本居の読み方。その神学を大事にする。

 私がいま考えていることは本居の神話研究の成果を受けとめ、それを発展させることにある。もちろん、その基礎にあった本居神学の思想自体を体系的あるいは思想史的に考えることは重要ではある。しかし、これについては、私は子安宣邦や東より子の見解以上のものはもちあわせていないので、ここでは本書の内容に接続するところの多い東の著書『宣長神学の構造』(一九九九)の参照を御願いしておきたい。

小林秀雄の本居論について

 しかし、本居の仕事をどう受けとめるかという限りで、少しのことを述べておけば、『古事記伝』(巻一)の「古記典等総論」には「此記(『古事記』――筆者注)は、いさゝかもさかしらを加へずて、古より云伝たるまゝにきされたれば、その意も事も言も相称て、皆上代の実なり。これもはら古の語言を主としたるが故ぞかし」とある。本居はともかく『古事記』を事実として信じろというのである。
 これはテキスト批判を職分とする歴史学者にはきわめて評判が悪い。しかし、これは、まず『古事記』を神道の「聖典」として扱い、『古事記』に描かれた神秘を事実と受けとめるという宗教者としての信念であり、たとえばキリスト教神学を含む、どのような神学においても前提となることである。本居はその神道者としての信念によって『古事記』を「古より云伝たるまゝ」のものと信じ、それによって『古事記』の全体を深く読み込む集中的な心のあり方をもった。それは神学者として当然のことである。それ故に、それを認めたところから出発しなくては、そもそも本居『古事記伝』の構造を読むことはできない。私は、その意味で小林秀雄が次のように述べているのは正しいと思う。
恐らく、彼にとつて、物語に耳を傾けるとは、この不思議な話に説得されて行く事を期待して、緊張するといふ事だつたに違ひない。無私と沈黙との領した註釋の仕事(傍点筆者)のうちで、傳説といふ見知らぬ生き物と出會ひ、何時の間にか、相手と親しく言葉を交はすやうな間柄になつてゐた、それだけの事だつたのである。
 小林がいうように本居の仕事はようするに注釈であり、「相手と親しく言葉を交はすやうな間柄」をもつための作業であり、「無私と沈黙」の中で「見知らぬ生き物」としての古語を受けとめることである。現在では研究の蓄積が進み、言語学研究も大きく進展していて、研究者はそれらの恩恵をうけることができるから、必ずしもそのような心意を必要とはしない人もいるだろう。しかし、だからといって宣長の宗教的心意を無用のものと無視するようなことがあってはならない。『古事記伝』の構造が分かってくると、本居が論題を見きわめながら展開する強靭な思索がみえてくる。それは歴史理論や神話理論ではなく、神道者の神学的信念にに支えられていた。私は神道の信者ではないが、神話を読み解こうとするとき、それと相似した心意をもたざるをえないようにも思う。

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