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日々5./読む、という行為を明確に


ミチムラです。

先日からデイヴィッド・コパフィールドという小説を読んでいました。全4巻、1冊あたり470ページという超長編小説です。大作家ディケンズの代表作にして、モームが提唱する「世界十大小説」のひとつでもある小説です。

それを4巻目、140ページあたりまで読みすすめていたのですが、ついきょう、読むのをやめてしまいました。おそらくもう読むことはないとおもいます。

なんだか、4巻までやってきて、登場人物のあれこれがもうどうでもよくなってしまって。エミリーのゆくえとか、ミコーバーの手紙とか、ヒープの悪事とか、ドーラの死とか、もう、そんなあれやこれらがどうでもよくなってしまって。

これを読んで僕が思ったのが、

自分はヨーロッパ文学に対してあまりなじめないんだな、

ということでした。

なにがなじめないのかというと、そのあたりの小説って、もうほんとに過描写だよってさけびたくなるくらいに描写が多い。それ、本筋と関係ないよね、という描写。部屋や街並みの描写になれば、2ページくらい平気でつかってくるし、なにより自分のほしいと思っている情報がその描写にふくまれていないとくると、読んでいて苦しくなってくる。

僕は小説を書くのが好きなのであって、読むのはそれほど好きではない。だから本は嗜好品ではないし、読書は趣味でもない。

読んで、たのしかった、よかった、のように完結しないから。

読んだものを自分のなかで咀嚼し、文章として落とし込む。そこまで果たされてやっと読書の効果があらわれてくるんですよね。

そこで考えると、このデイヴィッド・コパフィールドについて、自分が得られたことはとてもすくなく感じられ、それをこころから感じたのが4巻目だった、という。

逆にいうと、自分のほしいものは海外文学にはないのかもしれないな、と悟ることができたので、それは大変大きな収穫ではありましたが。

思考や、精神性についてえがかれるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などは、僕が三大小説を定義するなら絶対にあがる小説なので、作家によるのかな、というのもあるかもしれません。


デイヴィッド・コパフィールドを読んで、僕は今後、自分の読んでいく小説についてはきちんと選び抜いていかないといけないと確信しました。

それともうひとつのきっかけがあり。小説を書くうえで、ひとに相談したときに、読んでみるといいよ、とすすめられたのが大江健三郎の「死者の奢り」。

50ページほどの短編小説なんですが、この小説に自分のほしいものがつまっていて、ああ、これだよ、これ!! みたいな。1500ページ読んで得られなかった感覚が、50ページで得られるとはおもわなかった。


もともと読むのが遅くて、1冊にかける時間がひとより何倍もかかる。でも、この読み方で小説を自分のなかに取りいれ、それをあたらしく自分の文学に落としいれ、それでいくつかの小説賞の選考にも通っている。

だから、僕は多読ではなく、熟読の方面で文学を解き明かしていきたいとおもいます。1冊に対しての精度をさらにあげて、そこから得られたものをフルに自分のものとして使えるようにしていきます。


ときどき、自分の読書量のすくなさに辟易します。もっと読書家なら、もっと気の利いた小説を書けるのではないかな、ともおもったりします。

でも、僕にとって読書とはなにか、と考えるとき、それは小説を書くうえで武器になりえるものの獲得を意味するので、一冊をきちんと読み砕き、自分で使えるような読書法にしていかなくていけないです。

あとはタイミングですね。自分の描きたいものを表現するうえで必要なものを選んでいくうえで、それはやっていくごとに変わっていくとおもうし。たまたまデイヴィッド・コパフィールドがいまの僕に刺さらなかっただけで、これだけ時のながれのなかを生き残った小説なのだから、理解できなかった僕のほうに非があるはずです。描写力はやはりずば抜けているし。それをたのしめるか、そして必要としているかどうかの問題なのだとおもいます。

そんななかで結果を出すためには、読書をより明確なものにしなくてはいけない。そうおもった、きょうこの頃でした。


ミチムラチヒロ

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