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”これからの社会ではこんな力が必要だから、それを身に付けさせるための教育をしようなんて僕は全く考えていません。

おおたとしまさ著、『いま、ここで輝く。 超進学校を飛び出したカリスマ教師「イモニイ」と奇跡の教室』読了。(今年一冊目)

栄光学園教員(現在は非常勤)の井本陽久(はるひさ)さんの今とこれまでとこれからを描いたノンフィクション。

自分が仲良くしてる人たち、好きなひとたちが好きなひとであった井本さん(以下イモニイ)。その言葉たちは、とても共感することばでいっぱいだ。

”教えたことは身に付かない”

とか、

”絶対に無理だと思っていたのに…あれ?できちゃったっていう体験をさせる”

とか…

同じような思いで、僕は”教えない教育”を謳うらくだメソッドで学ぶ場をやっている。試行錯誤(たくさんの失敗を積み重ねること)こそが届けたい学びで、たくさん失敗を重ねれば重ねるほど、実は、生きている中で、何一つ失敗なんてなくて、自分が経験したすべてのことは財産になるのだから。

にもかかわらず、この本をずっと”積読”してたのには、AO義塾との一連のバトル(笑)などを通じて、著者、おおたとしまささんファンでもあるのに、なかなか手を付けないでいたのは、

”やっぱり”、どうしても、

「(東大とかいっぱい入る)超エリート進学校だからできることだよな。”

っていう思いがどうしてもぬぐえなかったからだ。

僕は、エリート教育は大事だと思ってる人だけど、”都会のエリート校で先進事例となっている教育”は、”自分の目の前の、地方で暮らすうちの生徒たち”とかにとっては、必ずしも、”今すぐ届けたいこと”ではないからだ。

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結論から言うと、イモニイのこれまでの取り組みは、やっぱり選ばれたエリートたちが揃う栄光学園だからできたことも多いと思う。

”数学の苦手な人にはきつい授業かもしれません”
”たしかに二極化はあったかも”
”できない人はどういう気持ちだったかと考えるとわかりません”
といった、シンパであるはずの栄光学園の教え子さんたちの率直な感想からもわかることだと思う。

それでも、児童養護施設での学習支援や、私塾「いもいも」で多様な子供たちを受け入れている姿、その場での学びは、やはりとても魅力的だ。そこは思考力が育つ、いわゆるアクティブラーニングの場であり、学びたい!というそれそれの探求心を深堀り出来る場なのだ。いわゆる”未来型の学びの場”と言えるだろう。

だがしかし、ご本人にとっては、冒頭のことば、

”これからの社会ではこんな力が必要だから、それを身に付けさせるための教育をしようなんて全く考えていません。”

これこそがすべてなんだろうなと思う。だからこそ、どんな学び場でもイモニイと共に過ごす生徒たちは輝くのだ。

アクティブラーニング、プロジェクトベーストラーニング(PBL)、そして探求の学び。いわゆる未来型の学びとされる学び方はしかし、おそらく教育に携わっている人からすると、特別にそこだけ抜き取って考えることじゃなく、ふだんの授業の中にビルトイン(ふつうにいれこまれている)されているものなはずだ。

”良い授業”とか”良い学び”になっているとき、その場では、自然にそういう学びになっているものである。

逆に、”アクティブラーニングやろう”とか、”探求の学びを進めよう”とか、それ自体がなにか特別な学びだと思っていると、あまり実りのある学びにはならないと思う。だって、アクティブラーニングとか、探求(心)とかって、学ぶ内容ではなくて、学び方…いや、学ぶ姿勢のことなのだから。…そもそも、アクティブラーニングするぞっ!て時だけ、アクティブなひととか、探求の時間だけ探求するひととか、困るだろ?

いつでも、どこでも学び続けるひと、学び続ける力こそ育てたいのだ。

では、どうすれば、学ぶ力がつくか?

イモ二イの”スタイル”は、”没頭する時間”である。

一問を解くために授業一コマを使い切るなど、答えを教えないで、とことん考えさせる。こういう授業できたらいいなーと思うし、視察が絶えないというのもうなづける。確かに幾何(図形や空間の理解)が思考力を育てるのに大事なのはわかるけど、数学が苦手な子たちにとっては代数から(計算)だなぁ…と思って、一日一枚のらくだプリント(計算プリント)での学びをうちの塾(学習塾ホライズン)ではやっている自分ではあるけれど、やっぱり、ひらめきとか、とことん考えるってことについては、こういう時間もできたらいいなぁ。と素直に思う。…でも、やっぱり、実は幾何は、覚えることを覚えてもらわないと、苦手な子たちにとってはちんぷんかんぷんなのだとか思うけど(笑)

では、なんで、イモニイが、そういう学びをどこでも届けられいるのかというと、やはり、授業準備の周到さに尽きると思う。

一時間の授業のために、10時間の準備…。毎回が研究授業前みたいだ(笑)。生徒全員の解いた問題をチェックして、そこからフィードバックして次の準備に活かす…。らくだプリントの学びも、自己採点して、間違えた問題をやり直すところがポイントだ。つまり、毎回、フィードバック(振り返り)するくせをつけていくのだ。だがしかし、毎回の授業準備で”教える側”が、それをやるというのは、簡単に言うけれど、そりゃ、どう考えても時間がかかる。(とても忙しい教員の皆さんにこれを求めるのはきつ過ぎるとも思う…)

自分の考えを上手く伝えようとプレゼンを準備して、そのストーリーに乗るように組み立てていく…だいたいどんなプレゼンでも常套手段なわけだし、僕もテスト対策とかで、手っ取り早く知識を手渡そうとするときやりがちだけど(笑)、それは、教える側(伝える側)の都合だけで、学ぶ人側のより良い学びという視点が抜けているのだ。

きれいなストーリーを手渡すのではなく、ひとり一人が、泥臭く試行錯誤した、没頭した考える時間をこそ柱にする。だからこそ、

”これをやったら、未来につながる学びになる”とか、あらかじめ大人が勝手に思い描く、”絶対に外れる未来予想図”を描くような学びはしない、できないのだ。…子供の頃、むっちゃ未来っ!って思ってたガンダムは押しボタン式だし、宇宙兄弟の最初のほうで使ってる携帯は折るタイプだっ(笑)(未来の設定なのに(笑)。)

いつでも、生徒が、いま、ここで、没頭する。輝くことだけを想う。

そしてそれができるのは、やはり、教師としてのプロフィッショナルなスキルだ。それともうひとつ、”有用性”(役に立つことに)にとらわれない勇気、逃げ出していいこと、世間の価値観じゃなくて自分の想いを持つことの大切さをあらためて思う。

僕も、月謝をいただいて子供たちの学びのサポートをしているわけで、どうにか役に立ったなぁと思いたいし、思ってもらいたい(笑)

でも、繰り返すが、良い学びを届けようと思ったら、ひとり一人が自ら学ぶことが大切で、もしも子供たちが、「おっ、こっちが伝えたいことをしっかり答えてくれたぞっ!」…って思う時って、子供たちは場合によっては、教える側に忖度して、自分の考えじゃないことを創りあげているユートピアに見えるディストピアで(笑)、ひとり一人には、空気を読むくせだけがついて、自分の頭には、まったく考える力は育っていないケースによく出会う。

だからこそ、教えたいことがあるからこそ、教えない教育。未来を生きる力を身に付けてほしいからこそ、今、ここを大切にする学びなのだ。

実は、同時期に読んでたのが、栗原康「死してなお踊れ 一遍上人伝」で、キーワードは「捨ててこそ。」

先行きが見えない今、だからこそ、みんながほしがりそうなものをつくってみて、むらがって、一気に勝負する。とにかくスピード勝負。もっとあたらしく、もっと有用なものを…そういう力を身に付けることを”自分磨き”とかいわれながら、もっともっとと…
僕らは”有用性の過剰”(役に立たなきゃいけないの強迫観念)のなかに生きているわけで、つらすぎて、でも、どこまでも逃げられない。

だからこそ、捨てろ!逃げろ!というのが一遍…というか、一遍が憑依したかのような著者の言葉なのだが、きっと、学びの有用性についても同じことが言えるんじゃないだろうか?
役に立ちたい。でも、役に立たなきゃに追い込まれてはいけない。自分の内側から沸き起こる学びたいを大切にする。

学ぶことは、知らないことを知ることは、そもそも楽しいことなのだ。
突然、一遍とか言うとなんだと思うかもだけど、イモニイの目標が、「子供に対するあらゆる煩悩から解放されたい」…つまり、解脱したいなので、なんだか不思議に重なった感じでした(笑)
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