昭和時代の中学受験〜遠い森の村、からの〜合格発表当日〜
2月2日の早朝、私は父と、片道1時間以上かかる神奈川県内の学校に向かっていた。
前日の2月1日に、第一志望の都内女子校の試験があり、その日はいわゆるすべり止め受験。午後には本命の発表が待っていた。
1日の夜、算数の問題でケアレスミスしたかも、と思いはじめた。水槽の体積を求める問題で、下から○㎝を上から○㎝と勘違いして計算したような気がしてきたのだ。基本的な、点を取らせてもらえる問題だっただけに、ショックが大きい。
「どうしよう、落ちたかも、ダメかも😭」
家族がとりなす言葉もまったく耳に入らない。
4年生の二学期から、友達と遊びたいのも我慢して、やってきたのに。同じクラスの女子で、中学受験したのは私だけ。色んなものと戦ったけど、何より孤独なことが辛かった。寂しかった。
翌朝は泣き疲れもあってどんよりモード。
すべり止めはレベル的に超安全圏の学校を選んでいたものの、電車に揺られながら、マイナス思考の海に何度も溺れかかった。
それにしても、遠い。なかなか着かない。
今の受験生とっては、通学時間というのも志望校選びの重要なファクターとなっているが、当時はあまりそういう発想はなかったように思う。
試験日程もシンプルで、すべて一発勝負。
同じ学校に再トライできるチャンスはなかった。
電車を2回乗り換えて、やっと到着。
前日は極度の緊張状態で震えながら本番に臨んだが、やはり経験は宝。
ペーパーテスト、面接ともに、ほぼ通常モードで乗り切ることができた。
試験終了後、ささっと昼食をすませ、また電車に乗って都内にトンボ返り。ひと駅ごとに、心拍数が高まる。胃もキューキューいって、さっき食べたものがまったく消化されない。
最寄駅から更にバスに揺られ、やっと学校に到着。
正門を入って右手、合格発表の掲示板の前に、母の姿があった。
母。
典型的な昭和の教育ママであった、この母の指令の下、私は塾通いをして、家庭教師もつけられて、受験をした。そこに私の意思はひとかけらもなかった。受けつけてもらえなかった。反抗は決して許されなかった。
ハイジに出てくるロッテンマイヤーのような横顔で、じっと掲示板を見つめている。
睨んでいるようにも、微笑んでいるようにも見える。
一体、どっちなの?!!
私は心の中で、大声で叫んだ。
(つづく)
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