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『人生という面白さ』


今日は仕事がお休みの日。

6時半に起き、コンビニでコーヒーを買ってから蒼穹に向かい、お庭や洋室にある多肉植物の観察をする。


そんな静かなひとときの中、
ソファーでコーヒーを飲みながら一人考えていました。

この社会だけしか知らなかったら、40代後半になった今も生きることが本当に辛かっただろうな、と。


今の私を知っている人からしたら笑ってしまう話だろうけど、実家にいる頃は環境がそうだったのか、私が真面目だったからなのかはわからないけど、何かとしっかり者の扱いを受けてきたし、本人もそう信じていたから(笑)

まさか自分がこんなにも何もわかってなくて、こんなにも役立たずだとは思わなかった訳なんだけど、
でもそれはずっと昔からそうだったはずなんだよね。


自覚はしていなかったけど、子供の頃からずっと社会での生きづらさのようなものは感じてた。


家族や社会から腫れ物に触るような扱いを受けたり、
人を見た目で判断するような人たち、陰口が当たり前の世の中にはうんざりで、人のちょっとした反応を過敏にキャッチして動揺してしまう自分が嫌になって13才の頃、感じることをやめた。


とにかく人や社会への反発心や、どうしていいかわからない感情の吐口が私の生きる原動力になっていたのだと思うし、その憤りのようなものが大人になってからあらゆる興味の方向に向かっていったのだと思う。
(それがダメだとかの否定ではなく)


今は仕事は淡々としているけど、その中で失敗も多々あるし、人との関わりの中で色々と気になることはある。
でも社会的な立ち回りが上手くなく、すぐ自分の問題にして落ち込んでしまう自分がいることも知っている。


社会しか知らなかったら、
『やっぱり自分なんて本当にダメだ、何とかしなきゃ』
と自分を訂正しようとしたり、
『生きていても何も楽しくないし、面倒で何もやる気がしない』と
無気力になる人生しか思いつかない。


何かをやり遂げるパワーも実力もないし、そこに対する価値も見出せないのだから社会で生きづらいのは当然だよね。


それを一生やり続けるなんて。
考えただけで、あー頭がおかしくなりそうだ。

だってその世界には誰もいない…私すらいない。
そんな狭くて小さな世界、どこにも向かいようがないんだもん。


ふと、今に意識を戻すと
私は今、多肉植物を目の前にしてコーヒーを飲んでいる。
ただそれだけ。
でも何かが以前と明らかに違う。

そらさんが伝え続けている人生のこと。
そこには必ず人がいる、相手がいる。


相手を想うこと。
そこには答えなんてない。


そして人生という、壮大なまだ見た事も感じた事もない世界が宇宙の先端まで広がっている。 

そこには自己否定や他者否定など存在しないし、
役立たずだろうが何らかの結果を出したとかも全く関係なく、それぞれの人生があるという。


「え、、人生ってまだまだ広がってるんだ…!!」


なぜか不思議と安堵する。
一気に視界が開けたような、そんな感覚。


それを知れたことが本当に嬉しいと思った。


人と人とが織り成し合っている人生って
一体どういうものなんだろう?
その先を知りたいとも思った。


失敗ばかりの役立たずな私だけど
産まれてきた意味を、
織り成している沢山の人たちとの人生を、
わからないからこそ
自分の人生として知りたいと日々生きているのです。


michiru

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