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#71 「君たちはどう生きるか」#1  中学生のときから50年後に読む理由

秋晴れの平日の朝10時。国道に面した交差点で信号待ちをしていた。付近の
スーパー・ガソリンスタンド・コンビニ・薬局の駐車場には車の出入りが頻繁にある。世界は広い、と思った。

多くの人が移動している。空は青く雲が流れ、なんの規制もなく動く人と車と風景。その時、ある感覚がぼんやりと浮上した。

それは、中学2年生のとき、グラウンドでサッカーボールを蹴った瞬間に見えた光景である。デジャブとまではいえない。ただ、グラウンドの周囲にあるお茶の垣根越しに見える低い屋根が連なる商店街の遠景。瞬間にその遠景は自分の額縁にとりこまれて収納認知された。額縁に停止したその絵画は、私の認知によって「社会」と名付けられた。言語と遠景が強烈に結びついた記憶である。これが社会か?

交差点に立った日からほどなくして、市立図書館に行ったときのこと。たいした理由もないが、なぜか吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を手にした。手にしたとき、装丁が中学時代のそれとかわっていない気がした。

中学生当時の本の内容で覚えているのは、銀座の屋上からの霧雨の風景でコペル君がなにかしら考える場面、友達のお豆腐屋さんの場面で油揚げは豆腐を揚げてつくること(これは全くしらなかったので驚いた記憶がある)、その2つである。

この本の感想文を中学2年のときに書いた。その年の晩秋の体育館で朗読発表をした。結果、賞とトロフィーをもらった。感想文の原本も表彰状もトロフィーもいまは手元にはない。本を薦めたのは当時の国語の女性教師だったと思う。すぐれた授業がそこにはあった。

交差点で見た光景、グラウンドでサッカーボールを蹴った瞬間の認知、そして、この本の内容。なぜか3つが、一つの根のよう繋がってきてしまった。

いまこの本を再度読みすすめている。中学生だった当時の自分が、そこになにを読み取ろうとしたのか。読み取ろうとした自分自身がなにを考えていたのか。それを知りたいと思う。今の自分に続いてきたのだろうという過去の当時の淡い期待がなんであったか知りたい。

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