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【短編小説】ネコとキーコの青い空(第三話)

キンモクセイの香りの下で

 次の日も雨だった。白い水しぶきがガレージの屋根から滝のように落ちていく。コンクリートをたたく雨音が、ネコの心をいっそう憂鬱にさせていた。

(キーコは今頃どうなっているのだろう。まったく哀れなものだ。まあ、なんにしても別におれには関係ない。どうでもいいことだからな)

 ネコは横になり、大きな体を固く丸めると、小さく息を吐いて目をつむった。

 それから雨は数日続き、ようやくある朝、眩しい日差しが久しぶりにネコの住む町に降り注いだ。目を覚ましたネコは、洗い流された新鮮な空気に思いっきり体を伸ばした。
 青空の下、見回りを済ませ、ガレージに向かうネコの足取りは重かった。山根さんの家は、こんな気持ちのいい朝には、必ず家中の窓を開け放つだろう。長雨の間閉められていた水道の上のあの出窓も、今朝は開けられているはずだった。

「まあ、あいつがどうなっていようと、おれには関係がないわけだし、とにかくおれはのどが渇いているのだ。水道に水を飲みに行く、ただそれだけだ」

 自分にそう言い聞かせながら、ネコはガレージの前を通り過ぎて、庭に忍び込んだ。アジサイの木の根元にもぐりこみ、そっと出窓をうかがうと、カーテンが風にそよいでいる。案の定、出窓は開いていた。

「ああ」

 一気に肩の力が抜けて、ネコはおもわず大きくため息をついた。
キーコはそこにいた。雲ひとつない空に、ビー玉の目をキラキラさせて、この前と同じ笑顔で庭を眺めていたのだった。
ネコはいっぺんで気持ちが軽くなった。すっきりしたおかげで、気持ちよく決断できる。
もうこれっきり、キーコと関わりを持つのはやめよう。
そのはずだった。たった今そう決心したはずのネコだった。
けれど、今、ネコは頭を巡らせてじっとあることを考えていた。それは自分でも予想しなかったことだった。

(何とかあいつを連れ出さなくては)

 ぐずぐずしていたら、カケルが帰る今日の午後にでも、キーコは水につけられてしまうかもしれない。
 なぜそんな気持ちになったのかわからなかった。とにかく時間はあまりなさそうだ。そんなことは後で考えればいいと、ネコは出窓に近づいた。

「ああ! 来てくれたんだね。おはよう!」

 キーコはネコを見つけて声を弾ませた。ネコはまぶしそうにキーコを見上げた。

「久しぶりだな。ああ、元気そうだ」

 ネコにそんなことを言われたのは初めてだ。キーコは驚いて、それからうれしそうにうなずいた。

「もちろん元気だよ! なんだかキミいつもと違うね」

「いや、なに、あまりいい天気だから、おまえをどこかに連れて行ってやろうか…なんて、ちょっと考えたりしているのだが」

「うわあ、本当かい? それはすごくうれしいよ!」

 キーコは大喜びだ。

「ねえ、雨の間キミは何をしていたの? ぼくにはね、すっごくいいことがあったんだ。たぶんキミもびっくりすると思うよ。ねえ、そばに来てごらん。早く早く!」

「うーむ」

 手も足もないキーコをどうやって出窓から連れ出すかを先に考えておきたいネコだったが、びっくりする、などと言われては、気にならないわけがない。いつものように藤の木をスルスル登り、窓辺に飛び移った。

「見て!」

 キーコは鼻の穴をひろげ、得意そうに胸を張ってみせた。ネコは驚いて、危なく出窓から後ろ足を落としそうになった。

「なんと! おまえ、手足がついてるじゃないか!」

「いいだろう。カケルが作ってくれたんだよ。新しい粘土を買ってもらってね。すごいだろう。ぼくの手と足だぞ! これならキミと、どこにでも行けるだろう?」

 キーコは手足をクネクネさせて無邪気にはしゃいでいる。丸い胴につけられた細長い腕と太く短い足。ネコはあっけにとられ、途端に最悪の気分になった。

(まったくもってばかばかしい。おれはこの何日間、何のためにあんなに憂鬱な時間を過ごしていたのだろう。今だってどうだ。こいつを助ける? 他のやつのことはどうでもいい、なんて言いながら、なんてざまだ。結局あいつに振り回されているだけじゃないか)

 ネコは自分がほとほと情けなくなり、もうキーコの顔を見るのも嫌になった。

「とりあえず、おめでとう。まあ人間達と、うまくやっていくんだな」

 ネコはパッと窓から飛び下りた。今度こそ本当に、二度とこの気ままな人形とは関わりを断とうと決心した。

「待って! どうして怒ってるの?」

「怒っちゃいない。思い出しただけだ。おまえとは何の関係もなかったってことをな」

 口をまるくぽかんと開けて戸惑うキーコに背を向けて、ネコが歩き出したその時だ。

「待って!」と声がしたすぐ後で、ドサッと何かが落ちる音がした。振り向くと、窓辺にキーコの姿がない。ネコはあわてて窓の下に走った。
キーコは仰向けで、水道の横の植込みの中でひっくり返っていた。幸いどこも取れていない。葉っぱがクッションになってくれたのだろう。
キーコはクスクス笑い、ネコを見上げて言った。

「窓から降りる手間がはぶけたよ。さあどこに行くの!」 

「おまえはなんてのんきなやつだ!」

 雨あがり。空が高く、風が木立を揺らしている。木の葉を赤や黄色に染めながら、秋はネコの住む町を、足早に通り過ぎようとしていた。

 
「さて、どうするかな」

 縁を切る心づもりは変わらない。かといって、ここに置いていくのも気が引ける。ネコは大声で鳴いてみた。猫の鳴き声を聞けば、人間が気がついてやってくるかもしれない。けれど家の中はひっそりして、何の気配もなかった。

「ねえ、どこかに連れて行ってくれるんだろう?」

 ネコが振り返ると、キーコは立ち上がっていた。

「おまえ、歩けるのか?」

「当たり前だよ。何のための足だと思うの? ほら…うわ!」

 キーコは顔からバッタリ植込みに倒れこんだ。ネコはあきれて言った。

「バカなやつだ。両足をいっぺんに出してどうするのだ。片方づつ出してみろ」

「なんだ、そういうものなのか」

 キーコは太い足をすり合わせて、ゆっくり歩き出した。片足を前に出すと自然に反対側のうでが前に出てくる。

「ふむ。なかなかうまいじゃないか。まるで人間のようだ」

「あたりまえだよ。ぼくはなんたって無敵のソルジャーなんだからね!」 

 ネコはフンと鼻で笑い、ため息をついた。こうなれば、とにかくどこかに連れて行くしかなさそうだ。それにしても、いったいどこに行こう。助け出すことしか考えていなかったネコは、頭をひねりながら、庭を楽しそうに歩き回るキーコを眺めた。

「おお、そうだ!」

 ネコはキーコの目に映る秋の空に、ある場所を思いついた。
そこは住宅街の裏手に広がる低い丘で、空がおもいきり大きく広がるところだ。めったに人の入らない場所ではあるし、そこなら自分もキーコも思う存分遊べるだろうと思ったのだ。少し離れてはいるのだが、30分もあれば着くだろう。

「うれしいなあ。早く出発しよう!」

「やれやれ、とんだことになったなあ」とネコは後ろ脚で頭をかいてみせたが、気分はまんざらでもなかった。
ところが歩き出してすぐに、ネコは自分が大変な計算違いをしていたことに気がついた。
キーコときたら、ただでさえ早く歩けないうえに、目の前にあるすべてのものが珍しくて、あっちに寄ったり向こうに行ったりで、なかなか前に進もうとしないのだ。おまけに人間に見つからないよう隠れながら、庭から庭へ垣根をくぐり、塀の隙間をすり抜けながらの行軍だ。ネコはクタクタに疲れ、気がつくと、もう日が暮れ始めてしまっていた。

「仕方がない、今日はここらへんで、どこかねぐらを探すとしよう」

 このあたりはネコの縄張りではなかったが、住宅街の真ん中なので飼い猫が多く、皆穏やかな性格なのをネコは知っていた。明け方の集会にさえ顔を出せば、どうということもない安全な場所だ。

「ここにするか」

 ネコは庭の広い家を選んで、そっと垣根からもぐりこんだ。ひげをピンと張って緊張したネコの様子に、キーコもいちおう神妙な顔をした。裏庭の大きな木の後ろに空のコンテナがあった。ネコはそこを今晩の寝床にしようと決めた。

「疲れただろう。初めて歩いたんだからな」

「とんでもない! まだ10倍は歩けるさ」

 キーコは元気いっぱいに答えたので、ネコは思わず笑ってしまった。

(成り行きとはいえ、こんなことになるとはなあ。人形がしゃべって笑って歩き回るなど、これほどおかしな話はないが、いったいキーコとは、なにものなのだろう)

 そう思い、ネコはしみじみとキーコを見つめるのだった。 

 コンテナに入ると、キーコは短い手足を「うーん!」と投げ出してひっくりがえった。ネコは、キーコの白い足が土で茶色く汚れているのに気がついて、ザラザラの舌でなめてやった。粉っぽい妙な味がしたが、足はすぐにきれいになった。
 キーコはびっくりしたように目を丸くした。それから両手を広げ「ありがとう」と言うと、突然ネコの首にぎゅっと抱きついた。

「ぼくね、手ができて、もしまたキミがそばにきてくれたら、本当は一番最初にこれがしたかったんだ!」

「ほう、それはよかったなあ」

 そっけなく答えたが、思いがけないその言葉にネコはとてもうれしくなった。キーコの体は冷たいけれど、心の中にホンワリと温かい水が流れこんでくるようないい心地がした。

「キミののどから音が聞こえる」

 キーコが首を傾けた。

「そうだな。うむ。なんだろう」

 なぜかはわからない。けれど、ゴロゴロと丸い小石を転がすような、自分ののどから響く不思議な音は、ネコの心の奥に甘く広がり、この上なく優しい気持ちにさせるのだった。

 暗くなり、辺りに虫の声が響き渡る頃、フワフワの毛皮に寄り添ってキーコは眠りについた。ネコはそっとコンテナを抜け出して、いつもの横丁に向った。半日以上かけて、ふたりでようやく辿り着いた場所だったが、ほろよい横丁はネコの足ならほんの少しで行ける距離なのだ。
 残してきたキーコが気になったので、手っ取り早く食事を済ませたネコは、戻る途中、山根さんの家に寄ることにした。ねぐらを一日留守にするのだ。変わりはないか一応のぞいておこうと思ったのだ。

 裏口からもぐりこんだときだ。庭のほうから泣き声がする。カケルの声だ。ガレージの横からそっとうかがうと、薄暗い庭に、懐中電灯の明かりが揺れている。

「もういいかげんにしたほうがいいよ。明日明るくなったら探せばいいでしょう。暗いんだからもう見つからないよ」

 カケルの母が窓から顔を出した。

(キーコを探しているんだな)

 ネコはそっと山根さんの家を離れた。夜の町を走りながら、ネコは考えた。

(キーコの言っていた通りなのかもしれない。カケルはもしかして、案外信用できるやつなのかもしれない)

 コンテナに戻ると、キーコはすやすや眠り続けていた。安心したネコは、そっと隣に寄りそって目を閉じた。のどがまたゴロゴロと鳴り始める。ネコは、前にキーコに毛皮を押し当ててやった時の、あの不思議な気分を感じていた。遠い昔、いつかどこかで触れていたような暖かいぬくもり。
 見上げると、空は星でいっぱいだった。明日もいい天気になることは間違いなかった。

 
「いかんな。寝過ごしてしまったようだ」

 目を開けると辺りはすっかり明るくなっていた。明け方の集会はもうとっくに終わっている頃だ。ネコはコンテナから出てググッと伸びをした。

「ねえ、これなんだろう? この香り」

 キーコがコンテナから顔を出して、鼻をヒクヒクさせている。冬が近く、地面の上にはひんやり冷たい空気が流れていた。その中に、フワリと漂う甘い香りがある。
(おお、またこの季節がやってきたか)
 庭を見回すと、勝手口の横に小さな花をいっぱいつけた木があった。
「キンモクセイの花だ。あそこにある」
 秋のある朝、まるで申し合わせたようにいっせいに咲くオレンジ色の花。これから何日かは、この花の甘い香りに町中が包まれるのだ。

「ああ、いい匂いだ」

 ネコは鼻先を高く上げ、香りを深く吸い込んだ。その時だった。

「おや? どうしておれはこの花の名前を知っているのだろう。マイクは花なんかに興味はなかっただろうに」  

 ネコの胸が突然サワサワ鳴り始めた。

「待てよ、この匂い…たしかどこかで…」

「どうしたの? 具合でも悪いのかい?」

 キーコが心配そうにネコの顔をのぞいた。

「悪いが黙っていてくれ。もうすぐなんだ」

 ネコは懸命に、とぎれた昔の記憶をたどっていた。ずっとずっと前、ネコはこの花の匂いをどこかでかいだことがあったのだった。もちろん花は毎年咲く。去年もおととしも、ネコはこの花の香りを楽しんだものだった。けれどそうではない。遠い遠い昔、よく晴れた秋の日だ。 風は穏やかに木の葉を揺らす。ネコはうっとりと外を見ている小さな自分を思い出した。柔らかな日差しの中、小さな庭に、キンモクセイの花が満開だった。

「おお、そうだ!」

 ネコはハッと顔を上げた。たった今、ネコは思い出したのだ。キンモクセイの甘い香りに包まれて丸くなるネコの体の下に、温かいぬくもりがあった。背中には、時折なでてくれる優しい手があった。見上げると、ネコを見つめるなつかしい顔があったのだ。

「ああ、なんてことだ。おれはすっかり忘れていた」

 ネコの心に、自分がまだ子どもだった頃のことが、鮮やかによみがえった。ネコは小さな家でおばあさんと一緒に暮らしていたのだ。

(そうだった。おばあさんはいつもおれをひざの上に抱いて、縁側から庭を眺めるのが好きだった。ひもで遊んでくれたり、夜寝るときは必ず一緒の布団に入れてくれた)

 人間を愛することも、愛されることもなく生きていく、自分はそういう運命なのだと、今までずっと思い込んできたネコだった。忘れていたのだ。おばあさんが亡くなるまでの短い間を、ネコはおばあさんといっしょに幸せに暮らしていたのだった。

(おれは確かに愛されていたのだ。そして…)

ネコは両足の爪にぐっと力を入れた。そうしないと涙がこぼれそうだった。

(おれもおばあさんが大好きだった…)

 風に漂うキンモクセイの香りがまた、ネコの鼻先をかすめていく。ネコは目をつむり、深く息を漏らした。

(おれはなぜ、こんな大切なことを今まで忘れていたのだろう。それになぜ今頃になって思い出したりしたのだろう)

 あれから長い月日がたっていた。おばあさんの家を出た凍えそうな冬の朝から、まだ子どもだったネコは、たったひとりになった。ゴミをあさり、人間に追い払われ、幸せな思い出を捨てなければ、幼いネコは厳しい日々を生き抜くことができなかった。やがて時がたち、大人になったネコには、マイクに人間との生活の楽しさを聞かされた時でさえ、もう思い出すことができなくなっていたのだった。それがなぜ今になって…。

 黙っていろと言われ、キーコは困った顔でネコを見ていた。気がついたネコは少し笑った。

「なあに、少し昔を思い出していただけだ」

 自分でも驚くほど、それは穏やかで優しい声だった。

 

流れ星

 しばらくして太陽が東の山に顔を出すと、町はいっせいに輝き始めた。屋根瓦は光の粒を跳ね返し、木立は風に揺れて、歩道や家の壁にサワサワと影を落とす。通りを抜ける車の音が増えはじめ、人間の靴音や話し声が垣根の向こうから聞こえる頃になると、ネコたちものんびりはしていられなくなった。

「そろそろ出かけるか。せめて昼までには着きたいものだな。何せ目的地はもう目の前なのだからな」

 家の庭から庭に、人間の目を避けて進んでいく。今日のキーコはまじめにネコの後について歩いた。二本足で歩くのにも慣れ、時々走ったりもできるようになったのだ。そのせいか、1時間も歩いたころには住宅街を抜け、丘の上に広がるなだらかな原っぱにたどり着くことができた。

「うわあ、広いなあ! ずっとむこうまで枯れ草のじゅうたんだ。」

 薄い雲を走らせて空は晴れ渡り、風がさっそうと野原を渡っていく。そのむこうにはすっかり色づいた林の木々が、太陽の光を浴びて赤や黄色に輝いていた。

 キーコはごきげんで、細い手で木の葉をすくい上げながら走り回る。ネコはノタリと横になった。枯れ葉がカリカリいい音を立てて体の下でつぶれていく。ネコは目の前にハラリと降ってきた美しい落ち葉に目をやった。ハッとするほど深く濃い赤だ。

「なるほど、赤といっても、こんなに美しい赤もあるのだな」

 そう思って眺めると、あたりは実にさまざまな色あいで満ち溢れていることに、ネコは初めて気がついた。

「ほう。これは楽しいものだ」

キーコの言っていた通り、同じ色などどこにもない。
 キーコはというと、ついさっきまで枯れ葉の下の小さな虫や、どんぐりを見つけては大騒ぎをしていたのだが、どこまで行ってしまったのか姿が見えない。ネコはやれやれと立ち上がった。すると、長い枯れ枝のようなものを引きずってキーコが歩いてくるのが見えた。

「ねえ、これは何だろう。あっちの土手のあたりに落ちていたんだ」

「あんなところまで行っていたのか。あそこは畑じゃないか。人間に見つかったらどうするのだ」

 ネコは目をこらして、丘のはじっこにある畑のあたりを注意深くうかがった。畑には誰もいないようだった。
 キーコは、持ってきた枯れ枝の先の大きな塊をネコに向けた。

「ほら見て! 白と黒のしましまですごくきれいだ!」

「ほう、これはヒマワリだな」

 すっかり枯れてはいたが、ネコの頭の二倍はありそうな立派なヒマワリの枯れ花だった。
ネコは今年の夏、あの畑で咲いていた黄色いひまわりの花を思い出していた。そういえば太陽に向って元気に咲くひまわりは、まるでキーコのようだなあ、とネコは思った。そして来年の夏にはきっと見せてやろうと、そっと心に決めたのだった。

「ちょっと待っていろ!」

 ネコは爪で花の中心を引っかいた。種がポロポロと崩れて落ちる。キーコは大喜びだ。

「すごいよ! これは最高の武器になる!」

「こんなものが、か?」

「さっそく回収だ! キミ、悪いが背中のケースを開けてくれ。届かないんだ」

 キーコは勇敢なソルジャーらしく、ネコに鋭い視線を向けた。

「なんとも偉そうなやつだ」

 ネコは笑いながらペロンとしたケースのふたを開け、口の先で器用にはさむと、いくつか中に入れてやった。

「頼むよ! できるだけたくさん詰め込んでほしいんだ」

「それはいいが、そんなにどうするんだ」

「カケルのお土産にするんだよ!」

 キーコはうれしそうだった。

「おまえは本当にカケルが好きなのだな」

「そりゃあそうさ! 大好きだよ。ぼくを作ってくれたんだもの」

 キンモクセイの微かな香りが、住宅街を抜けてここにも漂っていた。
 甘い香りにネコは胸が苦しくなった。忘れていたおばあさんへの愛しい思いが、一度に溢れ出したのだ。
 ネコは忙しく体をなめ始めた。気を落ち着かせるためのいつもの方法だ。けれど、膨れ上がるこの気持ちを、もう自分だけではどうしたらいいのかわからなくなっていた。ネコはおもわず口にしてしまったのだ。 

「おれにも…そういう人間はいないこともなかった」

「キミも人間と暮らしたことがあるの?」

 キーコは驚いて、ビー玉の目をめいっぱい見開いた。

「ああ。ずっと小さいころの話だ」

「へえー、そうだったんだ。それで、その人はどんな人だったの?」

 キーコはネコの隣に来て、枯れ葉の上にパリンと腰をおろした。

「そうだなあ。髪が銀色に光って、肌の白いおばあさんだった。草や花が好きで、おれにいろいろな花の名前を教えてくれたのだ。庭にはいつでもたくさんの花が咲いていたよ。そうだ、おれたちはそこでよくかくれんぼをして遊んだものだ」

 おばあさんと過ごした毎日が、まるでついこの間のように目の前に浮かびあがり、溢れる思いはもう止めることができなかった。ネコは夢中で話し続けた。キーコはネコの話を一生懸命聞いていた。

「優しい人だったんだね」

「ああ。とても優しくしてくれたよ」

 ネコはフウッと一息ついた。力が抜けて気持ちが楽になっていた。誰かに自分の気持ちを聞いてもらうなんてことは、考えたこともなかった。それがこんなにホッとすることだったということも、ネコは始めて知ったのだ。

「その人は今どうしているんだろう」

「もう今はいない。ある朝、おれの横で氷のように冷たくなっていた。どんなに頬をたたいてみても、もう目を開けてはくれなかったのだ。雪が降っていたなあ。寒い朝だった。それから急にいろんな人間がやってきて、おれはあっという間に追い出されてしまったというわけ…」

 ネコはキーコに目をやってドキリとした。キーコのガラスの瞳から大きな水滴がポタリと地面にこぼれ落ちたのだ。

「なんだ。おまえが泣くことはない」

「そりゃあそうだ! だけどその時キミがどんなに悲しかったかって、ちょっと考えちゃったんだ」

 キーコは濡れた目で照れくさそうに笑った。

「そうかあ。でも、なんだかぼくはうれしいなあ。キミにもそんな人がいたなんて!」

 次の涙をためたまま、キーコはビー玉をキラキラさせていた。ネコはキーコが前よりもずっと近くにいるような気がした。ネコは頬をすり寄せて、ぬれた目元を優しくなめてやった。

 太陽が西に傾いて、あたりが金色に染まる頃、ネコとキーコのいる原っぱにも、そろそろひんやりとした夕暮れの風が吹き始めていた。ネコはまだ温かさの残る枯れ草の上に寝そべって、丘の下に広がる町並みを眺めていた。ここからは商店街や、駅前の広場までもよく見渡せるのだ。遊び疲れたキーコも隣にやってきて、ネコにぴったり寄りそうと、同じように町を見下ろした。

「ねえ、怒らないで欲しいんだけど」

「なんだ?」

「あのね、キミは前に、おれは名前なんかいらないって言っていただろう? だれかに呼んでもらう必要がないってね。でも思うんだけど…」

「なんだ?」

「ぼくたち、少なくとも、あの時よりはずっと仲良しだと思うんだ」

「ああ、まあそうだな」

 ネコは答えに困っていた。キーコがなにを言い出すか見当がつかなかったのだ。するとキーコは眉毛をグンと上にあげ、弾けるように立ち上がった。

「ぼくね、キミにぴったりの名前考えてあげるよ!」

「なんだって?」

ネコも驚いて顔を上げた。

「おれの名前?」

「いいだろう? カッコいいのにするよ。キミも絶対気に入るよ」

「うむ…まあ…考えついたら一応聞いてやってもいいがな。認めるかどうかは別としてだが」

 そんなことを言ってはみたが、ネコの胸は高鳴った。自分に名前ができるなんて、考えたこともなかったのだ。

「ちょっと待て! まさかクロニャーじゃあないだろうな」

「やめてくれ! ぼくはそんなにセンスは悪くないぞ」 

「おまえの好きなカケルがつけた名前だ」

「いっけない! そうだった!」

 ネコとキーコは顔を見合わせて大笑いした。キーコはネコの背中に白い頬をうずめた。

「ねえ、ぼくたち、もしかして友達同士になったんじゃないかなあ」

「ふふん。まだまだだな」

 ネコはとぼけて返事をした。本当は、とっくに友達といってもいいくらい、キーコは十分に大切な存在になっていた。けれど、今までひとりでがんばってきたネコなのだ。素直にそれを認めるまで、もう少しだけ時間が必要だった。

「なんだあ、まだだめかあ」

 キーコはがっかりしたように小さな肩を落としたが、明るい笑顔は変わらなかった。
 やがてあたりが暗くなり、空が赤紫に変わる頃、丘の上にはいくつか星がきらめき始めた。 

「そろそろ帰るとするか」

 ネコがそう言ったとき、星がひとつこぼれた。

「おお、流れ星だ」

「うん! ぼくも見た。星がこぼれて消えたみたい」

「知っているか? 流れ星は、願い事をかなえてくれるのだ」

「本当かい?」

 キーコの顔が輝いた。

「ああ、ついこのあいだもおれは、山根さんの家の屋根の上で流れ星を見て…」

「わあ、キミも何かをお願いしたの?」

「うむ…」

 ネコの胸がまたサワサワと鳴り始めた。

(そうだ。おれはあの時マイクの言葉を思い出して、何か願ったような気がする。あの真っ白な星が落ちてくる前に…。いったい何を願ったのか…ああ、なんだったのだろう)

 ネコは夜空を眺め、しばらくの間思い出そうと躍起になったが、やがてあきらめて両腕を体の下に織り込んで座りなおした。
 気がつくと、丘の下に広がる町はすっかり夜を迎え、家の明かりや駅前のネオンでキラキラ輝いている。自分にぴったり寄り添ったキーコの重みを感じながら、ネコは、もしかしたら自分は今とても幸せなのかもしれないと、ようやく認めてもいい気分になった。
 夜風がカサカサと枯れ草を鳴らして飛んでいく。
 ネコはまだ知らなかった。別れはもうすぐ後ろまで迫っているということを。

 最終回につづく

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