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教育

みなさんこんにちは、みちおです。私は普段、子どもたちとの触れ合い、青少年の育成などをメインに活動している世界で69か国が加盟する教育系のNGO団体の日本の青少年代表として活動しています。今日も、「セッション」を通して皆さんと考えを深めていきたいと思います。

今日は「雨」について書くつもりでした。が、すみません。学校で教育について学んでいるうちにそれについて書きたくなったので、今日はおやすみさせていただきます。もしかしたら数日にわたってこの話が続くかもしれません。

教育

教育は全てに繋がるところがあると思っているので、脱線しまくると思いますが、もし良ければみていただければと思います。

そもそも、教育とはなんでしょうか、ここを明確にしておかなければならないと思っています。教育とは、手段のことです。何かを目的として、そのために他人の時間とお金と自分の時間と労力を使って行うもの、これが教育です。つまり、目的のない教育は教育ではありません。また、教育自体が目的となることも絶対にありません。そこをまず理解しておかなければならないと思っています。

よく、教育はこうあるべき、教育はこのようにすべき、などという言葉を聞くことがあります。しかし、これは根本的にまちがっています。それは教育をすることが目的となってしまっているのです。目的によって柔軟に変化していくもの、それが教育であると言えるわけです。

では、なぜ教育を行うのか、その目的を明確にしなければなりません。その目的を達成するために教育が行われるからです。

例えば、公教育を考えてみましょう。国が教育制度としてシステムを構築し、手筈を整え、教師を採用して子供に教える。義務教育と呼ばれる教育制度が現在の日本における教育の中枢となっています。では、これにはそもそもどのような目的があるのでしょうか。国は個人の幸せを願って教育を行なっているのでしょうか。そうとは言えませんよね。教育を行う最大の理由は、国家の維持、発展です。国家の維持をするためには税金が必要です。そのためには国民が相当程度お金を稼ぎ、一部を国に納めて貰わなければなりません。国はそうして1億2千万人以上いる日本人をまとめる必要があるというわけです。では、国にとって各個人の幸せはどこまで必要と言えるでしょうか。もちろん幸福度がとても低くなってしまった場合はクーデター等が発生するかもしれません。しかし、教育が当たり前の文化となっている日本では、そこまで個人の考えを尊重しなくても国自体は維持されることになります。

ここからは少し批判される可能性もありますが、正直に考えたことを述べていきたいと思います。

幸せ

そもそも、幸せとはなんでしょうか。たくさんお金をもっていること、高い地位についていること、物知りであること、家庭を築くこと、何もしないこと、幸せという言葉はあってもその定義は一人ひとり異なります。そして、その幸せを手に入れるために人々は行動し、手に入れられるかどうかに関わらず死ぬ。これが人間です。

もちろん、教育を受けることによってその幸せを享受できる人もいるでしょうしかし、実際に教育の弊害として自分の人生に区切りをつけ、自殺をする人もいます。

ここで一つ考えるべきなのが、義務教育についてです。教育を義務にすること、これは教育は善でしかないという考え方に基づいたものです。もちろん、先ほど述べたように国家に対しては善であると言えます。しかし、個人についてはどうでしょうか。教育という善を押しつけ、無理やり学校に通わせ、同じような内容を教えてついていけなくなった子はそのまま。これが本当に善であると言えるのでしょうか。

人に何か義務を背負わせること、これは幸せな状態と言えるのでしょうか。

もちろん、個人にとってメリットがあることも十分理解できます。読み書きや計算ができ、働くことで豊かになる。昔の時代には一部の人しかできなかったことを全ての人が享受できる。これはとてもありがたいことだと思います。

どちらがいいというつもりはありません。しかし、現代の常識をより深く深く掘ってみないと、簡単に幸せになることはできないと思います。

長くなってしまってごめんなさい。まだ書きたいことがあるので、多分明日もこの話題になると思います。

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