりではない。実際、片瀬さんや吉田さんも、近所の子供達が挨拶をしながら通り過ぎていくのは可愛くて微笑ましいが、お父さんが通りすがりの人を勝手に家にあげて話し込み、その接待を女性がしないといけないなど、嫌な思いをすることももちろんあったそうだ。勝手に通り抜けられるのが嫌だと感じている人も多かったのか、リフォームを行って通り庭に床を張って廊下を作り、玄関から先へはよその人が入れないようにしてしまう家が増えた。また、車社会になっていったことで、家を建て替える際に中庭を潰して家を奥の方にズラし、通りに面しているところに駐車場を作る家も増えて、隣の家や裏道とつながっていた中庭も分断されていき、通り庭を抜けてお互いの家を行き来することもできなくなっていった。片瀬さんたちと豊永さんが町で行われていた中学生の演劇について話していた際、最近は自分から積極的に発言したり関わっていこうとしたりする子があまりいないということを言われていたが、もしかしたら通り庭などの濃密な近所付き合いの文化が消えていって、プライベートを確保することが当たり前になっていったことも子供達の変化と関わっているのかもしれない。


旧五十嵐邸でお話を伺った後、すぐ近くにある志田邸に向かった。志田邸は昨日まで泊まっていたゲストハウス燕の宿の表にある建物でずっと気になっていたのだが、土日祝日しか公開されていないため、公開される週末を楽しみにしていた。いつもはシルバー人材の方が対応されているそうなのだが、普段は東京に住まわれている所有者の志田さんが今日はたまたま居られて、直接お話をお聞きすることができた。志田さんは国鉄や東海旅客鉄道など、JR関連の仕事を歴任されており、現在は東海道の歴史・文化を普及する活動に邁進されている。広重が江戸から京都までの道のりを描いた東海道五十三次が広まったことで、東海道は五十三次だと教科書や辞書にまで誤った情報が載ってしまっているが、本来の東海道は江戸から大阪までの五十七次なのだということを熱く語られている。東海道57次に関する冊子や本も色々発行されているので、私も東海道についてもっと勉強しようと一冊買わせていただいた。

志田邸はもともと醤油を作って販売していたほか、油や米も取り扱っていたお店だとのこと。中の通り庭(土間)は醤油や米などの商品を奥の蔵から運んでくる必要もあったため、他の町家より広く作られている。ちなみに、志田さんの話によると、蒲原の町家はほぼすべて東側に土間が作られており、土間から部屋に上がるときに京都の朝廷に向かってお尻を向けないようにするためにそう設計されているとのこと。

志田邸の通りにに面した見世の間には電灯がつけられていない。客の対応をする見世の間は昼間しか使わず、昼間は明るくて電灯が必要ないので、電気が通り始めた頃も見世の間には電灯をつけなかったそうだ。邸内には東海道に関する資料や志田邸で使用されていた昔の道具、取引の帳簿なども展示されている。志田さんのご好意で近くの旧銀行跡の建物に保管されている資料も見せていただいた。

5日目志田邸土間


志田邸を出たあと、一昨日訪れた岩淵の稲葉家住宅と小休本陣常盤家住宅の内部を見に行く。稲葉家住宅は典型的な田の字作りの農家で、農家の古民家の作りについて説明するときの資料として最適なので写真を撮りまくる。

5日目稲葉家内側

常盤家住宅の方は立派ながらもシンプルな作り。縁側の一部が土間になっているのが珍しくて面白い。

5日目常盤家土間縁


夜は木下さん夫婦と蒲原滞在中のことや今後のこと、日本の教育についてなど色々とお話ししながら、奥さん手作りの夕飯をいただく。滞在中はどうしても外食が多くなり、食事のバランスが崩れがちなので、季節の野菜が使われた美味しい手料理がとてもありがたい。

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