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ちょいちょい書くかもしれない日記(桜)

所要で山を下りたら、街中の桜は満開だった。
地元ではさくら祭りも行われているそうで、なかなかの人出だ。
コロナ禍でますます人混みが苦手になってしまったのと、アレルギーでまぶたが腫れているのとで、そぞろ歩きは諦めて帰宅した。

拙宅は山奥にあるので、桜はまだ三分咲きといったところ。
私は山桜が好きなので、玄関には敷地内に勝手に生えていた山桜を移植してもらった。
まだ赤い葉と、白に近いあっさりした花が、いっせーのせで出てきてしまう、山桜のあの感じがたまらなく好きだ。
遠くから見たとき、全体がごく淡い雲か霞のようにふんわりしているのも好きだ。
今年も綺麗に咲いてくれて嬉しい。

桜は、色んな思い出と結びついている。
私が小学校に入学したとき、記念にと庭に植えられたソメイヨシノは、それから何度も引っ越しにつき合ってくれて、今の実家で寿命を迎えた。
植えた当時は、ソメイヨシノが存外短命だなんで、一般人は知らなかったのだ。
枯れたときは、お前ももう終わりだと言われたようで、とてもしんどかった。身体の一部を失った気さえした。
記念樹というのは、ときに罪なものだ。
父は桜がことのほか好きで、特にいわゆる一本桜を愛していた。
あちこちの一本桜をカメラを提げて撮影に遠征し、まだ咲いていなかっただの、もう散っていただのと、よくしょんぼり肩を落として帰宅した。
開花状況くらい調べてから行きなよ、と何度も助言したけれど、決して聞き入れなかった。
効率が悪すぎてその感情は共有できないが、父としては、桜との一期一会の忘れ得ぬ出会いを求めていたのかもしれない。
去年の春も、目当ての桜の見頃を逃し、「また来年や」と言っていた。
いつまでも「来年」があるわけではないので、やはり開花情報はチェックしたほうがよかったのではなかろうか。
中学高校時代を過ごした女子校の教室、その窓際の席で頬杖をつき、先生の話を聞き流しながら、窓の外を眺めていたあの日のうららかな日差しを覚えている。
涼やかな風が吹くたび、嘘みたいな質量で視界を横切っていく桜吹雪も、その中を行く担任の小柄な背中も。
桜が連れてきて、また持ち去っていく記憶は、もう失われたもののことばかりで、懐かしく、じんわりと寂しい。
景気づけに庭で桜餅でも食べようかと思ったら、うちの庭を根城にしている地域猫が、マッサージをねだってきた。

そんなサービスを要求するなら、うちの子になれ。早く。


こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。