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【小説:Breath_1】

はじまりのとき


 講堂には医師や看護師たち数百人が座してその時を待っていた。埃っぽくややかび臭い空気のせいか、緊張のせいかあちらこちらで咳払いが聴こえる。堪えきれず込み上げてきた咳をなんとか抑えようとした挙句むせている者までいる。ふと視界の片隅に入ってきた重鎮たちを見やると、その埃っぽさは歴史と伝統の証であると言わんばかりの表情を高々と掲げ、脂臭さが足先から頭頂部まで抜けるように匂ってきそうだ。その姿を見るとふと口角が上がってしまう。

 汚い物を見てしまったかのように視線を下に落としたその時、薄暗かった講堂に一筋の光が目に射し込んできた。後ろに注目が集まると同時に勢いよく扉が開き、院長の淵堂とその取り巻きが入ってくる。一部は淵堂の姿を確認すると背筋を強張らせて直立している。当然、現院長として登壇予定なのだから、舞台裏から来ればいいのだ。わざわざ注目を集めて登場するところが淵堂らしい。最後の最後まで人間は変わらないものだ。しかしながらこのパフォーマンスが淵堂の最大の武器であり、我が那古野大学附属病院の名を全国に知らしめることになったのは間違いない。

 知名度での貢献以外何の取り柄もないこの狸の老害獣のショーもあと数分と思えばかわいいものだ。各所で立ち止まっては意味ありげに頷いたり、反対に下からうやうやしくメモを受け取ったり耳打ちされては腕を組み立ち止まってを繰り返している。
余程、御御足が重いと見える。数え切れない良識ある医師を踏み付けてきたその腐りかけの足をもう数歩、踏み出したらお迎えに上がろうじゃありませんか。

 舞台に近づくにつれ、淵堂の完成された作り笑顔の一端が崩れ始めた。淵堂の視界に、静かに微笑する冬馬を捉えたからだ。ニュース番組で日本一スマートな笑みを持つ医師と称されたその唇は細かく痙攣をし、額から伝う汗は使い回された業務用の揚げ油のようだった。

「さぁ。せんせ、手をおとりになって下さい。壇上までご一緒させて頂きます。」

 手を取られると淵堂の手は静電気で弾かれたかのごとくだったが、すぐに平静を取り戻そうと繕った。しかし、じっとりと湿ったその湿度は隠しきれず、しっかりと冷えた冬馬の手と触れるとその心境が際立つようだった。

 舞台前に設置された階段は、過去には淵堂の花道であった。であるからこそ、表から入ってしまったが、その選択が間違いであったことに気づいたのは一段目を登ろうと踏み出した時だった。

 ずとっ…と醜く響く足音の真横で、サラブレッドの馬蹄が乗ったかのような爽快な足音を壇上のマイクはしっかりと拾って会場にいる者たちへと届けた。



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