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エッセイ3./そのへんに落つ春


普段、駅周辺までの移動は自転車を使っているのだが、思い立って散歩に出かけることにした。

僕はあまり散歩をしない。偉大な芸術家や作家は常に散歩をしていたらしく、そのときに得たインスピレーションなんかを創作にあてていたそうだが、あいにく僕は散歩をしたところでそういったアイディアなどが降りてきたりしないことを自分で知っている。

でも、それでもきまぐれに散歩をしたくなる瞬間は、まああるのだ。

ウォークマンと財布だけを持って外に出かける。自転車に乗ることなく家の周りに出るのは雨の日以外にないから、もうそれだけで違和感、そこらへん一帯がいつもとちがう景色に見えてくるのだ。

近所に全面藍色の壁をしたアメリカ風の一軒家があるのだが、あんなに真っ青だったかな? とか、徒歩だと陽射しのつよさや、それを受け取った衣類のあたたかさを感じやすいこととか、そんないろいろを考えながら歩く。

イヤホンを耳からはずしてみる。すると、あたり一帯にはほとんど音のない、あかるい昼が横たわっている。しずかな風が吹いていて、ときおり道路を走る自動車の音と排気ガス。近くの神社に入ると、砂利路が僕の歩行についてくるかのように鳴りわたる。

境内にある、名前のよくわからない木などは、もう一面緑の葉を茂らせ、そのなかからは、これまた名前のわからない、姿すらも見えない小鳥たちがチイチイと鳴いている。また風があり、結び葉がさらさらほどけて、それらがもとにもどっていく間じゅうも、小鳥たちはずっと鳴きどおしだった。

手元にあるイヤホンを持てあましながら、音楽で耳をふさいでいたあらゆる瞬間にも、こうして日常はゆたかに営まれていることを、僕はいつのまにか忘れていたようだった。

外を駅にむかって歩く。駅にむかって歩くほうが、いつもとのちがいがわかりやすいと思ったからだ。

それはすぐに見つかった。道路脇にある植え込みのそばに咲くたんぽぽだ。そのたんぽぽは実にたんぽぽらしく咲いているように見えた。

おもわずしゃがみこんで、それをながめてみる。横では自動車が通り過ぎ、排気ガスもちかい。それでもおかまいなしに花をみつめつづけていると、こんなに一心に、しかも道端にしゃがみこんだりして花を見るのなんていつ以来かな、などと考えた。たぶん小学生のとき以来だ。

すると、僕の花に対する感受性は、あのとき以来まったく機能を失っていたことに気づかされた。

遠くの桜を見て、きれいだな、と思い、ひまわりが咲いているのを見て、きれいだな、と言う。

花が咲いているのを見るたびに僕はそう思ったり、言ったりしていた。でもそれはきっとまちがいだった。そんなのは、ただきれいとわかりきっているものに対して、ただ答え合わせのようにつまらない感想を述べているにすぎなかった。

こころから花をきれいだと思ったのは、ひさしぶりのことだった。花に対する感受性が、すこしでも自分のところにもどってきてくれたことが、なによりもありがたく感じられた。


ミチムラチヒロ

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