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「80%ルール」のすすめ 〜本物の学力を獲得するために〜

あれ、この記事、前も読んだなと思われる方もいらっしゃるだろうが、まったく新しい記事である(ちなみに前の記事のタイトルは「「20%ルール」のすすめ ~本物の学力を獲得するために~」まだお読みでない方はこちらを先にお読みにください。この記事はその続きです)。

先日、何気なく本屋にぶらっと入ると
『小飼弾の 「仕組み」進化論 ~生き残るための新20%ルール~』という本に目が留まった。

新20%ルール?
グーグルの「20%ルール」と関係があるのかな?
さっそく購入して読んでみると、案の定、グーグルの20%ルールに触れている。

グーグルは、「20%ルール」を従業員に課していると言われます。これは、勤務時間のうち20%を自分の好きなプロジェクトに費やせ、というものです。
 このグーグルのは先進的な取り組みのように思われていますが、これではまったく不十分だと私は考えています。
 "本当の"20%ルールとは、既存の仕事を回す仕組みを勤務時間の20%で終わらせ、80%を新しい仕組み作りに当てるというものです。

つまり、グーグルが定義する「non仕事」と「仕事」の割合20%と80%を反転させることによって、「仕事以外の時間に割り当てる時間」を80%、「働いている時間」を20%にしようというもの。
この本のタイトルにある「新20%」は、グーグル流にいえば、「80%ルール」ということになる(「新20%ルール」では混乱しそうなので、これからは「80%ルール」ということばを使っていく)。

本の内容としては納得する部分は多いのだが、この理屈は業種によってはあてはまらない(著者の仕事はプログラマー)。仮に、うどん屋が営業時間を20%に短縮して、残りの80%の時間で新しいうどんの開発などを始めようものなら、すぐに営業が成り立たなくなることは容易に想像できる。

ビジネスの世界に疎いので、どの業種において、「80%ルール」がうまく機能するのかよくわからない。だが、ひとつ、言えることがある。

子どもたちの学習の世界では、「あり」ではないかと思うのだ。

前の記事『「20%ルール」のすすめ ~本物の学力を獲得するために~』の中で、

自分の持ち時間をすべて勉強に費やすのではなくて、
目の前のテストの点数が多少悪くなろうとも、
そのうちの20%の時間は「勉強の方法を考える」ことに、
つまり「勉強の仕組み作り」に当てよう

と述べた。そのように「頭を使う」ことによって、本物の学力を獲得できるのではないかという提案だった。

しかし、今回はもっと過激な提案をしてみたいと思う。

自分の持ち時間をすべて勉強に費やすのではなくて、
目の前のテストの点数がかなり悪くなることも承知で、
そのうちの80%の時間は「頭をよくすること」に、
つまり「脳の大改造」に当てよう。

実際にそのような学習をされた方がいらっしゃる。

2008年にノーベル物理学賞をお取りになった益川敏英氏がその人だ。受賞記念講演では「I'm sorry, I can't speak English.(すみませんが、私は英語が話せません)」とだけ英語で言って会場の笑いを誘い、あとは日本語で講演を行った(史上初ということ)り、取材で記者に受賞の喜びのコメントを求められたときも、「たいして嬉しくない」と語ってみたり、当時は一風変わった学者ということでマスコミに盛んに取り上げられたので、ああ、あの先生か、と思い出される方もたくさんいらっしゃると思う。

益川氏がご自身の幼少体験を綴っている著書『15歳の寺子屋 「フラフラ」のすすめ 』から少し抜粋してみる。

最初に断っておきますが、子どものころのぼくはまるっきり優等生なんかではありませんでした。むしろ「落ちこぼれ」に近かったと思います。いわゆる「いい学校に受かるための勉強」というものを一所懸命にやったのは、高校生活もいよいよ最後というときのことです。
ですから、ぼくの子ども時代の話は、学校の成績を上げることや、いい学校に受かることだけ関心のある人たちの参考にはなりません。

ぼくは自分が好きなこと、おもしろいことしか興味を示さない小学生でした。化学や数学の本を読んだりすることは好きでしたが、授業中は別のことを考えていることが多かったし、予習復習もまったくしたことがありません。

勉強ぎらいだったぼくが、こんなことを言うのは矛盾しているように聞こえるかもしれません。でも、ぼくは学ぶことは大好きなのです。ただし、人から強制される勉強は大きらい。…先生や親に尻を叩かれてイヤイヤやらされたり、人の顔色を気にしながらやる勉強が、楽しいはずがありません。

小・中・高を通じて、ほとんど勉強らしい勉強はしない少年時代。小学生のときには宿題をしたことがなく遊んでばかりいて、もっぱら自分の好きな本ばかり読んでいた。授業中でさえも授業をあまり聞かないで本ばかり読んでいたというほどの徹底ぶり。その結果、成績は小中高を通じていつも「中の少し上」ぐらいだったそうだ。高2の終わりの時に出会った物理学の本にいたく感銘し、その本の著者が在籍している名古屋大学を目指して、高校生活最後の1年間のみ猛烈に勉強し、見事現役で受かったのである。

益川氏が最後の1年間の勉強のみで難関大学の名古屋大学に受かったのはなぜか。
ふつうなら手遅れのところだ。

思うに、高校2年までの、テストの点数を度外視した自分の好きなことばかりを追求するような学習方法(氏にとっては大量の読書)は楽しいがゆえに、結果的に「読解力」「論理的思考能力」「抽象化能力」などテストでは測定しづらい、いわゆる「見えない学力」が育っていったのではないだろうか。

そのことが受験勉強において有利に働き、受験に必要とする膨大な知識を吸収する速度が他の人と比べて桁違いに速かったのだろうと推測される。

近頃の子どもの学力が低下しているということは、ここ最近ずーっと言われ続け、
その原因は「ゆとり教育」のせいになっている。

だが、塾屋として40年間ほど過ごしているが、そうした考えに違和感を覚えるのだ。昔の小中学生よりも、今の子どもの方が勉強はたくさんしているというのが実感だ。

1970年代に青春時代を過ごした方には同意していただけると思うが、我々の世代は詰め込みの世代といわれている一方で、今から考えると、当時の子どもはなぜか時間的には結構余裕があった。

ということで、かなり遊んだ。(今と比べると)本を読む子も多かった。テストの点数だって少しは気になったが、今の子ほど外から強い圧力をかけられているわけではなかったし、また、うっかりたくさん勉強していることがまわりに知られようものなら「あいつはガリ勉だ」と軽蔑されるような時代だったから、ほどほどにやっていたという感じだ(だから前回提案したような「勉強の仕組み作り」が必要だったのだ。少しの時間で最大の効果が得られるような)。

「あまり勉強していない昔の子どもたち」の方が「学力が高く」て、「たくさん勉強している今の子どもたち」の方が「学力が低い」といわれるのはなぜなのか。

勉強の仕方が根本的にまちがっているとしか思えないのだ。

テストの点数のみの追求では、大きな才能は育たないのではなかろうか。

益川氏も現代の教育に関して、SAPIOという雑誌に次のようなタイトルで記事を投稿されている。

「僕も銭湯帰りの父に“好奇心の種”をもらった 親と学校は子供に「考える力」を身につけさせよ」

こちらの記事からも抜粋してみよう。

子供が“いい学校”に行くには、入試に合格しなければいけない。そのために試験の成績を良くすることが教育だと信じている。そういう風潮を作ったのはお母さん方だと思います。だけどそれは本当の教育じゃありません。お母さんは教育熱心というのではなく、教育“結果”熱心なだけです。

とにかく学問を楽しもうという気持ちにさせることが大事。それがあれば子供は自分で学んでいきます。しかし今の教育はそうなっていません。

教育現場では好奇心を羽ばたかせられる自由な雰囲気を大事にしたい。少し変なことをやると「そんなバカなことはやるもんじゃない」とか「お前はアホか」と言うような風潮はいけません。学生は興味のあることだったら、どんなことでも夢中になって取り組んでもらいたい。学びの中で感性を磨いていくことが大事だと思います。

大学でも、昔はほとんど授業に出なくても試験だけはちゃんとできる奴がいて、周囲を驚かせたものです。自分が好きな分野なら1人でもとことん考えて勉強する。これに比べると今の学生はほとんど横並びで平凡。型破りな学生が少なくなっている。

いい先生に出会う機会を増やすために、僕に一つの提案があります。70年代の旧ソ連の数学教育をヒントにしたもので、大学を定年退職した教授の方に高校のクラブ活動を指導してもらうというものです。たとえば数学クラブでは、高校生には難しいレベルだけれど、少しヒントを与えれば分かっていくような種類の問題を提示して研究させる。子供が「え、こんな難しい問題が解けるの?」と夢中になれば、それが将来的に数学という学問に繋がっていくはず。試験で点数を取るためではなく、学問そのものに興味を持ってくれると思います。

最後にはアイデアやひらめき、工夫などがモノを言う。これは学問の世界に限ったことではないでしょう。だからこそ子供の頃から「考える力」をしっかり身につけておくことが重要なのです。

昔はハチャメチャでも何かしら許される部分があったし、そのハチャメチャさゆえに規格外の大物も育ってきた。しかし、今はいろいろと管理され、自ら楽しむための学びではなく、テストで良い点数を取るためだけの強制的に課せられる勉強に時間の大部分を費やしている子どもが多い

これから日本はどうなっていくのかという嘆きが益川氏のことばの中から聞こえてくるようである。

氏のこれらのことばの中に、これからあるべき教育改革の方向性が示されているように思う。だが、残念なことに、実際の教育改革は正反対の方向を向いている。ということで、教育システムには期待できない

特に、才能ある若い人は、現行の教育システムの中で、才能の芽をつみ取られる前に、自分の手でなんとかしなくてはいけないのではないかと思うのである。

先行きが見えない社会不安ゆえに、せめて目の前のテストで結果を求められ、現在ますます加速度を増して、中・高校生が点取り競争に奔走している。何も考えることなく、点取りマシーンと化して、ひたすら勉強し続けているのが今の中・高校生である。

このような方法で、短期的によい点数を取り続けても、「長期的に社会に出て活躍できる人間」になることができなかったら、将来ある時点で、後悔することになると思うのだ。

だから、あえて今の中・高校生に提言したい。

どうだろうか。

益川氏に見習って、手持ちの時間のうちの80%は「これまでしてきたような勉強」としての時間には使わないということを試してみたらいかがだろうか

80%の時間は「これまでしたことのないことをする」時間にあてる。

大量に好きな本を読んだり、

好きなことについて徹底的に調べたり、

NHKのスペシャル番組を見たり、

講演会に足を運んだり、

気になる映画や音楽を鑑賞したり、

疑問に思うことは多少専門的になってもとことん調べてみたり、

そのようにして、まわりのすべてのものから
楽しみながら吸収していくうちに
確実に、頭が良くなっていくと思う。

このように、ふつうの勉強を始める前に、独自の「脳の大改造をする」という
効率の悪い方法のよさが現在こそ、見直されるべきではないか

これまでのように、いい点数を取りにくくなり
君たちの親や先生を激怒させることはほぼ確実だが
長期的に見て、将来君たちが大きな仕事をできる可能性が飛躍的に高まる方法だ
と思うのである。

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