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#93【放送後記】第15回ふりかけラジオ「理性に限界がある時」自然哲学から理性の問題へ

5月11日に第15回ふりかけラジオを放送しました。
今回の放送はこちらからお聴きい頂けます。ふりかけラジオ」は隔週(毎月第2・4)土曜日の21時30分から、FM805たんばに乗せてお届けしています。


対談  哲学しようぜ!
【話題提供】  同志社大学哲学専攻院生 川崎
【聞き手】   地元教員の       とみん

【キーワード】 
自然哲学 理性 カント イギリス経験論
感性 感覚 合理論  ロゴス  キリスト教 スコラ哲学
プラグマティズム

とみん
高校倫理の教科書に「自然哲学(B.C.600)」が最初にでてきます。あれそもそもなに?っていうか、そそこからよく言われる「理性」ってなに。この2つを中心に話を進めてきます。
自然哲学は地中海の比較的気候のいい地方からでてきてますね。そうすると、そもそも緑豊かな湿潤気候のなかで生活し、自然と一体で外部を対象化することはなかったのが日本です。トトロやもののけ姫みたいに自然神がたくさんいて、もはや外部を対象にもしない。すでにそのなかに自分もいる。田植えしているとそういう気分なります。一方、田植えしない地中海世界だと、そうはならないんでしょうね。岸壁から蒼い海をみていると対象と自分が分離できる。
では、自分と外を分離して彼らは外をどうみたんでしょうか。

川崎
あくまでも外は世界であって自分とは別の世界、といういいかたですね。西洋哲学の伝統が自然哲学にあるとするなら、自分と世界はあくまで別、ってことです。物心二元論になるわけで、だから、最初の問いはその外の「世界」とはなにか?です。私とは何かっていう問いはもっとあとからでてきますね。東洋思想の中国なんかは、仁義礼智のように人間の行動規範を初期の段階からいいますが、その人間の行動についても西洋ではアリストテレスが最初です。

とみん
西洋思想はあくまで自分と対象を切り離して分離しカテゴライズしますね。ということは、まず外の世界が、あるいは他者が分析対象なわけですね。世界でおこっている現象でいちばん手っ取り早いのは、天気・雨・風などの現象ですね。そこにいる自分と世界の関係をどうみたんでしょうか。根源つまり「アルケー」ってなんだ?っていうことですね。

川崎
自分と外の関係自体を考えると、ギリシャ語のロゴスのもとに位置付けられているという見方です。世界はロゴスによりそれにしたがって自分も世界もあるという考え方です。何かわからんけどそういう原理が働いているという意味のロゴスです。なんかそういう前提らしきものがロゴス。普遍的な理法。それがあって、では外界はなにからできているのか?となる。そこに合理性とか安心感とか安定感があるロゴス、その上で、外界の根源を考えていく。

とみん
ロゴスはのちのロジックっていう論理性を含みすが、正しくは論理というか普遍的原理というような意味ですね。つまりは説明する原理。あるいは真っ白な準備されたカンバス、そういう全体原理が働いていて、対象として外があると考える。なぜ、どのように外は成立しているのか、という問いがでてくる。

川崎 
そうなると 世界の考え方としては自然哲学の思想は、いまの自然科学者にちかいです。万物の根源は何か。そもそもサイエンスという語源も知識とか知るというラテン語で、今の自然科学の実証とか実験という意味が付加されていくのが7世紀ですから、そこに繋がる。イスラムの星座観察とか接頭語の「AL」の語源からみて、イスラム世界の見方が影響しているかもしれないですね。代数学とか。

とみん
いってみれば自然哲学はそもそもの哲学の考えかたの種みたいなもんで、そこから以後の思想が派生していくイメージですね。当然言語で議論するから思考しますよね。その思考するものを仮りに理性といったとして、まずは現象を見て感じる感覚・感性が理性の前にあるんじゃないですか

川崎
その感性とかはのちのイギリス経験論になんとなくあるんですが。経験論というのは観察して感じることがあって記述されている。経験論は実証でき法則を導く。たくさんの記述のなかから普遍性を探索するやりかたですでもそれは経験は感覚に依存しすぎて理性を過小評価する。一方、合理論は考え中心ですが、合理的に考えだけだと、そでも単に自分の考えだけかもしれないし本当に妥当かわからない。では経験と合理のどっちがいいのか。ここでこの考えとしての理性というものを整理したのがカントです。両者を調停しながら理性の在り方を考える。

感性というのは五感ですよね、五感は人間以外の動物にもありますが、その感性というのはかなりいい加減で過ちもおかす。ある人はそれを赤というけど、ある人はだいだい色とかいうでしょ。グラデーションありますね、それくらい当てにならないのが感性。一方、理性は人間だけが持つもつ。感性は人間の能力としてあるんだけれども、どちらかというか足手まといで邪魔と言えば邪魔、感覚はとてもいい加減という認識ですね。でも理性は誤らない、という認識です。つまり理性より下にあるのが感性です。だから感覚だけに頼るとだめっていう主張がでてくる。ただし理性もその使用方法に限界があるんだというのがカントです。つまり、認識できる範囲は経験に限定されているから、物自体だって本当にとらえているかどうか怪しいというわけです。

とみん
たとえば、教育で感性を育てるとか、こころを育てるなんてあるけど、感性はほっといてもあるってことですね。ピアジェは人の成長の最初に感覚の段階があって徐々に認識がふかまるといっている。感性は大事だけどそれがあるから人間はまちがってしまうし、次第に認識する理性のほうが人間の本体という思想ですね。すると感覚が徐々に認識すると過程で理性があるけども、その捉えている物自体もそれまでの経験の限定のうえでということですね。

こういうの、理科だと素朴概念って言います。鉄1㌧と綿1㌧だとどっちも同じだけど、小さい子は鉄の方が重いって認識する。これは経験に限定されているわけですね。たしかに芸術とか音楽は感性でしょうけど、一方、合理的に演奏を得点化したり数値化していくのはかなり無理がありますね。かりに計算してそうやっても人間の生の評価と得点化した評価では相当異なる気がします。メトロノームで計測してピアノ演奏しても感動しません。科学というのは、理性でですが、感性を理性によってより洗練されたものにするような作業が芸術かもしれないです。

とみん
さてそうなると、思いつくのが巨大な理性の体系のキリスト教です、信仰というのは個人の内部の感性ですがそれを外化する教会建築やミサの様式やグレゴリオ聖歌の音階がでてきますね。 

川崎
キリスト教の最盛期がスコラ哲学です。キリスト教のために哲学が利用されるという感じですね。哲学は神学の端女(はしため)、と言われる。

とみん
なにがなんでもキリスト教っていう時代です。理性がすべてというなら、感覚とか身体が最も下劣なものという思想が中世ですね。信仰と理性の関係から、神というのは理性だから最高な地位になるとした。

その反動でもう一回人間を感じるような身体を重視するルネサンスがでてくるけど。5世紀から15世紀が中世ですから相当な時代、理性が身体を支配したわけですね。一方、そうなると、神は存在するのかという問題に対して、理性の使い方はどうなんでしょうか。三位一体論のような神の存在証明の理屈をたくさん言いますが。

川崎
神の問題を言いかけるとややこしいので、理性の使い方のマニュアルをつくるのがカントです。それが純粋理性批判の骨子です。理性の可能範囲と不可能範囲のマニュアルです。経験論と合理論双方をまさに批判的に検討する。人間の理性の射程をきめて、その範囲で行動の規範をしめしたのが実践理性批判です。カント以降の哲学はこのカントにたいして批判するのが哲学の方向になります。その理性という漠然としたものをより明示していったというのがカントです。

とみん
理性のマニュアル、いわばレシピですね。そのあとヘーゲルがまた歴史の社会の変化とからめて、自由の問題を社会との関係で扱います。さらに弁証法がでてきますね。あれも一種の方法としてのマニュアルと言えそうです。さらにいうと、19世紀にアメリカの産業主義社会で、プラグマティストが道具的理性っていいますよね。利用可能な理性の問題です。ここまでくるとカントまでは自分の内部の理性を扱ったけれども、ここからは外部との関係で自分を形成するという方向になってきます。

川崎
プラグマティズムは、カントの理性のマニュアルはなってないという批判をしている。役立たない理性ってなんだ、ということです。例えば、当時はドイツはまだ未統一でナポレオン占領下ですから、理性をつかってドイツを何とかしようというのが普通ですね。そのナポレオン占領下のドイツでヘーゲルはそういうことではなく、精神のこと書いてるのはすごいことかもしれないです。理性の定義は、考える力・人間の思考力・人間の能力 人間本来の行使できる能力とか定義は色々です。

とみん
時代によって変わることがない普遍的なものがいるのかもしれないともいえます。そうなると、まずは本当かどうかとら疑うしかない。これってデカルトの懐疑論ですが。疑う能力がないと困るんではないですか?どうも最近の授業は伝達ばっかりで根本的な思考がないのが気になってます。

川崎
疑うというのは哲学者の第一の能力でしょう。
とみん
哲学がだめなのは、日常の社会の中でコンタクトしてないのが問題ではないかと思います。日常のなかで疑うなんて余裕がないから敢えてしないほうが楽ですね。でも疑いがないと人生もよくならないだろうし社会も発展しない。疑う前にすべてそんなもんだと思う人が圧倒的に増加していますね。
川崎
社会にコミットする哲学の運動はどちらかというと社会学のケースが多くて、社会に哲学の理論を直接応用するのは厳しいですね。哲学は応用する理論を構築することが大事で、理論を直接応用するのは社会学のほうが多いです。

とみん
なるほど、土台になる理論が未熟だとだめですね。


次回は、2024年5月25日の21時30分からの放送です。
FM805たんばの受信地域外の方も、こちらからインターネットサイマルラジオでお聴きいただけます。
それでは、また次回の放送でお会いしましょう。おやすみなさい。