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『自分の人生を生きる』

お久しぶりのブログです。


今回の出雲バトンに参加している中、
参加者の方から

「みちるちゃんはあのまま地元に居続けたらどんなだったと思う?」
ふと、そんな質問が投げかけられたので、
今日はそんなことを書いてみようかと思う。


出雲に来て、そら(山本博)さんの創られる場で色んな方々との関わりをさせてもらうようになって3年が過ぎた。

確実に言えるのは、あのまま地元にいたら
本当に自分が求め続けているであろう「何か」は
いつになっても全く掴めず、毎日悶々としながらその「何か」を探しまわって生きているだろうな、と振り返る。
探し回っていたことすら、今になってわかることだから霧の中を突き進んでいるような感じだろうか。


もっと言えば、自分が求めているものだけでなく、
出来れば見たくないようなもの、感じたくないようなもの…
例えば、人の気持ちや相手の思いやり、人の苦しみなども、めんどくさい感情に悩まされたくなくて全部スルーして生きづつけているだろう。

きっと、相変わらず自分の好きな事をやり、マンネリな日常を解消するために刺激を求め続けているだろうし、一瞬の高揚感のために忙しく動き回っているだろうなぁ…は、簡単に想像がつく。

さらに実家暮らしを理由に家族にも甘え、リアルな現実的なことを真剣に考えることもなく、ぬくぬくと過ごしているに違いない。

家族は何をしても平気な存在、色々やってもらって当たり前。そんな中にいたからその人たちの気持ちを考えたりもしない。

きっと無感覚で「ぬくぬく」という感じもなかったはずだ。


「人のことは関係ない。自分が良ければいい。」

自分がそんなことを思っているなんて想像もしてなかったけど、それに気が付かないくらいに当たり前にその中にいた。
面倒くさいことは避けて、都合よく生きたいとは思っていたことは自分でも知っているけれど。


そんな風に自分本位に生きていても
心の中でモヤモヤ、罪悪感、なんとも言えない居た堪れなさは感じてはいた。
しかしそこを見ようとすれば必ず、人(相手)に行き着くわけで…
出来ればそこには触れたくない。一番面倒なところだって知っていたし。


何かにつけて「自分はダメなんだ」という自己否定をしていたけど、それがある種の隠れ蓑になっていたのだろうなって、今なら思う。
それを理由に相手のことを考えなくてよかったから。
ここに来なければ、きっと未だにそんな中に居続けていただろうと思う。


相手のご機嫌を取ることや、相手を喜ばせることが良いことだと信じて疑わずにいたから、
いつになったら相手を感じられるかもわからなければ、今、近しい関係なの?そうじゃないの?などと手探りで結局、相手の心には触れず
それが相手を傷つけたり苦しめていることにも気付かずにいるだろうしね。


1人で過ごすのが好き。
それは楽で自由。
だけど誰かと外出したり人がいる場所に行くときには必ず制限になっていた。

変な話、トイレに行くのにも人がいないところじゃないと無理!しかも、そう思っていることを人にバレないようにしなきゃ!と、
とにかく必死に自分自身を調整し、コントロールする毎日。

そんな風に囚われている状態で
1人が楽♪とは決して言えない現実の中で、そのことさえ考えないで1人が楽と言い続けて、相変わらず内側で葛藤していただろう。


改めて振り返ってみると、信じられないくらい狭い世界で生きてたよね(笑)
驚愕するほどに…自分しかいない世界じゃないか(笑)


そんな生き方では自分も相手も感じられないし、生きてる実感なんて訪れるはずがない。
でもそれしか知らないのだから…仕方がなかったけれど。


なので、冒頭の質問に簡潔に答えるなら
「きっと、あのまま地元にいても
生きていて何の幸せも感じられていないだろうね」だ。


家族もいる、友達もいる、健康で普通に働き、自由気ままに遊びにも行ける。
でもそれが不満とかでは全くない。

だけれども、、
全くもって何も感じられない人生なんだよ。
本当の意味での人を感じることもできないし、
自分すら感じられないまま一生を終えるしかない人生。

そんな現実にも気がつかない人生だったんだ。



このブログには何度も書いているけれど、私は人との関わりがとにかく苦手だったのです。
極力、関わりを避けてきたし、世間話も出来ないし実際にあまり付き合いは上手くはなかった訳だけど、それが私だと思っていたし、私らしいことだと信じて生きてきた。


だけど今では、それとは真逆な自分をとても自分らしいと感じられている。

「こんなにも人と関わりたい人だったんだ…私って」
自分でもびっくりするほどに、それが普通で当たり前になった。


先にも書いたような、以前の自分が抱えていた問題だったり、悩みごとは気が付いたら全てが消えていた。
消そうと思ってないのに、勝手に消えたのだ。
この日常生活を普通に送っているだけで。


あり得ないくらい、一人ひとり全く違う存在なんだということを知れば知るほど、自分が作り上げた思い込みや、人として当たり前だろうと思っていたもの、自分が見ている世界がガラガラと音を立てて崩れていった。
最近も全てが崩壊した出来事があったのだけど、
今まで絶対に死守してきたことの全てが、ついにどうでもよくなってしまった…


自己否定もずっとし続けてきたけれど、気がついたら自己否定もできなくなった。
前のように落ち込もうと試みても、強力なバネで跳ね返されるみたいな感じで戻されて落ち込めないから、何かが変化したらしい(笑)


過去、色んなスピリチュアルやら自己啓発やら沢山の本やブログなどを読み漁ってきたしワークのようなものも勉強したこともあったけど、何らかの考え方を身につけて変わったことなどひとつもなくて。


そらさんのセッションというのは何かの考え方ではなく、本当に微細にその人に必要なものを届けられているから、本人は全くそのことに気が付くこともなく、気がついたら変化しているのだから…本当に不思議。


私はそんな風に一人ひとりに真剣に向き合っている人をそらさん以外知りません。


ちなみに私は今、お庭の植物たちがちゃんと夏を越せるようにしてやれるのか、、とハラハラと気が気でない感じになっていたり、山椒の木にいる青虫くんの姿を見つけるとニヤけたりする自分がいるのだけど、今までには全くなかった自分を感じている日々なのです。


そんな私は大したことが出来ないし、大した人間でもないけれど、日常で想える人たちが沢山いて、想ってくれる人たちが私の人生に登場してくれている。
これは地元にいたら絶対に感じられなかったこと。

それが何より本当に幸せなことなんじゃないかと思うのです。


michiru


そらさんのブログ






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