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今、僕が、現在地(ここ)にいる理由③

企業再生との出会い

「日本を元気にしたい」

そんな、青臭い想いをもって、走り始めた社会人。
早稲田大学を卒業後、ITバブルがはじけた2000年代初めに社会人になりました。公的金融機関に入社し、そこで3年間中小企業向けの融資業務にどっぷりつかるとともに、USCPA(米国公認会計士)の資格取得をし、その後コンサルティングファームへ転ずることになった。

間接金融という仕組みの中でできることの限界を感じ、より企業の経営に関わりたいという想いが背景にあった。

コンサルティングファームへ転じたころは、「日本が失われた20年」と呼ばれていたバブル経済の崩壊の後遺症を抱え続けた不良債権処理問題の真っただ中。まさに、NHKドラマの「ハゲタカ」の時代。

この時に、日本を代表するような大手小売事業者や老舗メーカーなどの再建に関わり、企業再生という分野と出会うきっかけとなった。

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コンサルタントの価値、そして限界

コンサルタントとして求められていたことは、「失われた企業の価値を取り戻す」、ための絵を描くこと。

クライアント企業が抱える問題の背景は、バブル崩壊による資産価値の低下、昭和の大量消費型経済からの転換への対応の遅れ、国内の空洞化への対応の遅れ、一族経営による組織の硬直化、など様々。

その問題の背景は様々であるものの、本質的な課題にたどり着き、それを解決するための計画を立てて、それを実行していかなければ、「失われた企業の価値を取り戻す」ことはできない。

PDCAサイクル*という考え方は、基本的な業務改善などの取り組みにおいて定着しているが、実際に多くの企業のPDCAサイクルは十分に回っていない。PDCA4つの段階のいずれにも課題を抱えているが、およそ多くの企業は初めのPlan(計画)段階において、すでにその内容が破綻している。もしくは、計画すら策定していない企業が中小企業では大半だと言っても過言ではない。

*PDCAサイクル:Plan(計画)⇒Do(実行)⇒Check(検証)⇒Action(改善)という改善のための4段階のサイクルを回していくことで、問題解決を図っていくための手法

だからこそ、コンサルタントが価値を発揮することができる。コンサルタントは、基本的なマネジメントのために必要な知識や手法などを身につけ、論理的な思考を持ち合わせていることが通常なので、中小企業の経営者よりも、客観的な立場から合理的に実現可能な事業計画を策定することができる。PDCAサイクルの”Plan(計画)”を作ることができるわけだ。

PDCAサイクル

一つ一つの企業の事業計画をできる限りのエネルギーを注ぎ作っていた。会社が考えきれなかった想いを形にしていく事業計画づくりはとてもわくわくの連続で、毎日深夜まで没頭しながら、コンサルタントとしての役割に充実感を覚えていた。

そんな中、少しずつ違和感を感じるようになってきた。

それは、コンサルタントとして如何に沢山の”Plan(計画)”をたてても、僕はそのたてた"Plan”が本当に実現できたかの結果を見る機会もあまりなかったし、そもそもそこに関わる役割を与えられることがほとんどなかった。

さらに、多くの企業は、PDCAサイクルの”Do(実行)"に課題を抱えていることが分かってきたからだ。一生懸命描いた計画は、後日未達で推移することを聞かされることも多く、中には実行すらされないようなケースも見られた。僕が描いた”Plan(計画)”の実現性について、懐疑的に思いながら仕事をすることが増えてきたように感じた。

「自分がたてた”Plan(計画)”を自分で”Do(実行)"したい」      そして、自分の力で「失われた企業の価値を取り戻す」ことに関わりたい。

そんな、想いは日に日に強くなっていく中で出会ったのが、投資ファンドという存在だった。


投資ファンドの役割、そして価値

投資ファンドという仕事について、一般的にはあまりなじみがないと思う。

私が投資ファンドのファンドマネージャーになった当時、ちょうどNHKドラマ「ハゲタカ」が放映されていた。家族や近しい友達には、半ば冗談ではありながらも「ハゲタカ」みたいな仕事していると話すと、極解して理解してくれました。

ワシ

投資ファンド、というのはとても広義であり、実際には僕が属していたのは、プライベート・エクイティ・ファンドというカテゴリーの投資ファンド。年金基金や保険会社等の機関投資家から資金を預かり、それを未公開株で運用して、その運用益を上げて手数料を得るというビジネスモデルである。

そして、僕が所属していた会社は、その中でも日本の主に地方の中小中堅企業の再生や事業承継をターゲットとしており、日本全国の地域金融機関(地銀や信金)と提携し、地域再生ファンドというものを多く組成し、その地域ごとの老舗企業や地場産業などの再生や事業承継投資に多く携わった。


ファンドマネージャーとしての当初は20代の若造でありながら、自分自身で投資先を開拓するためのネットワークを作り、ターゲット企業の経営者や株主、場合によっては債権者と呼ばれる銀行などのステークホルダーと厳しい交渉をし、ファンドの投資家へ説明し承認を得るための意思決定プロセスに主体的に関わる。

全てが新しい経験で、一つ一つがとても難易度が高く、高度な専門性が求められ、そして、失敗することが許されない緊張感の中での役割。とても刺激的な毎日を過ごしていた。

ファンドマネージャーとしての生活の中で、自分の思考力の甘さや、圧倒的な知識不足、発想力の乏しさ、行動力の欠如、人間力の無さ、など、本当に多くの悔しい想いや、挫折を沢山経験した。力の無さを補うために、誰よりも多く自分の役割に向き合うために、毎日5時に起床して出社した時期もあった。稼働前に勤務してくれているオフィスビルの清掃員さんと顔見知りにもなったりした。

限界まで自らを追い込み、それでも成果が出るかわからない。そんな環境の中で色々なものをすり減らしながら、それでも自分を大きく成長させてくれる貴重な時間を過ごしてきた。

ファンドマネージャーとして、丸11年。

全国各地を駆け回り、主に医療や福祉、観光産業、地場産業などの古くから需要はあって必要とされていながらも、財務的課題や組織的課題など構造的に課題を抱える企業の再生に奔走してきた。

・事業基盤はあり、利益は出ているものの、過去の過剰投資により債務超過(資産よりも負債が大きい状態のこと)に陥っている温泉旅館の再生
・事業の選択と集中をしたい電鉄会社のカーブアウト(事業の切り離し)の受け皿支援
・後継者のいない地方の中小病院の事業継承のための受け皿投資
・地方の老舗の地場伝統産業の事業者の再建支援  など

一つ一つに関わった価値を提供してきたと自負しているし、その時にできることをやり切ってきたと思う。

特に、一緒に案件を共にしてきた連携パートナーや、メインバンクのバンカー、投資先に関与してくれたコンサルタントやターンアラウンドマネジャーと呼ばれる再建時に関わる経営者の方々とは、戦友として今でも親しくお付き合いさせていただいている。


資本主義の中で感じた違和感

投資ファンドという、資本主義の中心で働きながら、全国各地47都道府県のうち45都道府県、そして、200以上の都市や地域を駆け回ってきました。そんな中で感じてきたこと。

日本の地方都市がどんどん「東京化」していく。

町並み

同じ様な町並み、同じようなお店、同じようなショッピングセンター。似たような観光地。利便性と効率性を追求してきた結果、便利な地方都市「リトル東京」の様な地域社会が作られていく。だんだん、地方出張時の車窓から外を眺めるために気持ちが重くなっていたことを感じていた。

地方では名門と呼ばれるような地域の顔でもある老舗企業に関わる機会が多くあった。確かに、企業体としては再生する可能性が高く、それによって雇用も事業も守られるのだが、企業再生の基本形は「事業の効率化と資本の充実化」。

結果として、大企業がスポンサーとなり、地域の顔であったはずの企業は、いつしか東京の大資本の傘下となることもあった。企業の再編は自然の摂理かもしれないが、その触媒になっているのは、自分たちに他ならない。

「自分が手掛ける企業再生の先に、日本の地域社会の未来はあるのだろうか?」

そんな鬱々とした思いを抱える様になり始めたのは、30歳を少し超えたころ。それでも、地域にはいろいろな事情があり経営状況が芳しくなくなってしまった企業や、後継者や組織の問題により事業継続が困難となってしまっている企業が沢山存在し、これらの相談が沢山持ち込まれた。

大切にしてきたことは、出来るだけ相談を受ける相手の悩みに向き合い、「想い」に対して丁寧に接し、それをできるだけ実現させていくこと。

相談を受けたオーナー経営者からは、投資ファンドとかコンサルタントとかは嫌いだけど、「お前のことは信じる」と言ってくれたこともあった。それでも、もっと「より良い選択肢を提供できたのではないか?」と悩むことが多かった。

「僕は本当に自分が描きたい未来のために、自分の人生の時間を使っているだろうか?」

そんな問いがいつも僕の頭の中でぐるぐると廻っていました。

(「今、僕が、現在地(ここ)にいる理由④」に続く)

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