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私を諦めること、受け入れること

2022年11月現在、私は「MtFパンセクシュアル」を自認しています。以下の文章はあくまで執筆当時のアイデンティティに基づいて書かれたものです。

(パンセクシュアル(全性愛)とは、相手の性のあり方に関係なく人を愛するセクシュアリティ。現在私は「好きになった人が好き」という性的指向を持ちます)

「私はMtFレズビアンです」

自分のアイデンティティをこう説明し始めてから、だいぶ年月が経つ。現に今も女性ホルモンの投与を継続し、ゆくゆくは性別適合手術を受け、戸籍上の性別も女性にしようと検討している。
(注:MtF→Male to Female)

しかし当の私といったら、フリフリの可愛い服を着ようとはしないし、声や仕草を女性らしいものにしようとしない。ましてや髪型に至っては坊主である。

バーテンダーとしてカウンターに立つ際、お兄さんと呼ばれることなんて日常茶飯事で、何ならA〜Bカップまで成長した胸も「お兄さんめっちゃ鍛えますねぇ!何か特別なことしてるんですか!」と胸筋に間違えられる。ちなみにもう3回は言われた。

この社会で突きつけられるのは「女性と見られたいなら、そう扱われたいのなら、もっと女性らしくしなさい」という暗黙の了解。「男も女も関係ない」という言葉も、裏を返せば「みっきーがどちらの性別だと思っていても我々には関係ない。我々が思う性別で扱わせてもらう」という意図であることが、大半であるように思う。

例:「さんと呼ばれたければもっと女性の所作や振る舞いを研究しなさい」「女性でお前みたいな眉をしている人なんか1人もいない」「IKKOさんみたいに割り切ってくれるなら化粧してもいい」「みっきーがオカマちゃんみたいならこっちとしても接しやすい」「どう考えたってお前が女なわけ無いだろ」「結局お前は男と女どっちなんだ」等

(これらは私の想像ではなく、実際に浴びせられた言葉たちです)

それでも私は、私を貫く。着たい服を着て、私が話しやすい声で喋って、髪型も時に坊主にする。社会が求める女性像になりたいから性別移行をするのではなく、あくまで「私」でいたいから。「男である私がどうしても受け入れられないから」「男としての肉体、記号を捨て去りたいから」私は今日も「女性」へと一歩近づく。

それは果たして、本当に女性になりたいの?

そんな言葉が時々私の頭をかすめる。私もその言葉にふと足を止め、思いに耽ることもある。「男としての私を捨てたい」このゴールが、果たして女性になることなのだろうか。もしかしたら私はMtFではなくMtX(X:男性にも女性にも当てはまらない)ではないだろうか。

私なりの見解を綴るなら、それでも私はMtFであると公言する。なぜなら、幼少期の私は間違いなく「女の子になりたい」「可愛い服を着たい」と思っていたし、今も心の奥底では、そう叫んでいると感じるからである。

現実はそう優しくはない。どんなに私が女の子になりたいと念じても、子どもの頃サンタさんに「明日目が覚めたら女の子になっていますように」と毎年お願いしても、男性として生を受けた以上、完璧な「女性」になることは生涯不可能である。もしひたすらに女性らしさを追求しようものなら、いつまで経っても周囲と比較しては満たされず、女になれない、届かない自分を嘆き、苦しむ。その姿は想像に難くない。

だからこそ私は、私であることを選択した。

私は、両脚の間に付いている外性器と近い将来に別れを告げ、戸籍上の性別から「男」を削除さえできれば、あとは何だっていい。私が思う私であれればそれでいい。

スカートを穿きたい日はスカートを穿くし、メイクをしたい日はこれでもかと化粧をする。イヤリングだってシャネルNo.5だって、日によっては付けたりする。けれどそれは「女性だから」するのではなく、あくまで「私」がしたいことだから、そうする。

一見すると、どこか達観したような、潔い生き様だろうか。しかしこれは諦めによって獲得した境地であり、あくまで心を平穏に保つための生存戦略にすぎないということ。子どものころは本当に女の子になりたかったし、ふとした機会に「女性らしい」服やメイクを勧められ、実際に身につけたりする時には「いや私には似合わないよ」と言いながらも、心の中では大喜びしている自分が、たしかに存在している。

いつまで経ってもビビディ・バビディ・ブティックの小さなプリンセスたちは、私の憧れであり、叶わなかった夢である。

だから今日も私は「MtF」と自称する。
たぶん、そういうこと。

【私を諦めること、受け入れること】

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