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そして私は大海を知った

<2月初旬に電話がかかって来なければ、落選>

そんなネットの噂話を目にしたのは、2月も4週を過ぎた頃のことだった。

ああ、だめだったんだ。
発表当日に頭上のたらいをひっくり返し、派手にずぶ濡れになるつもりだった私は、意図せず靴の隙間から入り込んだ雨にじわじわと、しかし確実に、浸水させられてしまった。
――つま先だけでも、冷たいや。



*****



「なんか明日、発売日らしいです」

「マジか」

西新宿のカレー屋で、顔くらい大きいナンをちぎりながら私は言った。
予約なしでは入れない人気店もコロナショックの煽りからか、この日は空席が目立っていた。
先月、ディナータイムを外してもありつけなかったご馳走が次々と目の前に運ばれてくる。

「土曜が雑誌休配日なので、前倒しで金曜みたい」
そう言おうと思ったけれど、あしながおじさんは出されたばかりの三種のカレーの食べ比べに真剣だったので、私も目を細めてそれにならった。
前菜だけで四品、カレーは三品、ナンは二種。
いくらなんでも頼みすぎだ。
コンパクトな店内で、私たちのテーブルだけが「おみせやさん」と化している。

平日早い時間でも満席なのが頷けるくらい、どのメニューも手がかかっていて、美味しい。
前に一回だけ来たことがある、というあしながおじさんも、これだけ一気に味わえたことは、さぞ満足だろう。

「今、私、役に立ってる」

私が得意げにこぼした言葉の意味を理解すると、あしながおじさんが苦笑した。
でも、そうじゃない?と私が催促して初めて、彼はまぁ、そうだね、と同意する。
もしもあなたが一人でふらりと来たならば、一度にこんなたくさんの種類の料理は食べられないのだから。
なんでもできるあなたに、こんなことでしか役に立てないんだ私は。
ねえそうでしょう、そうだと言ってよ。

すべての料理が美味しかったのに反して、なぜだか私の食はいつもより進まなかった。
心なしか痛む腰を庇うように座り直すと、砂糖を多めに入れたホットチャイを飲み干した。
私たちは「食べ物を残さない」という唯一ともいえる共通項で浅く結ばれているので、私が食べられなかった分はあしながおじさんが品良く、丁寧に、さらってくれた。



*****



私が文芸誌の新人賞に応募することに決めたのは、2018年12月のことだった。
noteでも活躍する、とある女性ライターさんから「某誌の新人賞に出してみては」とDMが届いたこと。
あしながおじさんと出会って半年。
私に文章を書き始めさせたはいいが、次のステップに進ませる手段のない彼にとって、その誘いは好都合だったに違いない。

私?
私は、彼がやりなさいと言ったことに従うまでのこと。
こうして動機が不純な執筆生活は始まり、締切である2019年9月30日に、そっと幕を閉じたのだった。



*****



お手洗いに手間取り、座席に戻ると、カレーの会計が今まさに目の前で行われているところだったので、彼に慌てて用意してきた茶封筒を押し付けた。

手狭な店内を気遣い、コートを小脇に抱えたまま私たちはエレベーターに乗り込む。
ドアが閉まる直前。
「どれも綺麗に食べてくださって」
そう添えた店員さんが印象的で、また来たいな、なんて分不相応なことを思ったりした。

あしながおじさんが会う日の予定を事前に知らせることはなく、そのポリシーは、私の「決定をしたくない」という欠点と非常に相性がいい。
大抵の場合、私は行き先も告げられず、なすがままに車に乗ったり新宿に集まったりする。
空腹さえ用意しておけば悪いようにはされないはずだったのに、この夜だけはそういうわけにもいかなかった。

「あの、すみません、残念なお知らせがあります……」

店の外でようやくコートに右腕を通した彼に、口ごもるように言った。
今日はこのあといつもみたいな予定ですかと、私が彼の信念を曲げてでも伝えなければならなかったのは、新人賞の当落のことではなかった。

数分前、お手洗いの中で透明な水の中に一筋、ゆらゆらと落ちた真っ赤な血液。
それは今夜、私が彼の「役に立てない」ことを示していた。



*****



「それなのに……それでもいいよって言うんだもん」
嬉しいとも気まずいともつかないような顔でサワーのおかわりを要求すると、バーカウンターの中で馴染みの女性店員は「いい男ね~!」と茶化しつつ空のグラスを受け取る。

あしながおじさんを寝かしつけた私は、ラブホテルを中抜けしてゴールデン街のいつもの店に座っている。
隣に居合わせた男性客が「石鹸の匂いがする」というので、確かめようと摘んだ髪の毛の先がまだ濡れていた。

「もし準備がなくて帰りたいと言うなら尊重するけど、そうじゃないなら」
「それ」用の人間が「それ」のできないときに、のこのこと都心までご飯を食べに出てきてしまったことを私は恥じた。

こんな歳になっても「生理でごめんなさい」と言うタイミングが計れないなんて、恋愛している世界中の若い女の子に知れたら絶望させてしまいそう。
居もしない架空の女子に詫びながら早足で帰る午前2時。
客室のドアを静かに開けると、あしながおじさんの大きな靴が私の揃えたままの形でこちらを向いていた。

「起きてたの?」

「……起きてたし、一時間くらい風呂も入った」

じゃあ今から眠るんだ。
ショートカットしたつもりの彼の入眠の場面にもう一度舞い戻ったことがわかると、私は小さく肩を落とした。
スマホとにらみ合うあしながおじさんの背後から襟足を吸い込んでも、もはや1ミリも彼の匂いは感じられない。

あしながおじさんの寝息が一定のリズムになった頃、私は左右に少しずつ振れながらベッドを這い出た。
うっかり寝入らないように上半身だけでも立てておかないと。
ベッドの隅で座っていることもできるけど、夜通し寝顔を見つめられるなんて彼も夢見が悪いだろう。

ニ万円近い宿泊費を払い、やることもやれないのだから、あとはせめて安らかに眠ってもらうくらいしか私にできることがない。
さっき外に出たのだって、息を殺すことの一環だ。
月に一度しか会えない人のそばを離れてまで、飲みたい酒があるわけがない。
薄暗い部屋で物音を立てぬよう、じっと朝を待った。

足元から上がってくる冷気を感じクローゼットを開くと、とにかく仕立ての良さそうなあしながおじさんのアウターが目に入った。
ウールか、カシミアか、アンゴラか。
それに包まれて眠る幸せそうな自分を思い描く。
しかし実際の私の手はその隣に掛けられた、重さだけで保温性を上げたような硬い、安物のレディースのコートを掴んでいた。

ソファーで大きな身体を縮め、自身のコートを毛布代わりに。
あしながおじさんが細く開けた明かり採りの窓から射す朝日のなかで、買ったばかりの単行本を開いた。
気鋭の作家が書いたという短編小説のなかに、私の知らない単語はひとつもなく、小一時間ほどで物語の隅々を読み切ることができた。
私でも知っている言葉を組み合わせて、これだけの面白いものが書ける人がいる。
今日これから落選することの決まっている私は、その事実にどうしようもない無力さを感じる。
小説を書くようになってから、私は読書を純粋に楽しめなくなってしまった。

チェックアウトの2時間前になると、のそのそとあしながおじさんは起き出してシャワーを浴びたり靴下を履いたりしたので、視界の端から端へ移動するその姿をぼんやり眺めていた。
薄くまぶたを開いている私に気付いたあしながおじさんに「ソファーにいたかったの」と言うと、確かに前も寝てたような気がする、と文面通りに受け取ったようだった。

彼はまさか、したくないことを自ら進んでしてしまう人間がいるなんて思わないのだ。
腹が鳴ったら食欲を満たし、身体が冷えたら湯船に浸かり、眠たくなったらベッドで目を閉じる彼に、したくないことをわざわざ選びとってしまう人の気持ちなど露ほどもわからない。
そしてその「わからなさ」に一番救われているのは、他でもない、私だ。

「飲みに行きたくないなら行かないで」
「ソファーで眠りたくないなら眠らないで」

そんなふうに毛布の片側を上げてベッドに招き入れられたら、時間をかけて守ってきた私の国の国境は、いとも簡単に壊れてしまう。
だから彼は、このままでいい。

「西口に本屋ってあったっけ」

あしながおじさんが言うので、もう買わなくても同じじゃない?なんて軽薄に私は笑った。

「ダメだったとしても区切りがついたほうがいいだろう」

気を失った瞬間以外、ほとんど眠ることのできなかった私には、どんな意見もすべてこれ以上はない名案のように響いていた。



*****



昨夜のカレーのボリュームを引き摺っていたあしながおじさんと私は、実に軽いブランチを済ませ、隣接する百貨店7階の本屋で入荷したばかりの文芸誌を購入した。
二人きりのエレベーターで手早く中身を確認しようとする私の手から冊子の入った包みを抜き去ると、ビニール袋を縦に1回、横に1回。
冊子の形に丁寧に折りたたんで、私のバッグの中にそっと差し込む。
昨夜返された茶封筒の中の現金が、くしゃりと押し潰される音が聞こえた。

「いいから。家に帰って、じっくり読みなさい」

こうして私とあしながおじさんは新宿駅の西口で別れた。
彼にしてはめずらしく、背中を向けてから一度振り返り、そして何も言わず、地下へと続く階段へと消えて行った。



*****



毎夜出勤して、退勤して、寝落ちるまで小説を書いていた。
真っ暗な往路、真っ暗な復路。
進入禁止のロープが張られた古い家屋が、潰され、瓦礫の山になり、更地になった。

やがて更地がニ区画に整地され、基礎が打たれ、新築の一軒家が二棟建った。
そのうち一戸が売れて、すべての窓にカーテンがつき、小ぶりな庭にピンク色の子供用自転車が置かれ、そして売れ残ったもう一戸は50万円もの値下げの札が貼り出されていた。

知らなかった。
この世には生活を営みながら書き続けている人がごまんといる。
私がnoteのおすすめにすら載らないのは、なんてことはない、ただの正当な評価だったのだ。



*****



リビングに一人座ると、文芸誌の目次で「新人賞中間発表…P.289」の文字を目に焼き付ける。
巻末に限りなく近いそのページをめくると、ぼんやりと1回、上から1回、下から1回。
何度丁寧に見返しても、二次・三次、そして当然、最終候補者の中に私の名前はなかった。

「ちゃんと悔しくなりたい」

数ヶ月前にそう書いたのに、実際のところぼんやりと、ただ事実を受け止めただけで、どんな感情も私にはおこがましく思え、湧き出すものが何もなかった。

あしながおじさんには『なかった』とメッセージを送り、ほどなくして『なかったか』と返事がきた。

『でも頑張ってたのは、見ていたよ』

彼に表面的な優しい言葉で撫でられることは滅多にない。
ごめんなさい、期待に応えられなくて。
呆れたよね、もう見限っていいよ。
どちらも答えになっていない気がして、別れ際に貰ったパンダのキーホルダーのこと「ありがとう」なんて一層噛み合わない返事をし、それに対する反応は特になかった。

自分の座っている川底の、本当の底の底の、ざりっとした手触り。
でもずっとここにいたような気がするし、そんなに痛くはなくて。

私一人の力で書けたなんて思ってもいないし、この先、書ける気もしない。
自分なんてどうでもいい存在のためにこんな辛いことは頑張れない、怠け者の私は部屋で丸くなって寝ていたい。
あしながおじさん自身、まぐれ当たりはないと知り、私を走らせるこの遊びに飽いたと思うならそれでいい。

でももし、もう一度行け、と言うのなら。
あなた、私が無様に転げて、傷だらけになるところ、見てなよ。
なんでもできるあなたには、こんなことでしか役に立てないんだから、私は。


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