思い出せ、群青
「どうしよう、今日は何も書くことがないな」と困り果てる視界の端に、“本棚”と呼ぶにはあまりにも少なすぎる小説たちが佇んでいた。『イミテーションと極彩色のグレー』には無彩色のグレーの埃がかかっている。そこから1冊またいだところに『三軒茶屋星座館』のシリーズ冬とシリーズ夏。
最近全然読んでないなあ、と思いながら文庫本のシリーズ冬を手に取った。何となくパラパラめくってみれば第三章・山羊座の202ページに無意味の栞が挟んである。
もう今日はこの本について書いちゃおう。
本当にただそう思っただけでわりと適当に書いた文章が、まさか51スキも集めるなんて想定外。極端に言うと「あらすじは重視していない」とか、“物語”をつくる作家に対して若干失礼なことも書いていたので尚のこと。
それから、わたしのこの文章をきっかけに河野裕や柴崎竜人の小説を読んでみた人がいるんだろうかと気になった。だとしたら何かちょっと悔しいというか、羨ましいというか。わたしは数年前からずっと彼らの続編を読まずじまいのままである。
途切れた綺麗な言葉の世界が、あの後どう進んでいくのか気になった。とはいえ高校生の頃に図書室で1度読んだだけの河野裕『いなくなれ、群青』なんか正直少しも覚えていない。
思い出そうと書名を検索してみれば、試し読みができるサイトにありついた。プロローグのみの短い提供ではあったが、河野裕の語彙に触れるには充分である。
読んでみると、冒頭わずか2段落で早くもそれに浸り込む。
どこにもいけないものがある。
さびついたブランコ、もういない犬の首輪、引き出しの奥の表彰状、臆病者の恋心、懐かしい夜空。( 新潮文庫 p.7 )
はあ~これだ、これが河野裕、彼も“普通”を書くことができる人だった。「普通に思いつける普通の言葉」だけで美しく表現される“普通”のこと。
初っ端から立ち止まり感嘆を零しつつ読み進めれば、頭はたびたび心地良くなる眩暈を起こした。
終わった愛の残骸に絡まっているよりも、さっさと捨ててくれた方がマシかもしれない( 新潮文庫 p.9 )
そろそろ冬になるころの夜が明けたすぐ後、吐く息が初めて白くなった朝( 新潮文庫 p.16 )
まだプロローグなのにこんなに綺麗で良いんだろうか。もしくはプロローグだからこそ先が読みたくなるよう綺麗にしてあるのか。
どちらにせよ、もう近いうちに『いなくなれ、群青』を再読しようと決めてしまう他なくなった。シリーズ続編『その白さえ嘘だとしても』『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』『凶器は汚れた黒の叫び』『夜空の呪いに色はない』『きみの世界に、青が鳴る』も全部読みたい。書名だけでこんなにも綺麗。
あと河野裕の行動描写の仕方も好きだ。
プロローグを読んだ限りだと、彼の書く物語には数行に渡る長いカギカッコが出てこない。1行を話したら一旦ストローに口をつけ、それから続きの2行を語る。1文を聞いたら主人公の頭の中で一旦言葉が処理されて、それから続きの2文を聞く。
この書き方がとても生身の人間らしくて、人物たちは読み手のわたしのまぶたの裏で確かに動き、色彩のついた命を帯びてくれるのだ。
人間は長々と語る間に全く動かないなんてことはないし、感情に応じて微笑みや俯きなどの些細な仕草が必ずどこかに表れる。相手の言葉を耳にしながら、頭の中で常に何かを考える。
ドラマの台本なんかでは行間や役者の力量にしか記載されない、人物たちの細かな動きと些細な思考。
河野裕はそれらの描写を零さずに書く人だと思った。わたしはそれがどうしようもなく好きだった。
ちなみに彼は書くときは基本プロットを練らず、影響を受けた作家の1人に西尾維新を挙げている。それを知ってああなるほどね、と納得した。
わたしも構成を組み立ててから文章を書くことはしないし、中学時代は西尾維新の『戯言』シリーズがとても好きだった。そりゃ当然響くものを感じるわけだ。
ということで改めて、河野裕ちゃんと読みます。
『いなくなれ、群青』というエモいタイトルの意味を再び思い出したい。
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