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#109自分という庭の雑草や枝の剪定作業が必要になった。

現職の教員をはなれて、まだ多少仕事するつまり非常勤というソフトランディングの生活です。言い換えると自分でコントロールできる時間ができた。もっと言うと暇な時間がある。ただし職業がら勤勉が恐怖感のようにみついているから慣れるまでが大変で5年はかかる。

周りを見渡すと、今まで必要だとしてきた大量の資料・雑誌・本・問題集などが部屋の本棚にある。それ以外にも筆記具やら小物。都度整理でどこになにがあるかわからない状態。当然どっかにあるはずがない。

自分という庭の雑草や枝の剪定作業が必要になった。

けじめをつけて、一気呵成に捨てよう、とした。すると、時間かけて確認しながらのが良いという。捨てるのは蓄積するより難題らしい。自分の経験を捨てるようなものだし、思い出もついてくる。

自分の職業のアイデンティティも同時に捨てるということだろうけど、まだそこまで達観していないし諦めもつかない。かつて建築家の宮脇檀(故人)さんも似たようなこといってなー。建築家は「住宅」というのが現実に残るから猶更かも。

一気呵成になできないほど量も多いし、あとで後悔するかもしれない。夏の暑さでやる気も続かない。効率性でいうと一気呵成が踏ん切りが良く勇ましい。人手もいる。ただ、もう一つの効率性もある。それは、

ときに気分次第で、本を整理しつつ、棚の雑巾がけして、書類荷くくりして、アイスを食べて、床掃除して、PCうって、アイスコーヒー作って、気づいたら本を読んで、音楽を聴いて、また整理して、電話して、連絡を確認して、買い物行って、整理して論文さがして、読んで、などというように。はじめての商店街をめぐるようなものだ。これは人手がいらない。自分の気分次第で気楽だ。

なんとなく時間を意識する。

この商店街ははじめてではない。私が過去に商品を仕入れ、時間という存在が、それぞれの店ごとに商品をならべ、店番のおばさんを生み出し、ながらくそれを並べてくれて、わたしがもう一度買いに来る日を待っていた気がするからだ。これまで目の前のことが多くて訪問する機会がなかったのだが、最近ちょくちょく、その買い物にくるようになった。買い物とは、それは捨てるものの買い物だ。

そうした買い物の時間も、いつ終わるかわからない「たゆとう時間」だし、過去の時間も買い物とともに消えていく。商店街の品物も、店番のおばさんも、その時間のなかで自然と同時に消えてゆくものだ。多分、私がもう買い物は済んだと思ったときがその時だろう。それがけじめというもの。けじめが先にあるのではない。結果としてけじめがある。

若いうちは体力と気力でいろんなものを蓄積をする時間がある。向上心であり志である。いつしかそのような時間は徐々に洗練され、善くも悪くも揺らぎのある時間に変化していく。

最近の出来事。ある現役の先生から、授業やカリキュラムをつくるうえで支援が欲しいといわれた。そのときふと思ったのは、さきの商店街で最後の買い物ををする自分の姿である。買い忘れがあるとすればそれは次の人の仕事だ。