本来の自己、紹介ってなんだろか。
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『その人の何をどこまで知ったらその人を知ったことになるのか、わからないんです。例えば、職業を知ったらその人を知ったことになるのでしょうか?僕にはそうは思えません。だから、「自己紹介してください」とだけ伝えた時に、その人が一体何を答えるのか、にお任せしたいと思うんです。“自己”を伝えるために、“何”を言うのか…そんなわけで、僕に、“あなたの自己紹介”をしてくれませんか?』
随分と奇妙に感じるかもしれないが、ぼくはそれを聴いた瞬間、その人を好きになった。好き、といっても妙な意味じゃなくて。
こいつは同類だな、と思った。
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『自己紹介』
それは、ぼくが最も苦手としてきた部類のもの。
名前、出身地、職業、家族構成、趣味…でも言えばいいのかな?
でも、それで、その人の一体何が“わかる”というのだろう?
“わかる”のは結局、「そいつと何を話せばいいか」だけじゃないのかな?
自己紹介なんて名ばかりで、その人の『自己』なんて何にもわからない。
つまり、「わからない」ってことだけが“わかる”もの。
とりあえず、初めましてな人と交わす『儀式』。
それが、自己紹介。
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それにしても、そもそも自己を規定するものとは一体何なのだろう?
たとえば、ぼくは日本人と言えるだろう。
だから、多国籍の場であったなら「日本人です」と伝える。
でも、それの意味するところはきっと、こう。
「日本語が母語で、日本文化が身に染み付いています」
さぁて、相手は一体何をぼくに尋ねてくるだろう?
でもぼくは、そこまで日本文化に精通していないから、うまく答えられないだろうね。
それにぼくは、助詞の使い分けだってきちんとできないから、日本語を教えて、と言われてもうまく教えられないと思う。
それでもぼくは、『日本人』?
その根拠は?
日本という国で生まれたから?
日本国籍をもっているから?
それとも、血筋?
『日本人』を決定づける遺伝子でもあるのかな?
『日本人』って一体、何だろう?
でも、たぶん、やっぱりぼくは『日本人』、なんだと思う。
その根拠は、外から見える表面にあるわけじゃないと思う。
ぼくが『ぼくは日本人である』という感覚を抱いている。
それが自己たる由縁。最も不可欠な根拠だと思う。
だからもし、「日本語を使うな!」、そう言われて日本語を口にすることが出来なくなってしまったら、自分ではいられなくなると思う。
そしてもし、「四季折々のうつろいが美しい日本という島」がなくなってしまったら、ぼくはきっと、自分を見失う。
もしぼくが、日本語の通じない人々の中で、日本という国すら知らない人々の中で、『日本人』について話しをしたとする。
その人たちは一体どのような反応をするだろう?
しかも、世界にある国は、アメリカと中国しかない、と思い込んでいる人々だったとしたら?
自分が誇りとするものを、
そもそも存在しないとされたら?
他者に理解してもらえなかったとしたら?
そんな屈辱に、ぼくは耐えられない。
それほどに、ぼくは『日本人』なんだ。
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そうそう、ぼくには指が5本あって、耳から入ってくる音を認識できる。そんで、小さい頃から練習してきたからピアノが弾ける。
だから、「ピアノが弾けます」。そう言える。
けど、事故や病気で指が動かせなくなっちゃったら?
耳から入ってくる音を認識できなくなっちゃったら?
とはいえ、「ピアノが弾けます」と言えなくなったぼくを見て、「もうあなたはあなたじゃない」なんて思う人はいないと思う。
そもそも、ぼくが「ピアノが弾ける」なんてこと、言わなければ誰も気づかないだろうしね。
それくらい、他の人にとってはどうだっていいことだと思う。
だけどね、ピアノを通じて感じて来た世界、知った世界が、ぼくを『今のぼく』足らしめたんだ。
だから、ぼくの考えを伝えようとしたら「ぼくはピアノが弾ける」ということを伝えなければ、その意味するところはきっと、伝わらない。
それに、ピアノを弾くという行為は自分を保つためになくてはならないものだったんだ。ピアノが弾けなくなることは、ぼくにとって、自分からどんどんズレていくことなんだ。
だからもし、ピアノが弾けなくなってしまった時、
「ピアノなんて弾けなくても、あなたはあなただから」
なんて平然と言われたら、ぼくというものを何も理解してくれてなかったんだな…そうぼくは感じるだろうね。
だけど、ぼくというものにとって大事なものがなくなったとしても残るぼくという存在はなんなんだろう…
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さて、以上の話しは比喩なんだ。
ぼくが日本人であり、ピアノが弾けるということに嘘はない。
そう。ぼくは、嘘をつくことのできない人間なんだ。
…ふむ、「嘘をつくことのできない人間」、か。
“それ”もぼくという『自己』の大きな要素だね。
だけど、大抵の場合「自己紹介して」と言われて、日本人である、ピアノが弾ける、嘘をつくことのできない人間、なんてことは言わないと思う。
うん、日本人であることは日本という国の中ではわざわざ言わないよね。大抵自明のことだから。日本語を話すぼくの姿を見たら、大体の人は「日本人だ」と認識すると思う。そして、それは間違いじゃない。
まぁ、趣味くらいは言うのかな?だけど、ぼくにとってピアノは「趣味」なんてものじゃないから、「趣味はピアノ」とは言わない。
言っても便宜上そう言うだけ。
それくらいの常識は把握しているからね。
嘘をつくことのできない人間、なんてことはまぁ、「自己紹介」では言わないだろうね。それこそ、「嘘くさい」。
それに実は、嘘をつくことのできない人間かどうか、って、人は瞬時に“わかる”みたい。むしろ、余計な『肩書き』を知ってしまうと、判断を間違えちゃうみたいだね。
「社長」とかね。一目見て「嘘くさい」ってちゃんとわかってても、理屈で考えて間違えちゃうんだ、って、誰かが言ってた。
あと、逆もあるよね。一目見て「嘘のない人」ってちゃんとわかってたのに、その人の『何か』を知って、偏見の目で見ちゃう、とかね…
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とにかく、「自己紹介」ってものは、とっても厄介。
ちゃんと「自己」を「紹介」しようとしても、何を伝えたら「自己」を「紹介」したことになるのかがわからないし、伝えちゃったら、余計に「自己」を見てくれなくなる、なんてこともあるかもしれない。
これから仲良くなりたくて『自己紹介』したのに、その途端、「さようなら」ということもありえる。
うん、まぁ、そうゆう人と仲良くなっても、あんまり良いことはない気がするから、それで良いのかもしれないけどね。
ちゃんと「さようなら」できるならね。
だから、ぼくは、その場で要求されていそうなことを当たり障りなく言うことを心がけてきた。変に絡まれて、いじめられるのは厄介だからね。
だから、ぼくはずっと、『自己というもののある意味最も根幹をなす事柄』について、『自己紹介』することを避けて来た。
『自己というもののある意味最も根幹をなす事柄』
それって、一体なんだと思う?
それは、きっと人によって全然違うと思う。
違うのは当たり前だし、それはその人にとって実際そうなんだと思う。
だけど、ぼくにとっての『自己というもののある意味最も根幹をなす事柄』についての『自己紹介』の必要性に気づいている人が少ないのは、多くの人にとってはあまりにも「自明」過ぎる、というだけだったんだね。
「日本人である」以上に、世界共通で「自明」とされてきたからなんだね。
それはつまり、性別。
性のあり方について。
ぼくはやっと、わかったんだ。
周りからずっと誤解されてきた訳を。
自分でも自己を勘違いしてしまった理由を。
今までぼくにはなかったんだ、ぼくだけが感じ続けて来た違和感を、初めましての人に伝える勇気は。
ずっとぼくは知らなかったんだ、初めましての人にちゃんと伝えるための言葉を。
そもそも、少し仲良くなって、ぼくという人となりが伝わったとしても、結局、誤解されたままだったから、ましてや初めましての人になんか、ぼくには無理だった。
周りがあまりにも疑問を抱いていないから、ぼく自身、自信がなかった。
もし、強く反論したら、一体どうなるのかわからなくて、怖かった。
でも、もう限界だった。
そして、ようやくわかったんだ。
ちゃんと、人に伝えていいんだって!
伝えるための言葉が、概念があると!
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ようやく、ぼくは堂々とありのままの自己でいる誇りを取り戻した。
もう誤解されるのは勘弁だ。たとえ、伝えたところで理解できない人が大半だろうけど、それでも、ぼくは伝え続けるよ。
だから、ぼくは伝えた。
「何を知ったら、その人を知ったことになるのか、わからない」と言いつつ、「“自己紹介”してください」と言ったその人に、
「言葉というものは厄介です。本来の自己を完全に表してくれる言葉なんてものはありません。余計な誤解を招くだけです。しかし、今この場での“自己紹介”は言葉によってしなければなりません。ぼくは、あなたのおっしゃることに同意します。そしてぼくは、そうおっしゃるあなたには誤解されたくない。だから、今この場で“自己紹介”として伝えたい言葉は何も浮かびません。それよりも、これからぼくの話しを聴き、ぼくという人が一体どういった者であるのかを、お互いの社会的立場や本日お会いした理由や意図などという"大人的都合"は脇において、ただひとりの人と人として向き合ったほうが、あなたが本日ぼくとお会いした目的を果たせると思います」
それに、ぼくのgender identityについては、もう既に伝えてあったからね。
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ぼくは、gender binary(男女二元制)では捉えきれないgender identityであるGender-fluid(Non-binary) person。
「私」という一人称が、通常大人が用いるものだってことは把握してる。
けど、ぼくにとって「ぼく」という一人称は、物心ついた頃から使っている最も自然な自己を表す言葉で、一人称以上の意味合いがあるんだ。
つまり、子どもの頃から誰も何も教えてくれなかったアイデンティティの拠り所。
それと、代名詞に「彼女」を用いる等の女性扱いは、基本的に「女性である」という感覚をもたないぼくにとっては“適切じゃない”としか感じられない。
つまり、大人の男性が普通に「ぼく」と言うのと同様に自然なことだし、
「彼女がー」と自分を指されて「❓」が浮かぶ男の子と同様に、
とても とても とても とっっっても不思議な扱い!!
とはいえ、ぼくは男性じゃないから男性扱いされても困るんだ〜。
まぁ、ごちゃごちゃ言ったけど、
要は『ぼくは“ぼく”』ってこと。
どうぞよろしくね(๑╹ω╹๑ )♫♪
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大抵の人はわざわざ言わなくても
構わないことを伝え続けなければ、
自分の根本を間違えられてしまう。
それが、ぼく。
単なる表面上の自己紹介をしたところで、
全部、その意味を取り違えられてしまう。
それが、ぼく。
それでも伝わらず、伝わらないからこそ、
固定観念を捨て、思い込みを抜きにして、
ぼくという存在に向き合ってもらえる。
それが、ぼく。
そして、他の人たちだって、きっと、そう。
見た目や言葉だけじゃ、何も、わからない。
本来の自己ってそうゆうものでしょ?
聴いても見ても、ようわからん。
ティンプトンカンプトン
---ちんぷんかんぷん---
それが自己。
はてさて、
いったいどんな風に紹介すれば良んだろか?
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