見出し画像

いい会社に入社する不幸、悪い会社に入社する幸せ

逆境こそが、成功者をつくる

 先進国の日本で、いま、貧富の差が拡大しているといいます。
 この週末に行われる衆議院議員選挙でも、コロナ禍で生活が苦しくなった人の支援、逆に、内部留保を増やしてきた大企業への批判と、与党・野党を問わず、貧富の差の拡大は、選挙の大きな争点になっているようです。

 たしかに、いま生活に苦しんでいる人を救うことは、福祉の点で重要ですし、「最低限の生活を保障する」ことは国の義務だと思います。ただ、行き過ぎた福祉は、国民を怠惰にする面もあるため、税金との兼ね合いでバランスをとる必要があるのでしょう。

 また、「親ガチャ」という言葉の流行もあるようですが、生まれや境遇は「宿命」であり、変えることはできません。やはり自分が変わることで、「運命」を変えていく勇気や努力が必要だと思います。

 経営者として成長したいという気持ちもあって、私は普段から空き時間を利用して、経営者の講演を録音したオーディオ教材を聞くのが習慣です。
 自分の努力がいかに足りないか。そして成功者は、いかに苦労して危機を乗り越えてきたか。これらの講演を聞くことで、自分の甘さに気づかされることが多いものです。

 成功者たちのなかには、中学を卒業後に丁稚奉公で苦労して独立した人、親の借金を背負いながらも事業で身を立てた人など、決して良い環境とはいえないところから、大きく飛躍する方がいます。
 というよりも、むしろ、先に厳しい試練がやって来て、目の前の試練を乗り越えるために、誰よりも努力して未来を切り開いた方ばかりです。

 自分のささやかな経験からも、これは事実だと思います。必ずしも最初から「いい会社」に入社しなくても、逆境をバネにして目の前の困難と向き合い、人生が好転することもあるのです。

「働き者」と呼ばれた男

 24歳のとき、印刷会社の工員として勤めていた私は、「このままではだめだ。自分を変えてみたい」と丸2年務めた会社を退職し、一念発起して印刷物のデザイナーへの転職を試みました。

 ところが、デザイナーという職種は思った以上に「狭き門」であり、履歴書を送っても送っても、面接すらしてもらえない状況……。そこで私は方向転換し、1年間、デザインを学んでみようと、専門学校の門を叩いたのでした。

 夕方に週3回、専門学校に通いながら課題をこなし、夜と週末の昼夜は渋谷の居酒屋でアルバイト。夜から早朝までのシフトのため、完全に「夜型」の生活になってしまいました。

 当時、MacによるDTPの波が日本に到来していて、印刷会社で「写真製版」という専門技術をかじった私は、運よく出力センターのMacオペレーターとして就職することができました。社員ではなく、時給1,000円のアルバイトです。
 これは昼間の仕事だったので、居酒屋のシフトは週末の金土日だけにしてもらいました。

 月~金曜日は、昼間は出力センターでMacオペレーターとして働き、仕事が終わると、週3回は専門学校へ。金曜日は専門学校の授業を受けた後、居酒屋で朝まで仕事。土・日曜日は、早番にしてもらって働きました。

 そんな話をすると、出力センターの社員たちから、

「中野さんって、ずいぶん働き者なんだね」

と冷やかされたものです。働き者などではなく、

「働かないと、これまでの生活を維持していけない」
「転職に苦労するかも知れないから、貯金もしとかないと」

そう考えて仕事に励んでいただけなんですけどね。

運命の出会いは、さらなる逆境のはじまり

 そんな生活を送り、専門学校の卒業が迫ってきた冬のこと。
 行きつけの店で、仲の良い店長に紹介してもらい、あるフリーランスのデザイナーと接点をもつことができたのです。この人は当時、フリーランスからの法人化を考えていて、後に、私が勤めるデザイン会社の社長になるのですが、この出会いが私の人生を大きく変えました。

 ただ、人生が好転したわけではないんです(笑)

 この方がデザイン会社の社長となり、社員は私一人。つまり、私はオープニングスタッフのような形で、一応は、デザイン会社に勤務することができたのでした。

 忘れもしない、1996年の4月。26歳のとき。
 月給は12万円からのスタートでした。

 最初の3年間くらいは、とにかく仕事を覚えようと働きました。社長から「いま、手いっぱいなのに、仕事受けられるか?」と心配されるほど。自分の給料を上げないと生活は苦しくなるばかりなので、ときには夜中とか翌朝まで働いたものです。

 そして、だんだん自分の指名で仕事をもらえるようになり、社員も一人、二人と増えてきた頃でした。社長が仕事を “さぼる” ようになったのは。

 まわりにいる同業の制作会社の方から「専務さん」と揶揄されていた私。実際、仕事上は、私と社員たちで、ほぼすべてを切り盛りしていて、大きな問題はなかったのですが、夕方になるとほぼ毎日、社長は「夜の街」に消えるように。遅くまで飲むため、翌朝も遅くから出勤……。
 当然、こんな状況が長くは続きませんでした。

取引先の倒産と社長の入院

 あるとき、私たちの会社に仕事を発注してくれていた、編集プロダクションからの入金が途絶えたんです。

 先方の社長と、うちの社長がやり取りするのですが、どうにもこうにも、らちがあきません。
 しかも、このときの心労が原因で、社長が長期入院してしまうことに。私は社長に代わり、編集プロダクションとの交渉やら、その上の元請けへの折衝などをしたのですが、結局、この会社は倒産してしまいました。

 結局、支払ってもらえず、泣き寝入りしたのは、600万円ほど。
 売上5,000万円ほどで、リースや銀行借入があり、営業利益も出ないような中小企業にとっては、とても大きな金額です。

 社長が入院していた間、社長の奥さんと相談し、ぼくの給与はゼロにして、社員の給与だけは止めないようにしてもらいました。8ヶ月間、給与がゼロでしたから、本当にきびしい時期を過ごしました(その後、給与は完済)。

 ところが、「捨てる神あれば、拾う神あり」といいます。

 なぜか、取れそうになかったコンペが受注できたり、社長がいない間は年末~年度末だったため仕事は途切れなかったりと、どうにか最大のピンチを乗り越えたのでした。

 この経験は、後の私の人生に大きな教訓をもたらしました。

1)下請けは、リスクが大きい。
2)収入源は分散すべきである。
3)余裕のある財務体質が必要。

そして、
4)社長は誰よりも仕事が好きであるべきだ。

 いま、私が社長を務める会社の経営方針も、まさしく、この教訓から成り立っています。

悪い会社で働くのは、本当に不幸なのか?

 この後、紆余曲折あって、私は会社を辞めて起業することになります。
 つまり、「いい会社」に就職できなかったことで、結果として「起業」の道が開けたというわけです。

 うちの会社でも、新卒の学生を対象とした会社説明会を行う機会があります。多くの新・社会人たちは、どうにかして「いい会社」に入社しようと躍起になるわけですが、人生は本当にわからないものです。

 だからこそ、会社選びにおいては、待遇や条件、現時点での将来性なんかで決めるのではなく、むしろ、自分の「直感」を信じて「やりたいこと」を基準に決めるほうが、後悔しないと思うのです。

 私の結論。

「いい会社」に入社すれば、幸せになるとは限らない。
「悪い会社」に入社しても、不幸になるとは限らない。
目の前の仕事に全力投球すれば、必ず道が開けるはず。

 なんか、講演みたいに締めくくっちゃいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?