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母であること 私であること

「あと1ヶ月と少しで母になる」というnoteを書いてからまさに一月後、ドイツで無事に子どもを出産し、50日ほどが過ぎた。出産がすでにはるか昔のことのよう。

新しい家族を迎えての日々は、昼夜関係なしの授乳、オムツ替え、泣いてはあやし、たまる洗濯ものをこなして過ぎていく。曜日の感覚はどんどん薄れ、外の空気を吸いに出ることもあるけれど、寝間着のまま1日を終えることも多い。

分娩した病院でのこと、子育てにあたってのドイツの社会保障制度やそれを説明してくれるFamilieplanungszentrumという行政施設で受けたアドバイス、家に来てくれている助産師さん(ドイツ語でHebamme(ヘバメ)という)とのやりとり、なにより新しい命のかたまりと過ごす日々のなかで感じたことなど、書き留めておきたいことはたくさんあるのに、その時間を確保することが難しい。我が子は昼間にあまり寝ないのでなおのこと。常に「いつ起きるかな」と思いながら、細切れの時間をかき集めてこれを書いている。

なので、noteを再開するにあたって、いま一番胸にとどめておきたいことだけ。

先日、20代後半を過ごしたデンマークの小さな島で母のように慕っていた方に、「誕生日おめでとう」のメールを送った。ドイツに来たばかりの昨年の夏は久しぶりにデンマークに行って会うことができて、その後、妊娠したことや近況を伝えていた。

春先に高齢だったお母さんを亡くした彼女の近況が綴られ、我が子の誕生を喜んでくれているメールの最後、All the best wishes for youに添えて

"Don’t forget sometimes just to be you."

とあった。

「時にはあなたであることを忘れないで」

ドイツに来て以降、家族以外に属するコミュニティはなく、社会の中でのアイデンティティを見失いがちだった私にとって、子どもの誕生は「母親」としての役割を与えられた気がしていた。正直、その役割を果たすことで、ここにいる意味を見出そうとしていた面もある。

実際、子育てに追われていると、自分が分からなくなる感覚がある。一人の時間がほしいと渇望するのに、「私は何がしたかったんだっけ」と、ふと空いた時間の使い方に迷うことすら。「母」としての時間は使えるのに、個人に戻ると分からない。私自身、自分を見失ったような感覚になっていた。

子どものことだけで終わる毎日も、きっと数年もしたら変わっていく。今は私の腕の中で抱かれておさまっている小さな我が子も、自分の世界をひろげていくだろう。その時、母である私はどうする?

小さな成長一つ一つをもれなく記憶に残したり書き留めておきたい気持ちと、早く大きくなってほしい気持ちが行ったり来たり。

母になっても私は私。可愛い子どもの成長を楽しみつつ、私の人生を生きなくてはいけないなとの気持ちを新たにした。

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