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モノクロ写真ってなんなん!?(改訂版)

えー⁉︎ こんな写真しか撮れないでカメラ機材だけ最新なおっさんが写真の先生とか言って嘘教えているのー⁇ という方から「名誉毀損だー!弁護士に相談したから記事削除させろー‼︎」というキモイおっさんならではな訴えがnoteに寄せられてきたようで、闘いますか?という法務部からのお尋ねに、一度は下書きに戻したものの、このモノクロ考察記事は面白く、消されてしまうのは残念という一部のマニアの方からのご意見で背中をを押してもらい、改訂して再公開(最高かい⁉︎)させて頂きます。

なぉ、普通のマンションをスタジオだと言い張っているライティングも知らない自称先生は一切関係ありませんので向こうに行っていて下さい。

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写真を撮り始めて45年、生業にしてから36年、いまだにモノクロ写真の定義がわかりません。

もちろん、モノクロ写真の良さはわかります。それこそお金のない若かりし駆け出しの頃はモノクロフィルムでしか撮ることしか出来なかったのだから、嫌っていうほどモノクロ写真はわかります。しかも自分でフィルム現像して紙焼きまでしていたのだからモノクロ写真というものはいちよ知ってはいます。ただ、カラー写真全盛、フィルムという物体的なモノの時代を越えて、カラーだからと言って余分にお金かからない今の世の中においてなぜモノクロ写真にしなければいけないのか!?を考えたのです。

そこには『モノクロ写真が似合う絵』とそうでない絵があるということがわかりました。

昔、カレンダーを作った時に印刷所からレイアウト見本として上がってきた校正紙出力がモノクロ状態(当時カラーインクを使うと校正で余計にお金かかったから・苦)で、そのモノクロ校正紙を観て「いいねぇ〜」という変な方向に編集者とデザイナー、そしてボクで意見が一致してしまい、勢いでモノクロバージョンも製作販売することになったこともありました。

売上もそこそこあったのですが、全面的に写真を使用してのカレンダーのそれは、堀の深い顔をしている外国人はマッチしてはいたものの、日本人を使った月はなんだかパッとしませんでした。つまりはバブル終盤の景気に載っかって勢いで作ってしまったものの、モノクロにした状態で「モノクロいいね!」にはなったのですが、その時も「だからといってカラーを止める」ということではありませんでした。

しかもモノクロ写真と言えば、なんといってもライカでしょう。今のボクのメイン機材はレンジファインダーのライカ2台体制。マニュアルフォーカスです。ピントすらなくても「なくていい」写真が撮れてしまうライカです。

ライカはピントなくていい。色もなくていい!?

ライカの写真展を観に行くと、そのほとんどがモノクロが多い。しかもカメラ自体もモノクロしか撮れないヴァージョンすらあるのです。銀座ライカの某写真展はモノクロ写真であり、モノクロではないと意味をなしていない写真展です。つまりはカラーにしたら撮影者のフレームも撮影意義もなんもなく、ただシャッターボタンを押しただけのような写真だったりします。

簡単に言ってしまうと、企業のモノクロ印刷製品依頼仕事の写真展(企業依頼で企業がギャラ支払い)であり、カラーでは仕事になっていない写真展、いや、むしろこれらをカラー写真にしたら内容が無さ過ぎてつまらない写真展であることがバレてしまうという点に尽きる写真展なのです。

安くはないギャランティーが発生しているこの企画写真展、誰が撮ったなどということは考えずに展示されているものを1枚1枚脳内でカラー化してみるとつまらなさとともに見えてくるものがあります。

それらの写真は誰が撮影したものであろうが、カラーであろうが、大きかろうが小さくてもつまらないものはつまらない(苦)。するとモノクロでもこれらの写真のつまらなさが良くわかってしまい、モノクロの意味(注:この方の他の写真もあまり目にした事もなく意識して観たこともない)、ここから導き出されるのは、モノクロにしたらつまらない写真がそれなりに意味が有る様に誤魔化され、すぐにつまらないとわかるのではなく、「面白いのか!?」という少しばかりボカして考えて観る姿勢になれるということなのです。

まぁ、日本ではそれなりに名前の通った方々は写真内容ではなく「いいですねー」と何がどのように良いか曖昧な賞賛がなされています。悪しき伝統。

裏を返すとこの企業も人選においてやっちゃいました。これだったら旦那さんにお願いした方が安く済んだのに(大汗)

モノクロ写真を脳内でカラーにしてみるということをかの有名なマグナムフォトの連中の写真でやってみたことがあるのですが、その時ばかりはこの結論には行きあたりませんでした。だからモノクロ写真がすべてつまらない写真を誤魔化す為というわけではないというのは、その時にわかってはいたのです。ただあまりにもモノクロをなめている今回の写真展(笑)、その企業が残念で、つまらなさを誤魔化すためには良い手段なのかなぁ〜そうかもしれない!と思って改めてそういう目でみさせていただいた次第です。

しかし、あまりにも良い写真だとモノクロ写真というより世界的にも有名になるようなこれまで歴史上の中で撮影されてきた「その写真」が前面に出てしまうのを危惧した企業の人選だったのかもしれません。それを証拠に、この方の写真をずっと観ていると飽きが来てしまいます。歴史的に「おの写真」にはなる事が出来ないやはりつまらない写真だったということは間違いない様です(個人的感想です)。

ある方の写真展、ボクも含めて皆一様に「モノクロ写真展」だったと感違いしている写真展がありました。それほどまでに「いい写真展だった」という曖昧な感想しかされていない、褒めているのどうなのかすらわからない、内容のない写真展は色があったことすら入って来ておらず、記憶にも残っていないのです。ボクもこの写真展被写体に言われるまでいわゆるモノクロだけで構成されていると記憶していました。マンデラエフェクトによりモノクロ写真。

では、色を抜いた写真に求めるものは何でしょうか。

ピントの甘いソニーのカメラの誤魔化しで一時的な流行をみせたカリカリの色ド派手な写真も、日本は一足遅れていますが、世界的には落ち着いてきました。こんな感じの気持ち悪い写真を見ないで済むに越したことはないですが、色彩的にはその真逆ともいえるモノクロ写真、しかし実際はコントラスト高めのカリカリに近い黒の締め方をしている傾向が多いのです。昔は印画紙の特徴特性で黒を閉めたり柔らかくしたりしていたが、今はやはりアプリなのでしょうか!?ライカのオリジナルモノクロはあそこまで黒くはありません。昨今「いいね!」の数だけ狙っている輩はカラーをモノクロ化しただけで深くは考えていないみたいですが・・・。

困った時のGoogle先生に尋ねてみると、カナダ在住の風景写真家さんを紹介してくれました。しかし、いやいやどうして言っていることが実践を伴っていません。あなたの写真もカラーではないと成り立たない。作例もカラーの方が良いと思うのです。ただ単にモノクロにしただけの頭でっかちな論理と写真にしか思えません(汗)

もうひとりストリートスナップの方で、カリカリモノクロ。最初の1枚でキター!と思ったのですが、それだけでした(苦)。悪くはないけど、カラーでもいい味出てそうな写真、なんだか『訳わからないのが芸術』みたいな理論が絵に出てません。

まぁ、そういう感じでモノクロ写真の定義にボク自身も埋もれかけたところで、モノクロにうるさい『IMA』を読んでみました。

色にあふれた現実世界がひとたびモノクロ写真の中に閉じ込められると、そこには新たなイメージが現れる。黒と白の諧調だけで、時に現実よりももっと雄弁に、奥深く真理に迫って行く。だからモノクロ写真は古びることなく撮る側を、観る側を、魅了し続けてきた。丸ごと1冊モノクロ写真特集となったIMAVol.14では、「シャーロット・コットンの現代モノクロ表現論」を掲載。拡張する表現の最前線をとらえた評論とともに、白黒写真の定義を更新する写真家4名を紹介する。
文=シャーロット・コットン
翻訳=宮城太
本文より

要するにモノクロは本を売るための宣伝(爆)

テクノロジーに明るく、自由な時間を持て余すアマチュア写真家たちは、郷愁に満ち、完璧な様式美を備えたモノクロ写真の力作を、デジタル技術を駆使し生みだします。エプソンなどの企業は、感傷的にならずにイルフォードなど万人に好まれていた銀塩印画紙を淘汰しながら、豊かな白黒の階調と銀塩紙の質感を再現した代用品を高度な技術で生みだしています。
本文より

やはりこれぞ本質という感じです。売ってこその売れてこそのモノクロ産業。要はノスタルジーを伴った商業主義の申し子。前出の撮影者を起用した企業がまさにこれ! お金の新しい集金元としての存在としてのモノクロ定義。

ソフトウェアが媒体の役割を果たす今日の文脈において、黒と白は写真における表意記号となっており、それは限りなくシンボリックな「素材」と呼べるものに近いでしょう。まるで手品師にとってのシルクハットと燕尾服のように、白黒写真を目にすると、観る者は、「写真家」のペルソナについて考えるよう促されます。職人技というイメージと、伝統的な物質性と技術へのこだわりを想起させます。だからこそ、このような類いの写真的「扮装」を若い作家が採用することは、見事な倒錯といえるでしょう。なぜなら彼らは、確信犯的な抵抗を胸に抱きながら、遊び心を持って、写真表現と呼ばれる分野と向き合っているのですから。
本文より

結論としては、下手な奴がモノクロ写真撮ったら「うまいのかも!?」と一瞬思わせることができる。しかし実際のところ、白と黒(その実グレーの濃淡が決めて)だけで構成されているだけで、例えるなら赤と黒だけで構成されている絵となんら変わりはしない(もちろん白と黒の方が落ち着いた絵ではある)選択肢の一つであるというだけなのかもしれません。

その昔、裁判しようかと言うくらいの酷いことをされて、対人恐怖症からくる「世の中の色が消える」という風景をしばらく観てきた身でした。そんな身としては、なんだかモノクロの世界に魅力は感じづらいのボク個人なのです。

『色のある世界は素晴らしい』

そしてそれを逆手にとって感情を殺させる様な写真にはモノクロ写真を使う様になりましたが、ボクも上記の商業主義的なモノクロ写真は自覚できるのですが、本質の部分、定義の部分はたぶんこれからも結論が出ることはなくとも悩み続けていくのだろうとは覚悟しております。そして同時にみなさんそれぞれの考えを読ませていただくことが楽しみなのです。写真巧い奴って感性で巧いから、定義づけしてくれないし説明できないんだよねぇ〜(大汗)

また新しい定義が見つかりそうになったら描きます。続きます!

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