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枯れるように、の枯れるの表現が苦手

先日の自分のnoteに、毎日私が愛猫ネオに輸液をすることで、ネオが更に辛い毎日を過ごすことになっているのでは?と悩んでいて、担当医に相談したところ、輸液をしてあげることで、辛く苦しい尿毒症から少しでも解放されて痛みを和らげているのだから、輸液をすることに対して悩まないで大丈夫ですよと仰ってくださり、輸液をすることを続けていくことに決めたのだけど・・・。

そのnoteがコレ。

3ヶ月ほど前からよく見るようになったある獣医さんのインスタがある。その先生の猛烈な信者ではないから、全てを受け入れるわけではないけれど(先生も押し付けがましくない)、妙に納得する話をされる。

その獣医さんの最近のインスタに、こう書かれてあった。

枯れるように旅立つためには体が脱水していく必要があって脱水していく時の症状がある。
脱水するためには終末期に食べなくなった時に点滴はしない。
ムリに食べさせない。
水をムリに飲ませたりしないと言う必要がある。

獣医師シワ男さんのインスタより

えー、そうなのー?と思った。

まず、枯れるように=苦しまないという意味だということを初めて知った。私は、枯れるという表現に良いイメージを受けていなくて、なんだか辛く悲しい意味に思えてしまい、あまり好きではない。

そして私は、ネオが眠るように旅立つことを願っている。それが最終目標という言い方が正しいかはわからないけれど、もがき苦しむような旅立ちはネオも私も辛すぎる。でも、そうなるには、脱水をさせなくてはいけないだなんて知らなかったのだ。

これでまた、毎日私が輸液をする意味がわからなくなってきた。

毎日輸液頑張ってる

とにかく今、ネオは生きている。その今がラクになるなら、輸液をしてあげたい。その気持ちは変わらない。チュールを口元に持っていけば舐めてくれる。それは食べたいからだと思っていてよいのだよね?浴室に連れて行ってシャワーの水を出せば飲んでくれる。それはネオが欲しているからだよね?無理に食べたり飲んでいるわけではないよね?

こんなふうに毎日思ったり考えたりすることが次々と出てくる。気持ちも行動も追いつかない。それでも一日一日がどんどん過ぎていってしまう。

今日のネオ

昨日のネオはちょっとやばいかもと思うことがあって、いつもと呼吸が違くて、お腹が大きく動いていたから心配になったけれど、夜寝る頃にはいつも通りになっていたからホッとした。

そして今日。いつもと同じでずっとキャットタワーでおネム。夕方はコタツの中へ。今もコタツでウトウトしている。チュールも一本食べて、サプリも飲めた。ただ、やっぱり日に日に元気はなくなっているかな。

明日はどんな一日になるだろうか。ネオ、見守るからね。穏やかでいてね。

一生懸命キャットタワーに登るネオ
キャットタワーの上でくつろぐネオ
明日が穏やかでありますように

おまけ


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